ちょっと調子に乗ってバレー部でも無いのに華麗なスライディングを披露したら、腕に受けたバレーボールの衝撃が予想以上に強烈でバランスを崩した。体育館の床に右の膝をぎゃりぎゃりと擦り付けてしまったが、痛みを堪えて何とかトスを上げることに成功した。クラスの女子からはめちゃくちゃ感謝された。何せ点差の開きが無く、そのわたしのトスを受けたバレー部のエースによって放たれたえげつないスパイクが、勝利の決定打となったのだ。わたしはクラスの英雄扱いである。加えてスパイクを決めたバレー部のエースからは熱い抱擁をいただいた。大きくて柔らかな胸に顔を埋めることができてとても幸せだった。

「言い訳はそれだけか」

 そしてお前はナチュラルにセクハラするのを止めろ、と消毒液を浸した脱脂綿をピンセットで摘んで、わたしの右膝に押し当てて、柳が言った。右膝は惨劇である。体育館の床は摩擦力が強く、皮膚は軽い火傷状態かつ、体育館に入り込んでいる微量の砂の所為で若干の流血。じんじんぴりぴり痛む傷口に対して、柳は適切な処理を施してくれている。六時間目の体育の後はすぐSHRがあるから、保健室に行く暇が無かったのだ。
 そんなことよりも部活が始まってしまうから、とわたしは急いでジャージに着替えて部室へと向かっていたのだが、部室までの道のりで偶然切原に出くわしてしまい、運悪くもハーフパンツを着用していた為にわたしの膝の惨状はモロ見えで、ぎゃあとわたしよりも痛そうな悲鳴を上げた切原に反応して何処からともなく柳が現れてしまったのだった。そして冒頭に戻る。

「体力には自信あるんだけどなあ」
「お前には向かないな」

 またあっさりと柳はそう切り捨てて、傷口より僅かに大きく切り取られたガーゼを膝に固定した。包帯は勿体無いからいらない、と言うと、テープの量が倍になるが、との返答だった。わざとだ。包帯なんざ大怪我の時に使用するもので、この程度の傷には必要ないのに、実は柳は立海でも指折りの頑固者だから、一度言い出すとなかなか折れない。しかも柳の言うことは大抵が正論なのだ。だから折れないんだろうけれど。
 柳の長い指がわたしの膝の裏をくすぐった。思わず身を捩ってげらげら笑い転げるわたしを見て、柳は呆れたように息を吐いた。わたしの反応はお気に召さなかったようだ。そりゃそうか。ここはちょっと色っぽい展開になるとこだな、うむ……

「冷静な思考は大切だが、時と場合を考えるべきだな」
「スミマセン」
先輩って実はバカっスか?」

 柳の後ろから、まるで自分が怪我をしたみたいな痛々しい表情でこちらを窺っていた切原は、傷口が包帯で完全に覆われたのを確認するなりけらけら笑った。ンだとこのワカメ、と言って保健室を血の海にするのは避けねばならぬので、わたしは深呼吸してからにっこり笑ってみせた。

「おー切原、あんただけスポドリじゃなくて水道水でも良いんだよ」
「やっ柳先輩! マネージャーが苛めてきます!!」
「赤也、お前の指摘は強ち間違っていないから安心しろ」
「……柳に言われるとほんと傷付くね」
「そうだろう?」

 胸を張らんでほしい。愉快そうにこちらを見やる切原の腹立たしいこと。もっと先輩を立てろお前は。いや別に、たった一つの学年の差がそんなに偉いとも思えないのは確かだが、だからといって後輩にバカ呼ばわりされて黙っていられるほどわたしもお人好しじゃない。ていうか切原にバカって言われるとかよっぽどじゃないか。腹立ってきたぞ。
 柳はふっと小さく笑って、わたしと切原の頭を撫で繰り回した。柳にとってはわたしも切原も同等なのだろう。手のかかる子供でどーもスミマセンネ、なんて言ってやれば、頭からその大きな手は離れていった。そういうつもりじゃないと言いたいのだろう。柳は割とはっきり物を言うタイプだが、わたしに対しては些か言葉が足りない気もする。勝手にこちらで補完しているので、特に問題がある訳では無いが。
 不思議と、柳とわたしの間に誤解が発生することは無い。

「赤也、すまないが先に部室に行って準備を始めてくれるか。俺とは業者に頼んでおいた備品を受け取ってから向かう」
「りょーかいっス!」

 じゃ、先輩、お大事にー。柳の言葉には従順に、それこそ背中に羽が生えたみたいに保健室を出て行った切原の後姿を見送ると、膝の痛みで現実に引き戻された。包帯がガーゼを少し圧迫した所為だ。まだじゅくじゅくの傷口を想像して更に痛くなった。考えるのをやめよう。

「歩けるか」
「歩きますよ」

 柳の手当てが間違っていたことは、今のところ無い。適切な処置のお陰で、今回も綺麗に治るだろう。跡形も無く。そもそも傷など存在しなかったかのように。

「もっと大事にしろ」

 保健室を出るなりそう言われて、わたしは柳を見上げた。一年生の時はわたしが柳を見下ろしていたのに、すっかり可愛らしさが抜けてしまって悲しい。綺麗さは相変わらずだが。肩の上の辺りで整えられていた髪が懐かしい。あの、下手したらその辺の少女より絶対可愛かった柳をもう一度見たいものだチクショウ。

「大事に?」

 何を、と正面から問うと呆れられるのはいつものパターンだ。柳もそれを分かっていて、わざとそんな発言をしたのではないかと勘繰ってしまう。無駄に終わる。柳の思考と徒競走だなんて、幼稚園児とオリンピック選手が並んでいるようなものじゃないか。

「大事にしたいと言えば、思い出かな」

 ふと勝手に口から零れた言葉に、話が反れたことを敢えて気付かない振りをした柳がほう、と少し楽しげに首を傾げた。いま仮に柳の身長が縮んで髪が伸びてたら、わたしはタックルをかます勢いで柳を抱き締めていただろう。竹の子みたいににょきにょき伸びやがって、ある意味勿体無い。

「姉が言ってたんだけどね、中学も高校もその当時は終わりなんて見えないように思うけど、人生のうちのほんの僅かなんだぞって」

 柳はその通りだろうな、と頷いた。そうだ、見た目じゃ全然あれだが、この男だって中学三年生なのだ。知らないことだってまだまだあるだろう。一般的な中学生からは大きく外れていると思うけど。

「歳を重ねるごとに、一年の長さの体感は段々短くなるからな」

 うちの姉もよく言うよ、と柳は苦笑した。
 廊下を歩く柳の上履きの先は相変わらず綺麗で、ちゃんと定期的に家に持ち帰って洗っているんだろうなあと思った。わたしの上履きは先月持ち帰ったところだが、既に側面が少し汚れている。何故上履きは汚れるんだろう、別に外で履いている訳じゃないから砂埃の影響も無いはずなのに。

「教室や廊下の埃の影響はあるんじゃないか」
「そうなのかな」

 ……。柳さんが人の精神を勝手に覗いて、尚且つ思考の手助けまでしてくださった。何でもお見通しなのか、そうか。今更ではあるがわたしは今、自分が声に出していたかどうかを疑ってしまったよ。出してねえよ。
 昇降口で部活用のスニーカーに履き替え、ぴりぴり痛む膝のことをあまり考えないようにしながら職員玄関へ向かう。備品の受け取りは職員玄関の横の事務室で行う。今日届いたのは練習球と部室の蛍光灯だったはずだ。
 事務のおじさんにテニス部であることを名乗り、伝票をチェックさせてもらう。柳は軽そうに練習球の入った段ボールを持ち上げて、蛍光灯が入った細長い段ボールをこちらに寄越した。事務のおじさんが「女の子も偉いねえ」と褒めてくれたので気分が良い。単純である。自覚済み。

「こうして荷物の受け取りをするのも、数え切れる回数しかないということだな」

 ふふ、と柳が笑う。何かおかしいことあったっけか。ぼちぼちな重さの蛍光灯達を抱えて職員玄関を出て、今度は部室に向かう。肩にスクールバッグの持ち手が食い込んでくるが、柳のラケットバッグは全然重そうに見えない。入ってる中身はあちらの方が多いはずなのに重そうに見えないというのは、姿勢の問題なんだろうか。
 数え切れる。全国大会はあっという間に来るし、引退するまでの練習日だってこうして一日ずつ消えていく。柳と一緒に仕事をするのも、言われてみれば有限のことだ。

「良い思い出に越したことはない」

 柳は少し歩く速さを落とし、真っ直ぐ部室を見据えて(その目蓋が上がっているか知らないけど)、勝手にわたしの言い分を補足しているようだった。たった三年間、十五年生きてるうちの三年間を共有しただけでこうなるのだ、もしわたしが柳の幼馴染だったら思考パターンが完璧に明かされているに違いない。

「ん? 中学を卒業したら終わりにするのか? 延長すれば良いじゃないか」

 さも当然、というような口振りで、柳は段ボールを片手で抱え直し、部室のドアを開けた。中は無人で、グラウンドでは既にウォームアップに入っている部員がちらほらいる。段ボールを床に置いて、長椅子の上にスクールバックを落とした。柳はロッカーに荷物を置き、ブレザーを脱いでネクタイを緩め、いつも通り着替え始めた。
 延長戦なんて、考えてなかった。先のことを考えるより、今目の前にある問題を片付けることが重要だと信じて疑わなかったためだ。柳の視野は広い。わたしの考えなど、本当は数年先まで見透かされているのかもしれない。

「……どこまで?」

 ぽかんとするしかないわたしが発せられた言葉は、それが精一杯だった。早着替えの達人でもある柳は、今直ぐにでもグラウンドに向かえる状態になっていて、これもいつも通りだった。

「どこまでが良い?」

 質問を質問で返す反則技もお手の物だ。芥子色のジャージを纏った柳の手には、いつも通りのノートとシャーペンがある。九回の裏はやってこないが、そんなの当たり前だった。

昼顔の傍で

140321|あおこさん、リクエストありがとうございました