バケツを引っ繰り返したような雨の中、最早無意味だからと一人でとぼとぼ歩いていた。任務明けの日は節々が軋むから、もう老化が始まったのかとひっそり嘆く。まだうら若き十代だというのに、淀んだ空の下でわたしは一体何をしているのだろう。尋ねて返してくれる人もここにはいない。とりあえず里に戻って、さっさと風呂に入って寝よう。思考が空模様に影響されるのも今更なのだから、無駄に考え込んでもどうしようもないのだ。
 全身くまなくびしゃびしゃで、一歩踏み締める毎に靴がぐちゃっとした音を立てる。雨の中で足音を消す元気も勿論なく、目の中に雨粒が入ってこないように少し俯いて歩く。あんまり意味が無い。睫毛が濡れて目に刺さって痛い。
 里の城門が見えてきた。あと五分も歩けば里の中に入れると思うと、一気に足が重くなった。めんどくさい。誰か運んでくれ。担架で頼む。溜め息すら掻き消される空気の中、どうせ紛れると思って目を擦った。鼻水は誤魔化せないから、一生懸命鼻を啜る。

「馬鹿」

 唐突な、静かな罵声はこの暴風雨の中、不思議にもよく通った。声の源泉へ視線を向けると、わたしの赤い番傘をさした男が、城門の麓に仁王立ちしてこちらを睨んでいた。玄関に置き去りにしていたその番傘は、こんな雨の中でもきちんと職務を果たしていた。

「ばかって」

 白く濁った視界の中、はは、と笑い声が乾いた。湿度百パーセントと言っても過言でない状況で、わたしの喉には湿気が無いのも不思議だなあと思った。男はその場から一歩も動こうとしないので、わたしが歩くしかないのだろう。そろそろ二の腕とか肩とかが冷えてきた。このままじゃ風邪をひくと分かっているのに、鉛を仕込んだかのような重みのせいで動く気にならない。

「遅い」

 恨めしげな声音で、ネジはそう言った。そんなことを言われても、もう体力なんて擦り切れて残り僅かで、忍と言えども速く歩ける訳がない。わたしの体力がないからだって? 途中でAランクからSランクに格上げされた任務に出ていたんだから、多少の言い訳には目を瞑っていただきたいものである。とりあえず五代目さまが悪い。
 そもそもこの状況下で、誕生日プレゼントを差し出す方がおかしいだろう。まず濡れてない部位が身体に見当たらない。なんて自己中心的なんだ、せめて傘貸して。
 髪の毛が首筋に張り付いて鬱陶しい。鼻先をぽたぽた滴り落ちる水滴もむず痒い。視界も不明瞭だ。何もかもが不快に感じられる。こんな冷水のシャワーじゃなくて、あったかいお風呂に入ってから冷えた飲み物でも口にしたい。そうだ、銭湯に行こう。湯上りはコーヒー牛乳。
 ああ、もう一歩を踏み出すことすらこんなに苦しかったのか。
 雨は一段と強くなった。肌を叩く粒は大きく、ばちばちと音が鳴った。景色はますます白く濁り、その中でも番傘の赤色だけがやけにはっきりと見える。ネジは動かない。が、わたしがあまりにも死にそうな顔をしているからかどうかは分からんが、一つ大袈裟な溜め息を吐いて、傘を握っていない方の手を差し出してきた。

「濡れるよ」
「こんな暴風雨の中で待っていて、濡れない訳が無いだろう」
「それもそうだね」
「ああもう、」

 舌打ちが飛んできた。相変わらず日焼け止めを塗っていないくせに白い手が、びしょびしょになってしまったわたしの手を掴んだ。次いで自分の周りだけ、雨が止んだ。傘の外は未だ刺すような鋭さを持った雨粒が落下している。
 赤い影の中、隣に立ったネジはカルシウムが足りていないのか、非常に苛立った空気を隠そうともしない。煮干し食えよ。そしてできたら手拭いをください。

「さっさと歩け」

 鬼か。

「鬼はお前だろう」

 え? と返したわたしに、ネジもえ? と返した。いや、任務に出発したのはネジの誕生日の一週間前で、だから任務の帰り道の行き着けの茶屋にプレゼントを預けて、それを受け取って返ってきたのだ。丁度今日がその誕生日当日のはずだ、それでもって今の時刻は昼だ。そこまで怒ることか? 寧ろこれだけ急いだことに対して優しい言葉の一つでも、というのは贅沢なのか?
 不思議そうな顔をするわたしを見て、ネジは何か言いたそうに口ごもり、もやもやとした顔をしてぐっと口を一文字に結んでしまった。ああ、機嫌を損ねたか。意外と子供っぽいんだから。

「……大方、幻術にでも掛けられたんじゃないのか」

 ネジは肩に掛けていた鞄の中から柔軟剤の良い香りのする手拭いを取り出し、わたしの顔面に押し付けた。ああっふかふかの手拭い最高。文句を垂れながらも、結局甘やかしてくれるこの男の優しさには、つい容易く溺れてしまう。わたしは悪くない。

「あ、まあ、うん、苦労しました」

 幻術の才能がからっきしなため、幻術使いが敵にいると一気に地獄を見る。今回も一人、めんどくさい幻術使いがいたので、小隊のメンバーが憐れみの視線をくださった。そんなもんくれるくらいなら、幻術返しの力でも貸してほしい。
 わたしは手拭いでびしょびしょの手を何とかして、懐から小包を取り出した。上品な小花が散らされている懐紙でできた小包は、雨にも負けない丈夫さだった。安心した。これなら中身も濡れてないだろう。

「とりあえず、おめでとうございました」

 目標、完全に沈黙。
 えっ何か地雷踏んだ? 仏頂面の男がいつになく恐ろしいので、わははと笑ってみせた。鬼も地獄まで逃げ出しそうな視線が刺さった。そして、深く息を吐いて、地面を睨み付けるように視線を落としたネジは、低い声で言った。

「一体、何ヶ月前に俺の誕生日が終わったと思ってる」

 …………あ?
 傘の下、歩き出そうとしたネジとは違って、わたしの足は動かなかった。何? 何ヶ月? そういやネジ髪の毛伸びた? ちょっと日焼けして肌が赤くなってるなあと思ったのは、見間違いじゃなかったのか。え? 一ヶ月? 三十日? それを超えて?
 何ヶ月? 何ヶ月って、何ヶ月? 何?

「ちょっと待ってわたしは今混乱している」
「幻術でどれだけ幽閉されていたんだろうな、この馬鹿!」

 ネジの手が強くわたしのを握って、引っ張った。もう歩きたくないと叫ぶ足を引き摺って、わたしはネジの隣にいる。形の良い耳が長い髪の間から覗いている。ネジだ。確かに隣にいる。僅かな体温を感じる。足元で跳ね返る雨粒の冷たさも分かる。
 確かに、小隊の皆は既に近くにはなかった。任務がどうなったかよく分からない状態で、とりあえずわたしは一人で目的物を抱えて帰ってきたのだった。目を覚ましたら敵が消えてたからこっそり脱出してきたのだが、背筋がずっと寒かったのは、風邪をひいているからではなかったのか。
 死んだかと思った。蚊の鳴くような声がした。何て弱弱しい音だろう。そして勝手に殺すな、縁起が悪い。わたしは布団の上で死ぬために頑張って任務こなしてるのである、赤子の手を捻るのと同じくらいに容易く疲れるが、あっさりと死ぬつもりもない。ネジが今にも舌打ちを噛ましそうな表情でわたしを見下ろす。

「死ぬために頑張るか。現実的だな」

 リアリストを名乗るネジに言われちゃおしまいである。最早くすりとも笑わないネジの体温を奪おうと、わたしはその長い髪に手を差し入れた。もんのすごく嫌そうな顔をされた。傷付いた。

「っ、誰のせいで」

 眉間に深い谷を形成して、息を止めたかと思うと、寸でのところでネジは堪えたようだ。勝手に髪の毛をいじくるわたしの手を封印するように、ネジの手が押さえつけてくる。容赦ないなあ。ちょっとくらいお遊びに付き合ってくれたって良いものを。ネジの手拭いのおかげで、もう手だって濡れてないのに。
 一歩踏み締める度に泥が靴の中に跳ね返ってくる。もうこのまま風呂に入りたい。無駄に動いたせいで体力を消耗してしまった。確かに馬鹿だ。認めよう。

「お前のお遊びに付き合っていたら、命がいくつあっても足りん」

 絡まった指を解く素振りも見せず、ネジはひたすら前へと進む。水溜りはきちんと避けて歩いているが、普段に比べれば足取りは随分乱暴だ。あ、やばい、手汗が。しかしネジの指は緩まない。

「二度とごめんだ」
「そんなに」
「ふざけるのも大概にしろ!」

 うわー鼓膜破れる、と茶化す余裕はなかった。こっちを向いて怒鳴られた訳じゃないから鼓膜は無事だった。
 心配させたのか。そりゃ申し訳ない。しかしさっぱり実感が湧かない。敵に幻術使いはいたと思う。もう記憶すら曖昧だ。ネジの証言が正しいのであれば、時間が経っているから仕方ないとも言えるが。

「……小隊の奴らは全員無事だ、もう別の任務に当たってる」
「ええっ」
「お前の葬式をするかどうかの話すら、」

 ぐっと、ネジが喉を鳴らした。葬式だと!? 死んでないのに!? 衝撃のあまり言葉を発することができないでいると、また一睨みされた。何と恐ろしい。一番恐ろしいのは、そんなあっさりと葬式されてしまったら、帰るに帰れないというか、生き返った扱いなのか?

「え、穢土転生じゃないからね!」
「洒落にならん言い訳をするな、ややこしい!」

 更年期障害を疑うレベルの苛立ち具合である。わたしは学習能力のある女であるので、口を噤んだ。これが正しい。余計な言葉を零せばお互いに疲れてしまう。
 何ヶ月も、待っていてくれたのだろうか。やはり上手く想像ができない。下忍だった頃に比べれば、夢や将来などという不確かなものに対して、ネジは甘くなったとは思う。目にうつる現実だけに縋っていた子どもは、もういない。
 雨は少しだけ弱まった。くしゃみをしたら怒られるだろうか。寒いからと肩をくっつけたらもっと怒られるだろうか。この男の誠実さに、わたしはどうやって報いれば良いのだろうか。考えている最中にくしゃみは出たし、その衝撃でネジの肩にぶつかった。わたしはごめんもありがとうも言うタイミングを逃したままで、想像通りネジは舌打ちして、仕方のない奴だと不景気な顔を隠そうともしない。
 帰ってきた。愛すべき日常だ。手を引っ張ればそこにある、この男の篤実さに何と言って詫びようか。

フールインザプール

150327|麗綺しなさん、リクエストありがとうございました