「あ、良い匂いだ」
思わず口を出た言葉に、わたし以上に目の前のスターフェイズさんが僅かにぎしりと身体を強張らせたのが分かった。わざわざインスタントじゃないコーヒーをマグカップに準備して差し出してくれている途中であった彼は、椅子に深々と腰を落ち着けているわたしに視線を落としたまま、何かを言おうと珍しく焦りのような色を浮かべている。
「あ、コーヒーのことです、よ」
「…………」
好意からわざわざ訂正したつもりが、スターフェイズさんの顔色が更に悪くなったように見えた。吐く言葉間違ったな、とは思ったものの、香りの余韻に浸ってしまって今更取り繕う気力が全く湧かない。
うーん、レモンとピーチ? ブロッサム……? ライラックっぽい? ムスクも? 全く香水に詳しくないので、数少ない知っている匂いに当てはめて、正解を探るが難しい。とりあえず甘すぎず爽やかですごく良い。あまり鼻が利かないわたしでも分かる、この香りは好きだ。何ていう香水なんだろう、香りから漂うイメージは上品とか清楚とか、そう、落ち着いた大人の女性だ。
あまりに良い匂いなのででれでれに顔が緩んでしまった。次第にマグカップから漂う香ばしいコーヒーの匂いが勝ってしまったが、勿論、立派なコーヒー中毒者であるわたしは、もうどっちでも嬉しい。とても満足。
そのため、微妙に口許を引き攣らせたスターフェイズさんに対し暢気に「コーヒーありがとうございます、いただきます」と気遣いの欠片もないお礼を述べ、熱々のコーヒーを啜り、わたしは予測通り舌先に見事な火傷をこさえた。
猫舌の原因が舌の使い方が下手糞だからだっていうのをこないだテレビで見たけど、そんなこと言われてもどうやって改善すりゃ良いのか分かりゃしない。猫舌じゃない人は良いなあと思うしかない。
「……あー、?」
スターフェイズさんのハの字を描く眉を見て、少し冷静になった。
“お仕事”お疲れさまですとか、接待だったんですねとか、そういった心配りを言ってあげれば良かったのかもしれない。しかしわたしは仕事以外では常識の範囲内で自発的にちゃらんぽらんになると決めていて、その信条を崩す努力をしようとはしない、ただの阿呆なのである。日頃からゲスの極み野郎の様子を目にしすぎたせいか、通常の感覚を早々に失ってしまったというか。
マンガみたいな出来事が何でも起こり得るような街で、割とまともな振りをするのは大変疲れる。そんな毎日の中、例えオフィスの一室でも上司が一人しかいなくて、適当な戯言でも流してくださる人だと分かっていれば、そりゃあ甘えて自堕落になるしかあるまい。開き直るのは得意だ。
阿呆であることを許してくれる人がいることの、なんと幸福なことか!
開き直っている自覚があるわたしは、もう一口黒い液体をそっと口に含む。今度は大丈夫だ。豆から淹れるコーヒーは美味しいなあ。スターフェイズさんはコーヒーを淹れるのがとても上手だから、ライブラ以外の副業でカフェを営むのだってアリじゃないだろうか。喫茶には情報が集まりやすいし。
ジャパンのインスタントコーヒーをこよなく愛するわたしであるが、スターフェイズさんのコーヒーと、ギルベルトさんの紅茶は別格の飲み物なのである。ライブラに入ってお給料が良いこと以上に、これらの二項目はとても魅力的だ。他のどんな企業でも味わえないだろう。よって、いくら仕事がキツくとも、転職する気にはならないのだ。
あ、ギルベルトさんは勿論コーヒーを淹れるのだってとても上手である。
「……?」
おっと、いかん。通常運転ではあるが、思考がふらふらしている。何とも言えない表情のまま隣の椅子に座ったスターフェイズさんは、気まずそうにコーヒーを一口。自然と左の米神辺りに伸びている傷痕に目線が誘導されてしまうが、いつものことだ。
わたしのものとは比べ物にならない、組まれた長い足に視線を移せば、スターフェイズさんが小さく息を吐いた。
そうか、気付いていない振りをしておくべきだったな、と今更に思う。余計なことは喉の奥にしまって、ただコーヒーの礼を述べておくに留めるべきだったのだろう。わたしはいつもそうやってうっかり阿呆なミスを仕出かして、スターフェイズさんにフォローしていただいてる。成長どころか後退してるんじゃないか。
しかし、スターフェイズさんも珍しいものである。わたしのような小娘に容易く動揺するような人ではないと思っていたし、自ら「そう、良い豆が手に入ったんだよ」ぐらいの言葉を返してくるものだと疑わなかった。だからこそ、わたしも予想外の返答にきっちり引っ掛かってしまったのだ。
近くに寄っただけではっきりと香ったそれの原因に意識が傾きそうになるが、これ以上の失言はよそう。やっぱり多少は利口な素振りでも見せておかないと、次から仕事を振ってもらえなくなりそうだ。明日のご飯に困る生活はごめんである。一生懸命働きます。一所懸命とも。
「君は素直だね」
彼が仕方ないなあという顔で笑っている。この人の笑顔の仮面はそう易々と引き剥がせるものではない。
「はい」
「仕事を任せている時とは大違いだ」
困った子だなあ、とスターフェイズさんは歯を見せた。もう子という年齢ではないが、彼より年下なので大まかにくくれば“子”である。
「オンとオフ、ハッキリさせておく方が良いですよね?」
「それを僕に言うのかい」
「失礼、分かっていて言いました」
はあ、とスターフェイズさんが息を吐く。軽快な応酬ができて満足したわたしは機嫌良くコーヒーを啜る。それきり二人の口から言葉は零れず、窓の外から車の排気ガスの音が僅かに聞こえる程度の、何とも苦い静寂が下りた。わたしのせいですね、分かります。
マグカップの取っ手の根本を指でなぞり、再び黒い液体を啜る。いやあスミマセン、ここ職場なのにオフにしちゃ駄目でしたね。ははは、とレオナルド君みたいに笑ってみせたつもりだが、スターフェイズさんからの返答はない。盛大に滑った芸人の気持ちを味わうこととなった。
今日会ってから、スターフェイズさんの溜息の数はわたしの失言後に急速に増加した。困り顔をするのが上手いお人だが、本日は困っているというより疲労困憊気味に見受けられる。コーヒーを飲み終わったらランチの買い出しに行こうか。それがいい。澱みのある空気を入れ替えるには動きが必要である。
ぐいっと最後の一口を煽る。程好い苦みを飲み込んで、椅子から立ち上がった。
「ご馳走様でした。わたしこれからランチを買いに行きますけど、何か食べたいものありますか?」
尋ねるわたしの声音に反応して、スターフェイズさんは自らの腕時計に視線を落とした。
「……ああ、そうか、もうそんな時間だったか。いいよ、僕も行こう」
なんでやねん。
思わずジャパニーズ関西弁で突っ込んでしまいそうになった。おかしい。あなた、わたしと一緒に動いたら気まずい空気が晴れないのではないですか。しかも何が食べたいと言ってくださらないので向かうべき場所もどうすれば良いのか分からない。
とりあえずわたしのと同じく空っぽになったスターフェイズさんのマグカップを机の上から攫う。流しで洗って、水気を切るためにキッチンワイプの上に逆さまにしておく。わたしもマグカップみたいに引っ繰り返れば打開策でも見つけられるのだろうか。精々頭に血が上ってベッドのお世話になるだけだろうな。駄目だ。
背後で急にううんと一つ唸り声が零れたので、少し驚いて肩が勝手に跳ねそうになった。腰を上げたスターフェイズさんがぐっと伸びをしたらしかった。この人の無駄な美声は不意打ちでの攻撃力が随分高いので、油断ならないのである。
手の水分をタオルで拭い、ソファーの背に引っ掛けておいたショルダーバッグを手に取る。ヒッタクリが多い街なので、ハンドバッグやトートバッグはあまり推奨されるものではないのだ。
「サブウェイで大丈夫ですか? わたし買ってきます」
「だから僕も行くって。ずっと部屋に籠ってても気分が塞がっちゃうだろ」
にこやかであるものの、ここまでおっしゃるということは、決定事項である。部下は静かに従うしかない。わたしは今日これ以降、最低限の失言に抑えるために貝になるのが良いだろう。さ、行こうとわたしの背を押すスターフェイズさんに逆らえる人がいるなら会ってみたいものである。
というか、気分塞がってるとか、意外にも正直に心根を吐露する人なのだなあと、暢気に考えている場合ではなかったのだが、後の祭りである。
排気ガスが喉を焼く。喧噪が鼓膜を直接ノックしている。げほげほと思い切り咽たいのを我慢しながら、ジャンクフードのあぶらっぽい匂いや煙草の煙を避けるように、比較的綺麗な道を選んで歩く。サブウェイのような健康志向のファストフード店がある道通りは、この何でもアリの街の中ではレッドカーペットに匹敵すると言っても過言ではない。何せ並んでいる店の殆どが小奇麗である(HL比)。そして道が長い。
「今日何曜日でしたっけ」
一番お得なランチセットは確か曜日でメニューが違う。スターフェイズさんは「火曜日だよ、君たまには日替わり以外も食べれば良いのに」とブルジョワなことを言った。節約は日頃の積み重ねが大切なのですよ、とは言わず、そうしましょうかねえ、なんて思ってもいないことを返した。
目指す店舗はこの道通りの一番奥にある。お昼休み中のOLさんやおじさんが慌ただしく横を通り過ぎていく。
はあ、みんな大変そうだなあ、と思った瞬間、レモンのような、ピーチのような、ブロッサムでライラック、ムスクかもしれない、要するにとても良い匂いが通り過ぎた。視界を横切るブロンドの巻き髪。
今嗅いだ良い匂いは、スターフェイズさんから漂っていたものと同じだった。はて、ものすごい偶然だなと一瞬疑問を浮かべた。
同時にバキバキ、と何かが軋む音を立てた。疑問符を打ち消すように、スターフェイズさんの長い足と鋭利な氷塊がブロンドに叩き付けられる現場が、そこにはあった。
落ち着いた大人の女性を連想させる香りを纏う正体は、残念ながら人の形をしていなかった。
いや、正確には“人の形をしていた”はずだ。きっと上手く擬態していたのだ。それをスターフェイズさんがタイミングを見計らって暴露させたというのが正解だと思われる。
頬を叩く冷気が、いまこの瞬間が現実であることを否定しない。わたしは一言も言葉を発せず、ただ茫然と立ち止まるばかりであった。
「今日は運が良いなあ」
返す言葉の正解肢が全く読めなかったわたしは、とりあえず嬉しそうな彼に対してひとつ頷いておくことしかできなかった。
やっぱり氷のような人だと思ったけれど、彼の眼差しに冷気はなかった。消化し切れていない悲しみが見え隠れしている。
ああ、裏切られたのだな、とぼんやり思う。彼はそういう役回りを演じる人だ。可哀想だと思えども、自らその道を歩む人を容易に止められるのであれば、わたしは今頃ライブラのボスを担っていただろう。現実は全くそんなことはないので、まあ、そういうことである。
その靴の底で何をどれだけ踏み潰してきたのだろうか。
先程の騒動が嘘みたいに、隣を長い脚でゆったりと歩むスターフェイズさんの機嫌は上昇傾向だと判別できた。まあ、仕事が片付けば誰だって嬉しい。火曜日の日替わりランチのメインは何だったかを考えていると、名前を呼ばれたので立ち止まった。
「ほら、アレなんてどうだい」
どうやら先程の件の口止め料として何か買ってくださるようだ。
スターフェイズさんの指差す先には、指紋ひとつ見当たらないショーウィンドウ。有名なハンドクリーム専門店があった。友人の誕生日プレゼントに買ったことはあるが、自分用には高価なので買わないお店である。
……何もそこまで匂いに拘らなくとも良いだろうに、結構気にする人である。
「君、すぐ手が荒れるだろう。きちんとケアしてる?」
違った。こちらを気遣っての発言だったらしい。口止め料とか思ってすいませんでした。
君もレディなんだから、と彼は言わなかったが、その目は雄弁だった。一応社会人としてそれなりに身嗜みには注意を払うようにしているが、一流の人のお眼鏡越しには田舎から出てきた新卒一年目と大差ないのだろう。
「薬用のハンドクリームだけでは間に合わないので、今はワセリン塗ってますね」
「へえ……」
思ったよりわたしの手が重症であることに驚いたらしい。スターフェイズさんはちょっと見せて、とわたしの手を取った。断りの言葉を述べる瞬間が見当たらなかった。はあ、そりゃそういう任務で慣れてらっしゃるからだろう。
「爪も弱ってるし、水疱もあるじゃないか!」
吃驚した顔を隠しもしないスターフェイズさんは、痒そうだね、とわたしの手を親身に見物している。指の付け根にぷつぷつと浮かぶ水疱は主婦湿疹と呼ばれる類のもので、完治には時間がかかると言われている。確かに痒いが、意識しなければ良いのである。何事にもコツがあるのだ。
「いや、もう飲食店のバイト辞めてライブラ一本で頑張るんで、暫くすれば治りますよ」
「へえ、本当に? それ半年前にも聞いた気がするけど」
スターフェイズさんは「まあ口止め料だと思って、一つ買ってあげるから」とわたしの背を大きな手で押した。ハンドクリーム専門店は扉の近くに立つだけでもう良い匂いがする。しかし、現在のわたしの最優先事項は昼食である。
「スターフェイズさん、まずはご飯が良いです」
真剣な顔を作って彼を見上げると、真ん丸になった目と視線が繋がった。
「……君、あの後でよく食欲落ちないね」
「仕事以外はちゃらんぽらんになると決めているので」
例え死体を目の前で見たとしても、スターフェイズさんと食べるご飯が美味しくなかったことはない。告げれば彼は、仕方ない子だなあ、と再び八の字眉毛を披露してくれるのだ。