吾輩は暗部である。名前は名乗れない。隠密部隊の一員であるためである。難しい熟語を並べれば頭が良さそうに見えるのではないかと思ったがために回りくどい表現を繰り返しているが、任務開けで疲れたので慣れないことはやめようと思う。何事も無理はいけない。
 ざあざあと雨脚は強く、忍装束が水分をじっとり含んで身体が重い。髪を伝って首筋に流れてくる雨が気持ち悪い。動物を模した面のおかげで、顔は少し濡れはしているものの、びしょびしょという事態は免れていた。しかし、正直下着まで濡れてしまえば顔が惨劇でないからと言って喜ぶ気分でもなかった。
 雨中の任務は嫌いだ。敵も味方もうっかり死ぬ。殺してはならないターゲットがぬかるんだ地面での交戦中にドジをして致命傷になったり、水遁使いからは勘弁してほしいくらいの猛攻撃を食らったり。雨で嬉しいことなんて、屋内でのんびりとしている時にしか味わえない。
 雨音を聞くのは好きだ。しかし自分が濡れていない時に限る。
 帰ったら忍具の手入れをしよう。この雨じゃ背中の刀だって一気に錆びてしまう。溜め息を吐かないように気を付けながら木の幹を蹴って帰路を急いでいると、こんな雨の中、少年が一人で体術の稽古に励んでいた。
 独特の動きの型と、真っ白な瞳、額に巻かれた包帯。降り注ぐ雨粒など一切気にせず、少年は足を踏み込み、掌と指先を丸太に叩き込む。
 声を掛けようか迷って、わたしは任務帰りであることを思い出した。そもそも、暗部が気軽に幼子に話しかけてどうする。不審者としてしょっ引かれる、プラス、ショタコン疑惑の変態扱いをされる、マイナス、信頼。
 随分長い間そうしていたのだろう、少年の肩は上下して、苦しげに呼吸を繰り返しながら丸太に指先と手のひらを突き付ける。随分息が荒い。日向一族の子がこんなに無防備で大丈夫だろうか。手刀で気絶させて、日向の家までこっそりお届けしてやった方が良いのではないか。
 全力で優柔不断を発揮させながら、わたしは木の幹を伝って少しずつ少年に近付く。気付かれるぎりぎりの限界まで近付いて、どうするか決めよう。我ながらとんだお節介だ。

「ぅ、」

 微かな唸り声が聞こえた。少年からだ。注視すると、雨で濡れていると思っていた頬は、その大きな目から零れる涙でぐしゃぐしゃになっていた。少年は柔拳の動きをやめない。丸太はすっかり削れている。一体何時間、そう考えると何とも言えない。

「うえ、」

 少年の言葉は雨に紛れてはっきりと聞こえない。眉が寄せられて深い皺が出来ている。修行服は雨を随分吸ったのだろう、少年の動きは段々重くなる。

「ちちうえ」

 ああ、聞かなきゃ良かった。
 認識すればはっきりとその言葉の端っこを耳が掴んでしまう。聞きたくて聞いているんじゃない。優秀な忍は時として自分の首を絞めてしまうものだ。いや、ここは笑うとこだよ。皆笑い飛ばしてくれ頼むから。
 足を動かせなくなってしまったわたしは、同じく動きを止めた少年を見るくらいのことしかできない。ぐすぐすと鼻を鳴らし、空を仰いで涙を誤魔化す幼子の、何と哀れなことか。嫌な世の中だ。こんな年の子供はただ笑って野原でも走り回っていれば良いものを。
 しかし、わたしに一体何が出来るというのだろう? 人が歩む道を途絶えさせてご飯を食べているこのわたしに、果たして生産的なことができるのか? 少年程ではないが唸ってしまいそうだ。うーむ。
 とりあえずわたしは、頭の中でごちゃごちゃと考えても結局のところ「まあ何とかなるだろう」といういい加減な判断を下して生きてきたので、今回もそうなるだろう。実際、そうやって特別に困った事態にはならなかった。それならこれで良いじゃないかという、安直な判断である。賢明ではない。

「っふ、ぅう……」

 嗚咽を隠しきれない幼子。そりゃそうだ、片手で足りる齢の子どもが大人みたいな泣き方をしようとする方が無茶である。
 守ってあげなければならないと思った。言い訳を考える猶予はなかった。何も考えずに、体が動くままにすれば良い。いつも通りにそう思って、わたしは思考を体に預けた。悲痛な声を零す少年の、俯いた瞬間を狙い、その背後に立つ。

「!」

 びくりと少年の肩が震えた。わざと気配を消さなかったからだ。少年が振り返ろうとするのを遮るように、その細い肩と目蓋に篭手を外しておいた手を重ねた。つまり、生身の女の手である。乾燥しているのには目を瞑っていただきたい。

「え!?」

 少年の驚く声には答えず、わたしはその軽い体をひょいと抱えて、地面を蹴った。少年ははくはくと口を開いて、声にならない声で抗議しようと身を捩る。恐らくその短い人生の中でも上から数えた方が早い位には混乱しているだろう。ちょっと酷い、いやかなり酷いことをしている自覚はあるので、せめてと思って目蓋の手は退けた。
 大きな瞳が、わたしの被る面を凝視している。暗部の存在は多分もう知っているのだろう。非常に困った顔をして、涙で潤んだ瞳が可哀想で仕方無い。
 飛ぶように(実際飛ぶように走っている)過ぎていく景色を横目に、わたしの足が日向一族の屋敷に真っ直ぐ向かっているのが分かったのだろう、少年は更に泣きそうな目をした。涙ってどこまでも出るんだろうか?

「やだ、かえりたくない!」

 駄々を捏ねる少年の、薄い唇を軽く手で塞ぐ。そうだろうね、帰りたくないだろう。だが、木ノ葉の忍として、大人として、この少年の安全を確保するのは義務だ。
 もがく少年はわたしの手を頑張って引き剥がし、もうあと一歩で涙が零れる状態でわたしを睨んだ。

「は、なして!」

 まるで悪人になった気分である。一歩間違えれば誘拐犯扱いだろうか。見た目には立派な誘拐だろう。お巡りさんにしょっ引かれる、うちは警務部隊の人達は冗談が通じないから恐ろしい。
 まあ、悪人みたいなもんだけど。
 暴れるにも既に体力が底を尽きているのか、少年は肩で息をしている。抵抗程度にもならない少年の小さな手がわたしの二の腕に爪を立てた。そう、肌が見えてるところを攻撃するのが正しい。将来有望だなあと思いながら、血の流れ始めた自分のふくよかな二の腕を無視して、わたしは足を止めた。

「分かった、家に連れていくのは待とう。どうして帰りたくないのか教えてくれる?」

 少年は酷く驚いたようで、うろたえてわたしの二の腕を掴むのをやめた。同時に血が出ていることにも気付いたらしく、慌ててごめんなさいというか細い声が飛んできた。

「大丈夫、君、もっと痛そうな顔してるよ」
「ご、ごめんなさい」
「うん、許そう」

 もうしません、との反省の声まで出るということは、この子に施された教育水準の高さが伺える。従順であることが生きるための条件なのか。随分カワイソウだ。
 雨宿りができそうな大木の根元に少年を座らせ、わたしはその隣に腰を下ろした。浸水を免れた忍具ポーチから手拭いを取り出し、少年に纏わりつく水分を拭いてやった。長い黒髪は雨に濡れても一本も絡まっていない。すげえな日向一族。

「帰りたくないんだね」

 繰り返すと、少年は下唇を噛み締めて俯いた。首を縦にも横にも振らないところを見ると、何か迷っているらしい。
 どう対応するのが正解なのだろうか。生憎任務帰りの身なので、手元に甘味もなければ気を紛らわすことができるような娯楽の品もない。何もない。
 どうしたものかなと考え込んでいると、少年が不安げな顔つきでわたしを見上げている。しまった、お面をしているからわたしが黙り込むと死んでるように見えるのかもしれない。何を考えているのか分からない大人が隣にいると緊張するだろう。わたしは馬鹿である。

「……とりあえず、雨の中の修行はおすすめしない。君はまだそこまで体力があるように見えないから」

 わたしが急に言葉を発したことで、少年は小さく肩を跳ねさせた。だが、すぐに言葉の意味を反芻する作業に移ったらしく、少年はまた顔を地面に向けた。

「それから、修行する時はお付きの人に来てもらった方が良いよ」
「……はい」

 返事は従順だが、理解はしても納得はしていない、という顔だった。

「はは、じゃあまだ帰りたくない坊ちゃんに、ちょっと良いものをあげようか」

 少年がきょとんとこちらを見上げる。わたしは手早く印を結び、影分身を一体出した。手には財布。変化の術で友人の姿になってからお面を取った影分身は、瞬身の術で行きつけの甘味屋へ。

「いまの、ぶんしんのじゅつですか?」
「いや、実体がある影分身の術だよ。あと三十秒で戻ってくるから」

 ぱちぱちと瞬きをする少年は、先程の陰鬱な表情を消してきょろきょろと辺りを見回している。純粋な子で何より。甘いものでも食べれば機嫌も直るだろう。まあわたしのことだけど。

『ただいま』
「ご苦労」
『うむ』

 手に香ばしい匂いの包みを持った影分身が帰ってきた。包みが濡れないように庇いながら走ってきたせいで暗部の装束はぼとぼとであるが、影分身なので問題ない。そもそも本体もパンツにまで浸水する程度にぼとぼとなので大差なかった。帰ったらまず風呂。
 ぼふんと煙を上げて影分身が消えると、丁度少年の手元に包みが落下した。開けてごらん、というと、戸惑った表情を隠さずにわたしを見上げてくる。この少年、今までよく誘拐されなかったなあ…。

「じゃあお姉さんが開けてやろう、出世払いで返してくれたら良いよ」

 だから遠慮なくお食べ、と甘辛いたれが掛かった串団子を少年の口元へ。たれが落ちるのを危惧してか、少年は素直に団子に齧り付いた。まだ小さな口には大きすぎたのか、口の端にはつやつやしたたれが。ほんとによく今まで誘拐されなかったな、奇跡じゃないか?

「……おいしい」

 やっと、少年は僅かに息を吐いた。涙が乾燥してか、目尻が赤くなってしまっているのが痛々しいが、先程の比ではない。串を摘まむわたしの手ごと掴んで、少年は二口目の団子を味わっている。もごもごと食べる姿はハムスターのようである。

「木ノ葉病院の近くにあるから、今度お付きの人と行ってみると良いよ」
「はい! ありがとうございます!」

 少年の顔に笑顔が戻った。紅潮した丸い頬が緩んでいるのを見ると、こちらまで幸せな心地になるから不思議である。泣くのは赤子の仕事であり、子どもの仕事は笑うことである。正しい姿だ。
 今日は良いことしたなあと、籠手を外した手のひらで少年を撫で繰り回して日向の屋敷まで送った。暗部の面はずっと付けたままだったが、よくよく考えると少年は最初白眼を発動していたのでわたし顔バレしてるんじゃね? と思ったが、まあ日向一族の幼子に関わることなど、恐らくこの先ないだろう。開き直って少年の頭をぐりぐり撫で、わたしは風呂を求めて自宅に帰った。
 雨はいつの間にか姿を消していた。




 吾輩は暗部を引退した者である。名前は普通に名乗れるようになった。派閥がめんどくさくなってニートになりたいと宣言してこっぴどく怒られたが、何とか一般的な忍としてお給料を貰う日々である。合コンが怖いが元気である。

「出世払いの約束だっただろう」

 五代目に用件を聞かされず呼び出されて、同じ場にいた日向一族の青年に出会い頭にそんなことを言われた。はて、と首を傾げるわたしの目の前には、香ばしいみたらし団子。雨の日の、と形の良い唇が動く。
 わたしがかの少年の上忍研修担当者になる未来は、三歩先。

ワンシーンの余白

160429|サメさん、リクエストありがとうございました