「あれっ自転車の鍵、どこにやったかな」

 またか、と思う。どうせ女の子に盗まれて偶然拾ったていで近付いてきてほにゃほにゃだ。可愛い女の子には策士が多いものである。財布が盗まれてないだけ、まだ彼女達にも人としての優しさがあるのだろう。多分。
 駐輪場でショルダーバッグをごそごそと漁る善法寺は、早速近付いてきたヒールの音に顔を上げる。昔っから気配には敏感な男だ。ミントグリーンのエナメル素材のパンプスは汚れ一つなく、アーモンドトゥで可愛らしい。真っ白な肌は自前だろう、頬に少し散ったそばかすも可愛い。可愛い女の子は策士かつ正義なのか。そうか。

「善法寺君、もしかして自転車の鍵ってこれ?」
「ああ! 君が拾ってくれたのかい?」

 助かった、という気持ちを隠しもしない善法寺は、女の子が差し出す鍵を注視している。間違いなく善法寺の自転車の鍵だった。遠い昔の不運うんこ委員長の名前を忘れられないのだろう、キーホルダーが白い巻紙なのである。ちなみに食満の原付の鍵にはアヒルさんが付いていた。

「二〇一教室の隅に落ちてたよ、気を付けないとダメだよ」
「あはは、そうだね、拾ってくれてありがとう」
「ううん、あたしも誰の鍵か分からなくて、拾うかどうか迷ってたから」

 誰の鍵か分からんのに一直線に善法寺の元に来る強かさよ。
 ちなみに、反対側の駐輪場では同じく鍵を失くしたらしい名前も知らぬ男子学生が半泣きで鞄を引っ繰り返したりポケットに手を突っ込んだりしているのだが、彼も運がなかった。見知らぬ顔なので不運委員会の人ではない。
 ジェルネイルの施された指先はつやつやと光り、美しい曲線を描いたラインストーンが夕日を反射して些か攻撃的である。しかし綺麗なグレーのフレンチネイルはお洒落である。ラインストーンない方が好みではあるが。
 トイレットペーパーの模型キーホルダーがぶら下がっている鍵を善法寺の手のひらの上に丁寧に置いて、一言。これトイレットペーパー? 面白いね、と同学部だけどあまり素性を知らない女の子が笑う。
 わたしだったらとりあえず学生課に届けるけどな、とは決して言わない。言わぬが花。物語は余計な要素をなくすことで美しさを増す。
 駐輪場の隣に喫煙所が併設されているせいで、辺りの空気は副流煙に包まれている。甘ったるいマルボロの匂いからメントール系まで多種多様、駐輪場に来るといつも咽るのを我慢しなければならない。まあ大抵我慢できずにげほごほ咽るのだが。一等煙たい時に限って知り合いが吸っていることが多い。
 駐輪場の屋根が少し飛び出ているので、その飛び出た部分を喫煙所にしてしまえば新たに場所を設ける必要もない、という学生課の判断のせいで、自転車通学生は毎日煙たい思いをしなければならないが、駐輪場を利用しない職員にその気持ちを汲もうという優しさはないのだろう。悲しい現実である。
 すぐ傍に植えられている木にふと視線を向けると、気だるげに煙草をふかしている軽音楽部の後輩の鉢屋が一人。やはりな。こいつとの会話は楽しいが今はそんな気分ではないのでそっとしておく。わたしは家に帰りたい。
 そして反対側の駐輪場でこの世の終わりのような顔をしていた男子学生は、講義レジュメの入った分厚いファイルの中に挟まっていたらしい鍵を発見したことで、狂喜乱舞で颯爽とペダルを漕いでお帰りになられた。良かった良かった。
 白熱する女の子。いつも通りにこやかに対応する善法寺。煙草とスマホに戯れている鉢屋。そして己の自転車のロック解除に勤しむわたし。この時間帯の駐輪場は人があまり通らないので静かなものだ。大体の学生がサークルに顔を出したり、委員会の仕事をしていたり、レポートに追われていたりと、講義終了後に直帰する組は少ないのだ。
 既に錆びついたわたしの自転車に美しさがあるかと問われたらビンテージ感満載ですねとしか返答する種類がない。鍵の差し口まで錆びついているのでなかなかロックが外れない。善法寺が鍵を探して女の子から受け取るまでの間、わたしはずっと鍵を抜き差ししていたが、一向にきちんと嵌まる気配がない。

「善法寺君、自転車通学なんだ? 下宿?」
「うん、君は電車?」
「そうなの、通い。一人暮らし大変だよねえ、お料理も自分でやるの?」
「まあまあ、かな、日々節約しないと厳しいから」
「そうなんだ、いつも美味しそうなお弁当だから、お料理好きなのかなって」

 角度の問題か。少し上向きに差して回してみよう。いや駄目だ、では下向きに。うーむ、これも駄目か。中学時代から雨風に打たれながら共に戦ってきた自転車なので、そろそろ寿命だろうか。タイヤもこないだ虫ゴムを替えたところなのにすぐに空気が抜けるし、タイヤ本体も随分薄くなってきたし。中学時代にぶつけて変形したカゴは、無理矢理元に戻そうとしたせいでところどころがボコボコしている。ハンドルも変色している。多分、この変色はカビなんじゃないかなと思うが見て見ぬ振りである。大得意。
 しかし、買い替えるにしたって大学生活はあと二年もない。社会人になってまた自転車に乗る生活を送るかどうかも分からない。乗らないのに新品になったところで勿体ないしなあ。下宿の先輩が卒業される際に自転車を譲ってもらうか……。

「ねえ、そうだろ?」
「は?」

 突然善法寺が話しかけてきたので、中腰でガチャガチャと鍵を動かしていたわたしは顔を上げた。文脈が全く読めない。とりあえず良い笑顔である。同意を求められているが、一体何の話だろうか。自転車のロックに思いを馳せていたせいで周囲の音を完全にシャットダウンしていたらしい。
 大学生になってすぐに茶色に染められた善法寺の髪は、「黒髪似合ってたのに勿体ない」とうっかり言ってしまったわたしのせいですぐに黒に戻った。風に揺られて癖毛がふわふわと揺れている。お前は自分の意思というものがないのか、と思わず訪ねてしまったが、善法寺はえへへなどと笑うだけで明確な返答をしなかった。よくわからない奴である。

「ね?」

 人の良さそうな笑い方は、この男の特技だ。他人を安心させることに長けている。
 が、その背後で唇を噛み締めた女の子がわたしを涙目で睨み付けている。全く状況が把握できていないが、ここでわたしが頷けば彼女にとってはかなり、とても、都合が悪いと見受けられる。とぼけた方が良いだろうか。別にわたしは女の子に嫌われたい趣向がある訳ではないし、敵は少ない方が良い。
 女の子が喫煙所から漂ってくる副流煙に小さな咳を零した。しかし視線はわたしから一向に逸らされない。勘弁していただきたい、わたしは人の目を見て話すのが苦手な人間である。そして鉢屋は早く禁煙しろ。

「……あはは、も照れるんだね」

 何が何だかさっぱりわからないが、わたしがうんともすんとも言わずに善法寺と女の子を交互に見ていたら、善法寺が勝手に発言を加えた。照れる? 何? 照り焼きチキン?
 女の子のグロスに濡れてふっくらとした唇が震えている。さっきまでの楽しそうな空気はどこへやら。よくわからないが可哀想だなあ、と思ったすぐ傍から、善法寺ががちゃがちゃと己の自転車のロックを解除した。ねえ、今晩何食べる? いつもの言葉で善法寺が首を傾げる。わたしの返答を待たずに、今日は鮭が食べたい気分なんだよね、と勝手に締めくくってくる。なら聞くなよ。
 というか、まるでわたしと一緒に食卓を囲むのが日常的みたいな口振りなのが気になる。一緒に買い物に行って、チラシ掲載の安い食材を買えばまあメニューが重なるのは普通なので、参考にする分には何の問題もないのだが。それ、女の子に誤解させてないか?

「あれ、また鍵固いのかい?」

 わたしの返答はどうでも良いのだろう。善法寺が勝手にわたしの自転車の鍵を弄り始める。ガゴン、と無理矢理な音を立てて、何とかロックは外れたらしかった。

「さて、早く帰ろうか」

 ふと、善法寺の背後に視線をやると、華奢なヒールの後ろ姿が小走りで去っていくところだった。さよならの挨拶もない。あの子、同じ講義いくつか取ってたなあと思い返し、明日から気まずくなるのを予想して胃が痛む。ふわりと風に揺られる白のプリーツスカートが美しく、翻って真っ白な太ももが半分ほど見えたところで、善法寺は勿体ないことをするなあ、とわたしは少々哀れに思った。




「うわ、善法寺先輩こっわ」

 煙草の煙と一緒に、鉢屋がぼそりと吐き出したのが聞こえた。

美しき執着

160515|じゅんこさん、リクエストありがとうございました