※誰一人救われない上にウル織要素があります。ウルキオラ夢と言えるのかも怪しいです。後味悪いです。
井上織姫が悲鳴を飲み込んで固く目を閉ざした。震えながら蹲って防御の姿勢をとっているが、人間にグリムジョーの拳はきつかろう。絶対死ぬよ。この子は確か、妙な防御能力を持っていた筈だけど、瞬時にそれを発揮できるほど器用には見えない。丸く曲線を描く柔らかな肉に包まれた身体は、拳が当たれば呆気なく損傷するだろう。飛び散る肉片は床だけじゃなく壁まで汚すだろうし、片付けをさせられるのはわたしだ。嫌だ。
グリムジョーは軽率に人を殴る癖を今すぐどうにかした方が良い。まあ、わたしがわざと抵抗しないから一発で済むとは思うが。
女の子には優しいわたしである(当社比)。グリムジョーと井上織姫の間に華麗に割って入り、降り注いでくる拳が当たるであろう場所に霊力を集めておく。無防備に頬を差し出すのは自殺行為だ。わたしはまだ死にたくないのでぼちぼち自己防衛をする。
本当は手でその拳を受け止める方が理に適っていると思うのだが、粘膜部分の方が傷の治りが早いのと、グリムジョーのストレスを少しでも発散させてやろうというわたしの優しさを言い訳としてぶら下げておく。痛いのが気持ちいいとは全く思わないけれど、仕返しする要因ができるならそれはそれで。
「ぐっ!」
肉を殴る音、自分で頬っぺたを抓るのとは比べ物にならない衝撃が襲ってきた。完全に吹っ飛ばなかっただけ、この男も気持ち半分くらいは手加減をしたということだろう。藍染の命令に逆らってうっかり殺してしまったら、己の首が飛ぶことぐらいは理解していたらしい。いやまあ、手加減全然足りてないけど。
足の裏が数メートル分の地面を引っ掻いて、反射的に漏れたわたしの呻き声に反応して井上織姫が絹を裂くような、短い悲鳴を上げた。耳の奥がキンとする。邪魔しやがって、という視線で肉を刺し、わたしを更に殴ったグリムジョーは、忌々しそうに舌打ちを一つして姿を消した。ご機嫌斜めの思春期の中学生みたいだ。しかし二発も殴ることはなかろうよ、わたしが抵抗しなかった意味よ何処に。
二発目の拳を受け流すことに失敗したわたしは、情けない虫けらみたいに地面に転がった。天井を見上げた。
藍染が現世から女子高生を引っ張ってきたと言うから(正確にはウルキオラが攫ってきたと知っているが、言いだしっぺが藍染という話だ)、どんな女子高生かな~と興味本位で覗いた結果がこれだよ。やっぱりやめときゃ良かった。
いや、ウルキオラが随分甲斐甲斐しく世話をしていると耳にしたから、そんなの気にならない方がおかしいじゃないか? わたしの行動は至極まともだったはずだ。グリムジョーが全部悪い。
唇の端っこに指先で触れる。ぬるりとした感触と同時に、頬の中が痛いので、そっちのが重傷だと推測してみる。舌先で傷口に触れて後悔した。傷口は噛み切る一歩手前という表現が似合うくらいに抉れていて、ものすごい鉄の味がする。けふ、と小さく咳込んだだけで、どばっと血が口から零れて素直に驚いてしまった。
暴れていた奴がいなくなった途端、いつも通りの静寂が戻ってきた。衝撃で脳が揺れている感じがあるが、死神なのだから人間ほどか弱くないし、多分大丈夫だろう。歯が折れてなくて良かったとか思いながら、上半身を起こそうと腕に力を入れた途端、ばたばたと足音が近付いてきた。
「待って、動かないで……!」
振動数大丈夫かと心配したくなる程に揺れた声だった。すべすべの指先がわたしの頬に伸びてきた。触ってないけどすべすべだって分かる。肌は健康的な白さを保っている。傷もない。桜貝のような可愛らしい爪。井上織姫は、今にも涙が零れそうなくらい引き攣った表情で、わたしの頬に手を当てた。
この子はきっと、自分自身が殴られた時にはこんな顔をしないだろう。心根が割と綺麗な証拠だ。罪悪感丸出しで、他人を思って泣く。
真似はできそうにない。完敗。
「ごめんなさい……」
まあ謝罪の言葉を述べるのは当然なのだろう。わたしが勝手に庇ったという状況を除けば。別に井上織姫に頼まれて代わりに殴られた訳じゃないのだから、気にする必要はない。
「なにが?」
しかしわたしは性格が悪い。頗る悪い。わざと試すようにとぼけてみせる。井上織姫に殴られる以外の傷を負わせようとしているのだ。まるでわたしが純朴で、弱きものを庇うのが正義で、虫も殺したことないかのような無垢さを持っているように誤解させようとしている。
わたしは悪人なのである。一切の手加減をするつもりがない。罰当たりな芸当を演じるのは昔から得意である。
「あ、あたしが余計なこと言っちゃったから、」
「ふうん」
無理矢理言葉を断ち切る。見事に井上織姫は引っ掛かって、ごめんなさいを繰り返す。ああ、この子すぐに詐欺とかに遭うだろうなと思わせるには十分だ。しかも、詐欺に遭ったことをまるで理解しておらず、友人とかに無邪気に話しかけて『昨日こんなことがあってね……』『それって詐欺じゃん!!』と指摘されるまで気付かないタイプだ。間違いない。
なるほど、ウルキオラが執着する訳だ。簡単に懐柔できるほど従順ではなく、グリムジョーみたいに手のかかるほどの馬鹿でもない。破面の中にこんな性質の子はいない。平和なところで育ったけれど、それなりの教育は受けていたからこそだろう。現世の人間は、やはりこちら側とは異なるのだ。興味を持つのも頷ける。
橙色の光がぼんやり現れて、井上織姫の白魚みたいな手ごと、わたしの頬を包んだ。そう認識した瞬間、ずきずきと痛みを訴えていた口内が嘘みたいに感覚を失った。血の味は相変わらずだが、舌先で傷口をなぞっても、そこにはつるりとした感触があるだけだ。
まさか、一瞬で治るとは。
「……治してくれてありがとう」
義務的な感謝の辞を述べわたしは立ち上がる。生きていく上で基本的に礼儀は必要だ。頬の中も口の端も痛みなんてなく、さっきの出来事が夢のように思えた。
恐ろしい能力だ。こんな治療ばっかり受けてたら絶対に脳味噌混乱してぐちゃぐちゃになる。可愛い女の子が持つ能力にしては、藍染が欲しがるだけのことはある、やっぱりえげつない。
井上織姫は吃驚した顔で、わたしを凝視した。まさか敵の死神がお礼を言うとは思わなかったのであろう。別に良心がないわけではないので、お礼ぐらいは普通に言うぞ。豊かな睫毛に縁取られ潤んだ目玉もおっぱいもでけえなあと思いながら、わたしは彼女の何か言いたげな口元を無視して、のそのそと起き上がって、すたこらさっさと自室に帰った。もう井上織姫の周りに近付くのはやめとこ、と強く思った。自分から火の粉の飛び込んでいく正義感があるなら、そもそも尸魂界に残ってたはずなのだ。
その時、疲労からくる空腹のせいで自室の戸棚にしまっておいた醤油煎餅に思いを馳せ、おやつのことしか頭になかったわたしは、井上織姫がとんでもない誤解をしていたことにまで思考が及ばなかったのであった。
藍染からの指示も特になく、暇を持て余していたわたしは散歩をしていた。部屋に籠るのは得意分野であるが、二十四時間ヒキコモリロリンを楽しんでいると、次の指令が出された時に憂鬱な気持ちになるので、ふらふらぶらぶらしておかなければならない。
どこからか姦しい怒鳴り声が響いてきたので、興味本位で部屋を覗いてみる。井上織姫が甚振られていた。
うわあ、女の嫉妬は陰湿だなあ。他人のこと言えないけど。ツインテールミニスカ女の一言一言が実にねちっこくて関わったらめんどくさそうである。金髪ショートカット女はそこまでめんどくさくなさそうだけど、今この場に割って入るほどの正義感は色んな物と一緒に尸魂界に置いてきてしまった。回れ右。
井上織姫を可哀想とは思うし、治療の恩を返すのが妥当だとは思うものの、監視役のウルキオラが登場すれば話は簡単に収束するはずである。踵を返そうとして、地面に倒れた井上織姫が、ふと扉の隙間に視線を向けた。
「っあ、」
痛ましい声だ。同時にわたしは音も気配も完全に消して退却である。いま、確実に視線が合ってしまった。うっかり阿呆で迂闊なミスである。いや、関係ない。わたしは井上織姫に干渉しろとは命じられていない。知らん。逃げます。ツインテミニスカ女に目をつけられたら結局殺さないと事態が反転しなくなるからである。ああいうタイプの輩を殺さずに手加減して甚振る技術がわたしにはない。
色々な言い訳が頭の中に浮かんでは消え、わたしは自室で呻いた。腹が減ったのでインスタントラーメンを作って食べた。不思議と血の味がした。
今日は藍染から指示があり、雑魚破面の掃除を仰せつかった。雑務である。破面も全員が全員藍染の意のままに動く訳ではなく、一定数の反勢力が存在する。見せしめかあ、と思いつつ、半分くらい殺したところで、ウルキオラが近くを通りかかった。後ろには柔らかな曲線。
「……迂回して。汚れる」
喉元を切り裂きながら伝えると、ウルキオラが一つ瞬きをした。ふう、と息を吐く。まだ半分だ。井上織姫が何か言いたげにウルキオラの袖を引っ張っているのが見えたが、ウルキオラは完全無視でわたしの言葉通りに足先を別方向に導いた。時間帯からして風呂だろうか。藍染も意外と人みたいなところがあるらしい。彼女の基本的人権的なものは尊重されているようだ。あくまでも現時点で。
稚魚が吠える。刀の先が井上織姫に向いた。どうやら標的をわたしからか弱き女子に変更したらしい。お約束の展開すぎて苦笑が零れるのを堪え切れず、わたしは背中を向けた雑魚の足を薙いだ。続けざまに残りの破面を切り捨てる。
ウルキオラの足音が遠のいていく。井上織姫が何度もこちらを振り返るので、ウルキオラはその細い腕を掴んで引っ張っていった。おお、現世の少女漫画っぽい展開だな。あまずっぺえ。ウルキオラも少しは成長したようだ。感心感心。さて、水撒きでもしようかね。
まあ、やっぱりわたしの口の中は血の味がするのだけれど。
本日の散歩は普段あまり通らない道にしようと考え、疲れていてとち狂ったのか、わたしは何故かウルキオラの自室に辿り着いてしまった。初めてのことである。偶然とは恐ろしい。挨拶をするような気さくな輩ではないので、何も言わずに去るのが正解だろう。
しかしあのウルキオラの部屋の内装は気にならんでもない。中にいるかどうかはわからないので、またしても好奇心に負けたわたしは僅かな扉の隙間を覗いてしまった。ちらっと。
想像通りの無機質な空間の中、真っ白なソファーが見えた。扉に対して横向きに配置されており、ウルキオラが穏やかな寝顔を晒している井上織姫の横に座って、なんと目を閉じている。
えっウルキオラうたた寝するのかよ。しかもわたしの気配に気付かないほど油断している。まじで。
ふ、とその病的に白い目蓋が持ち上がって、深い緑のまなこが姿を現した。すやすやと寝息を立てている井上織姫の顔をちらっと映したかと思うと、それが僅かに緩んだのが確認できた。
緩んだ?
わたしは自分の頬っぺたを抓ってみたが、普通に痛かったのでやはりこれは現実らしい。温度の無い、機械みたいな奴だと思っていたのに。まるで人間のように感情の起伏を表現できるようになるとは、驚きである。
「ちゃん、そない執着して」
いつのまにか背後にいた市丸さんが、痛い目遭うで? と胡散臭い薄っぺらい笑みに似つかわしい声音で、わざわざ耳元で囁く。まるで自分は経験済みみたいな調子だ。松本さんとの間で何があったかまでは知らないが、とりあえず碌でもないことがあったのは確かだと思う。
「……楽しいのか悲しいのか、君ははっきりせえへんねえ」
ほら、ボクとちょっとお仕事行こか。尸魂界時代と変わらぬ調子で市丸さんがわたしの背中を押して誘導する。市丸さんとのお仕事は、藍染にも秘密である。気が紛れてありがたい、と一瞬思ってから、疑問符が脳内を埋め尽くすものの、どうすることもできない。
わたしはやっぱり悪人だ。仮初めの安寧をわざわざぶち壊してやる必要などないのだ。ウルキオラに良い方向に変化が訪れるのならば、それはそれで面白いことなのだから。
自分に言い聞かせて身体を黙らせなければならなくなってきた体質を、そろそろどうにかしなければならない。
まあそんなこんなで、藍染の意のままに清掃業務(ただし殺傷沙汰)に励んだり、市丸さんと秘密のお仕事(ただし復讐劇の準備)をしたりと日々を過ごしていたら、偶然通路で井上織姫と再会してしまった。無視してすたこらさっさと逃げようとしたら、待って、と悲鳴のような声音が飛んできた。えっ何で、わたし何も危害加えてないぞ。
何故か痛々しい表情を浮かべた井上織姫は、容赦なくわたしとの距離を詰める。この娘は、わたしが敵であるという認識を何処に捨ててしまったのか。可燃ゴミか何かと一緒くたにしたのか?
白くて薄い手のひらがわたしの脇腹に伸びてくる。いやいや、何でそんな的確に?
「隠してもダメ」
また橙色の温かな光がわたしに浴びせられそうになる。さっき、死神の誰かとやりあった時にできた傷口は決して浅くない。わたしは彼女の折れそうな腕を引っ掴んで、一定の距離を取る。
「どうしてすぐに手当てしないの……? 悪化しちゃうよ」
なんてこわい娘だろう。
動揺を綺麗に隠したわたしは偉い。傷口を放置すれば悪化するのは正論である。死神の身体と言えど、そこは人体の仕組みと大差ない。
確かに痛かった。しかしそれは日常である。ご飯を食べて霊力を溜めてゆっくりすればぼちぼち治るのである。だからそれで十分なのだが、井上織姫に説明するのが大変そうである。彼女は己の正義が正しくあると信じているタイプの人間だ。納得させられるだけの理由を瞬時に考え付くほど、今のわたしは健康体ではなかった。残念である。
「……そんなに力を、安売りしてると、後々大変、だと思うけど」
「だって、さん善い人だもん……」
「は?」
間抜けな声が出てしまった。
馬鹿だ。救いようの無い馬鹿だ。わたしが井上織姫が暴行されているのを見て逃亡したことも、井上織姫の目の前でどうしようもない破面の雑魚を殺した場面も、すっかり飛んでいってしまったのか? 目的のためにぼちぼち手段を選びはしても、結局抗うほど出来ていない。一体何を根拠にわたしを良い人だと認識しているのか。わたしが井上織姫にしたことと言えば、ウルキオラがいない時に代わりに食事を運んでやったことと、グリムジョーの拳を代わりに引き受けたくらいである。……それか?
「お願い、治させて」
まるで自分の傷が痛むかのような顔をする。聖母の生まれ変わりだとでも言うのか。
「だって」
まるで駄々をこねる子どもだ。彼女の旋毛を見つめていると、だって、と再度井上織姫は語調を強めた。
「さん、痛そうな顔してる」
何故この女子高生は人を疑わないのだろう? 世界は平和? 紛争は話し合いで解決できる? 教科書にはそう書いてあった? とっても綺麗な言葉と映像に漬け込まれて、長年教育されてきたからか? 確かに現世は現世の常識と事情があるだろう、だがそれが、異なる世界で通用するとどうして思えるのか。
目の前の薄汚い現実を、自分が変えられるとでも? 信じれば人が正しくなると?
「もっと、よく、見なさい」
お前の目の前にいる女の腹は、真っ黒に煤けているというのに。
現世で死んで、尸魂界に生まれて、貧乏ったれな生活に嫌気がさして霊術院に必死になって入学して、後輩の雛森桃と仲良くなった。卒業する頃に兄と呼んでいた男が虚に襲われて死んでわたしは帰る家が無くなった。護廷十三隊への入隊は既に決まっていた。桃はわたしを彼女の実家に連れて行って、卒業してから入隊するまでの僅かな間、一緒に住もうと言ってくれた。おっとりした桃、生意気なシロ、優しいお婆ちゃん。三人が住んでいる家は居心地が良かった。何時までもずるずる居座り続けたくなるくらいには。
三番隊に所属することになったわたしは、隊長の市丸さんにずっと疑問に思っていたことを口にした。
『誰かが裏で糸を引いていたからわたしの兄が死んだ、という見解は間違っているのでしょうか』
唐突な質問に、市丸さんは『行き成り何やの』と首を傾げてみせた。机の上で手を付けられずに大人しい書類の山に囲まれながら、市丸さんは何時もの笑みを貼り付けている。わたしが何を言ってもこの笑みは崩れないことを知っている。だからこそ、今まで誰にも言ったことがないことでも、市丸さんには吐露出来る。
『……流魂界で、兄は“気配の無い”大虚数体に襲われました』
『あァええよ、分かった、それ以上言いな』
市丸さんは椅子から立ち上がって大きな手でわたしの頭を撫で繰り回した。そおか、とぽつり言葉を零した市丸さんを見上げる。
『ほな、ボクと君で、秘密のお仕事、しよか』
誤算の始まりは、ウルキオラという破面の存在だった。ついでに井上織姫のことも計算外である。相反して秘密のお仕事は順調だった。藍染の思惑通りに大体の物事は進んでいて、計算外の積み重ねによって、わたしの意思とは関係なく、ウルキオラは灰になった。
丁度、ウルキオラが消える間際に間に合ってしまったわたしは、ただ棒立ちにその光景を目に焼き付けるしかなかった。ウルキオラの美しい目玉は、井上織姫を映していた。
最後まで真似できなかった。完敗である。
矢印は、井上織姫に向かっていただろう。何か別の形があったかもしれない。推測は自由だ。死人に口はない。まあ人じゃなかったが。風に煽られて灰が舞う。ウルキオラだったものは、跡形もない。
現世の仲間に救出された井上織姫は、唇を噛み締めて俯いている。助けられた身なのに不思議なことだ。もっと喜べば良いのに。
『だって、さん、痛そうな顔してる』
幻聴だと思った。井上織姫が仲間に引っ張られて走りながら何度もこちらを振り返って、ぼろぼろと大粒の涙を零すのを見るまでは。
ともあれ、秘密のお仕事の総仕上げをしなければならなかった。が、市丸さんと長年積み上げてきた計画の通りに動いても、藍染はそれを上回った。最悪である。藍染の首に切っ先を埋め込んだら、仕返しに刃が左の太ももに向かってきて、そのまま足が吹っ飛んだ。どうせこうなるだろうとは思っていたが。
次の瞬間には市丸さんの右腕が飛んでいった。加えてきちんと臓器に損傷を与えることを忘れない藍染は本当に容赦無いな。世界の為にくたばってくれよ。
わたしはウルキオラのところに行けるだろうか。
無理だなあ、と思う。行ってどうする、という話である。わたしは敗れて破れたのだ。負け犬の遠吠えはグリムジョーあたりに譲ってやりたい。とりあえず藍染に出来る限り傷を負わせたい。だが、心臓の動きと共にどくどくと傷口が脈打つので、わたしは自分の終わりを確実に認識し始めていた。
「!」
驚いた。見慣れた銀髪と、昏い瞳の副隊長が地面に這い蹲るわたしの顔を覗き込んでいた。鋭い殺気を孕んでいたはずの眼光が、わたしの現状を見て揺らぐのが分かった。
ああもう、この世の中は甘っちょろい奴しかいないのか。シロのさっきまでの殺意はどこに消えたのだろう。それでも嬉しいと、素直に言えないわたしである。最後までどうしようもない己だった。
隣で市丸さんの呼吸が止んだ。松本さんの嗚咽が耳に響く。ああ、秘密のお仕事失敗ですねえ、市丸さん。反省会はずっと行きたかった老舗甘味屋でしましょうね。おやすみなさい。わたしもそろそろ重い目蓋を落とすことにする。犬死だ。
あーわたしの人生無駄だった。恥の多い生涯だった。
「! おい目ェ開けろ馬鹿野郎!」
小さな手がわたしの頬を張る。痛みを感じない辺りわたしはもう駄目だった。
少なくとも、シロは一度裏切ったことを許すような子ではないし、効率主義である。対して、桃は自分の目にしたことであっても、一度信頼したら疑うことができない。この二人は価値観がまるで正反対だ。
わたしは、ずるずると時間の流れに身を任せるだけで、信頼するとか、疑うとか、そういったことがめんどくさくて手を抜いてきた。好き好んで流されてきた。兄の復讐も中途半端に終わった。これはその代償なのだろう。
細っこい二つの手に触れる。腕を落とされなくて良かったかもしれない。自分の手に温度が無いことをぼんやり自覚しながら、わたしは二人の指先に自分のそれを絡めた。生に縋るように見えたのだろう、二人は少しだけ希望の色を目玉に乗せた。
井上織姫だけがわたしを案じて涙を流してくれた事実が、わたしを最後の演者として仕立てあげてくれていた。そう、秘密のお仕事は秘密のまま終わらせなければ意味がない。
ごめん、と声にならない声を零せば、二人は大きく目を見開いて、強くわたしの手を握る。わたしは恵まれていた。だから貪欲になった。人間みたいになったウルキオラはもういないし、兄は生き返らないし、藍染は死んでないし、楽しかったあの頃にも戻れない。わたしの生きる目的は霞んでしまって、今更作り出すほどの体力もない。でも、わたしは笑うことができる。
「シロと桃が、しあわせなら、わたしも、しあわせ」
だって、わたしは“善い人”らしいから。