荒れてるなあ、というのが今日の竹谷の第一印象だった。嫌な実習明けだったのだろう、食堂に続く廊下を歩く足取りはずかずかと板を踏み鳴らさん勢いで、泥に汚れた頭巾を乱暴に取って、後頭部をガシガシと掻いて呻き声を零している。いつも朗らかというより能天気寄りの顔をしている男が、ここまで不機嫌を露わに近づいてくるのも珍しい。
 竹谷の前を歩いていた下級生がぎょっとした顔付きで後ろの男を見ていた。えっ、竹谷先輩だよね、潮江先輩じゃないよね。そんな顔をした三年生が戸惑いながら思わずといった様子で道を空けている。その様子に竹谷は苦虫を噛んだ顔で、ごめんなあと苦しげに零した。取り繕う余裕もないらしい。二年生が目を白黒させて竹谷を見ている。

「あ~」

 何度でも呻く竹谷は、合間に溜息を零して迷わずわたしの隣の席にどっかりと座った。食堂のおばちゃんへの注文すらまだなのに、である。疲労が肩の上に山積みであるようだった。恐らく、全然頭が回っていない。

「席は取っておいてあげるから、手と顔洗って注文してきたら」

 竹谷は眉間に深い谷を刻んだまま、ああ、とやはり呻いて、小さく頷いた。わたしは懐に入れていた未使用の手拭いを渡してやって、お茶をずずっと口に含んだ。重い足音が去った後、埃っぽい匂いが残っている。食事の席には相応しくない。
 隣の机に固まって座っていた後輩のくのたまが、ひそひそと肩を寄せ合ってお喋りしている。先程の竹谷の様子についてだ。

「竹谷先輩が不機嫌なのって珍しいよね」
「いつも元気な人だもんね」

 激しく同意する。彼はご飯とお風呂で大体の嫌なことは水に流してしまえる性格であるし、後輩に対する気遣いができる男である。五年生は比較的みんな穏やかな性質の奴が多い中、竹谷は不破に続いて優しい。頼まれたら断れないのだ。
 ほかほかと湯気の上る食事を前に、わたしは可哀想な同輩のため、静かに待っておくことにした。




「洗って返すな」

 少しばかりすっきりした顔で戻ってきた竹谷は、B定食の盆を抱えて隣の席に落ち着いた。思ったより早かった。色々と限界値に達していたなら顔を洗いながらぼーっと意識を飛ばしていた可能性もあるが、空腹が現実に引き戻してくれたのではないかと推測する。育ち盛りの男の胃袋は下半身と同じく正直者である。失敬、口が滑った。
 揃っていただきますと唱えた後は、黙々とご飯を噛み締める。食堂はすっかり喧噪に包まれていて、先程までの苛々を隠せていなかった竹谷を気にする後輩もいない。六年生の先輩は明日の早朝実習に備えて早めの夕餉を済ませたらしく、この場にはいなかった。

「……あ、そうだ、待っててくれてありがとな」
「おう」

 思い出したのか、律儀に竹谷はわたしの顔を覗き込んで礼を言った。肉じゃがを味わうのに夢中であったわたしの返事は反射的で適当であったが、彼は特に気にした素振りもなく、がつがつと効果音を携えて米と切り干し大根と肉じゃがをかきこんでいた。
 別に、竹谷を待っている間、遠く離れた机に座った他の五年生の輩が興味津々な視線を送ってきたとか、そういった些末な事象を伝えてやる義理はない。竹谷が手洗いで席を外した後すぐに、四人揃って食堂に入ってきたいつもの面子のうち、わざわざからかうために鉢屋が隣の席に座ってきて、鬱陶しいからと追い出したことも、教えてやる必要はない。
 味噌汁を啜って何気なく視線を彷徨わせると、鉢屋がにたーっと笑っているのが見えてぞっとした。不破に対して申し訳なく思わないのかと問い質したくなる表情だった。竹谷も可哀想な奴である、今日の夕餉の話題のネタにされていること、本人はきちんと分かっているんだろうか。
 胃に美味しいものが流れていって、僅かに余裕を取り戻したらしい竹谷は、段々と平常の様子に帰りつつあった。時折肉付きの良い固い二の腕がわたしのそれに擦れるのにも反応を示さない程度には、まだ頭はぼけているらしかったが。
 初心な竹谷が、疲労でぼんやりとしているせいで、いつもよりわたしとの距離を縮めていることが面白いらしい五年の阿呆共が、ちらちらとこちらを見やる様子がわざとらしく面倒である。冷奴に夢中な久々知と、幸せそうに煮魚を突いている不破は除く。彼らは無害である。

「あ~」

 再度竹谷は呻く。熱い味噌汁は五臓六腑に染み渡るものであるから、不可抗力である。もう、蒸し返す必要はないように思われた。引き摺っているようであれば適当に聞いてやっても良いかなとは思っていたが、これだけふにゃふにゃした顔になっていれば大丈夫であろう。
 隣の机のくのたまの後輩達が、ふふ、と笑い合っている。竹谷先輩、今日デレデレね。さっきまで怒ってらっしゃったの、もう大丈夫みたいね。良かった、と鈴を転がすような声音。わたしがデレっとしてしまいそうな可愛さの後輩達であったが、残念ながらわたしに向けられた言葉ではないので、悲しみながら味噌汁のじゃが芋を口の中で砕く。
 口数が少ない方ではないはずの竹谷は、わたしとご飯と食べている時はあまり喋らない。理由はよく分からない。時々隣に座ってきて、美味しそうに食べて、じゃ、と元気そうに去る。こんなことを始めたのはいつだったか、と過去を振り返ってみるも、始まりの糸口は掴めないまま、わたしは甘くなった米粒の欠片を飲み込んだ。

「あ、そうだ

 聞いてくれよ、と唐突に竹谷が切り出したので、わたしは箸を止めた。顔色が真剣なものではなく、よく見せる悲壮感漂う顔だったので、少し拍子抜けする。固い椅子に座り直して短い返事をすると、茶屋の女の子の話が始まった。
 休日によく行く茶屋。看板娘は愛想も良く、団子の皿を手渡してくれる時に小さな手が触れてどきどきする。八重歯が可愛い。水を使うから手が荒れているのが痛ましくて、健気な笑顔がいじらしい。後れ毛がうなじに掛かっていて、ありがとうございました、と言ってもらう度に揺れるのすら可愛い。
 ふにゃふにゃと笑いながら、竹谷は箸を持ったまま嬉しそうに語る。僅かに俯きがちに、肩を竦める様子は委員長代理とは間違っても言えない程に頼りない。盲目だなあという言葉を飲み込んで、わたしは正解を口から零してやった。

「竹谷、それは恋だ」
「うん」

 素直な返事をした途端、竹谷はすんすん鼻を鳴らし始めた。わたしを見上げるその姿は、雨の中捨てられた子犬である。
 何なんだお前は。

「ずっと想っている幼馴染がいるって今日振られた……」

 この世の終わりのような震えた声は、段々と語尾が萎んでいって最終的に聞き取れるギリギリの音量しかなかった。隣の机の後輩達が肩を震わせて色々と堪えているのが見えた。わたしは何を返すか迷って、結局溜息が出た。何か辛いことがあって、ご飯を食べて誤魔化せたなら良かったと、真摯に思った結果がこれだ。

「心配して損した」

 最後の肉じゃがを咀嚼し終えて手を合わせ、席を立とうとすると、わたしの袖ごと腕を掴んだ竹谷が、嘘だろお前まで、と絶望した顔で縋ってくる。傷付いた友にこんな仕打ち、と太めの眉尻が下がっている。やはり五年の輩には散々からかわれたのだろう、道理で同じ席で食事しない訳である。
 呻きながらぎゅうぎゅうと加減なく腕を握り揉んでくる竹谷を引っぺがそうと躍起になるも、正攻法では敵わないのが実情である。指の跡が付きそうだ。

「泣くか怒るかどっちかにしろ」
「だって、なあ、それだったら最初から言っておいてくれたらさあ」
「予想ぐらいしなさいよ……」

 だって、と駄々を捏ねる竹谷の指は遠慮がない。二の腕を揉んでこないだけマシだが、ここは食堂である。よくよく見れば竹谷の盆の上には空っぽの食器が並んでいる。遠くで尾浜がなまあたたかい目でこちらを見ている。引き取ってほしい。
 はー、と深い息を吐いて、竹谷の額がわたしの肘にぺとっとくっついた。こいつ、こんなにいつでも犬全開だったっけ。確かに猫よりは犬寄りの見た目をしているとは思っていたが。あらゆる方向に跳ねた、痛んだ前髪が肌に擦れてこそばゆい。すん、と再度鼻を鳴らした竹谷は、理不尽な世の中だと更に呻く。
 低学年の後輩達が竹谷を不思議そうに見ながら食器を片付けている。このままでは乾燥した米粒の欠片がお茶碗にこびり付いてしまう。早くこの大きな子犬を引き取ってもらおう。

「ほら竹谷、食器返しに行くから離れろ」
「だってさあ」
「何がだよ」

 結局押し負けて椅子に腰が戻ってしまったわたしは、今度は肩にぐりぐりと額を押し付けてくる男をどうすれば良いのかを考えるしかなかった。人肌が恋しい、ぽろりと零された言葉に、まあこいつも思春期の男だし仕方ないよな、と思う反面、いやそれくらい自分で何とかしろよ、と叱責したい気持ちも半分。
 空いた手で湯飲みの茶を飲み干すと、いつの間にか近付いてきていた五年生四人組がにやついた顔を隠すことなくこちらを見下ろしていた。何なんだ竹谷見守り隊の隊員さん達よ。
 中でも久々知は至って真面目な(豆腐以外ではいつもそんな感じである)顔で、ぐりぐりと頭を押し付けるせいでバサバサと音が鳴って揺れている痛みまくりの竹谷の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。更に荒れ狂って風呂にでも入らない限り元の状態には戻らないと思うのだが、それでいいのか?

「ちょっとはハチを労わってやってくれ、七松先輩に吹き飛ばされて身も心もボロボロなんだ」
「は?」
「早朝実習に出発されるところだった六年生達と門の外で出会ってしまって、『凄惨な顔をしてるから私が手合せして元気付けてやろう!!』と七松先輩がお気遣いくださったんだよ」

 可哀想になあ、と尾浜が竹谷の肩をちょいちょい指先で突くが、竹谷は尾浜を無視してわたしの二の腕まで掴んできて、拘束が強まっただけであった。なるほど、それで食堂に入ってきた時に泥だらけだったと。いや、今はそんな分析をしているバヤイではない。

「な、結局の元に戻ってくるんだよコイツは。良かったな飼い主サン」

 鉢屋の揶揄はいつも通りである。いつわたしは飼い主になったのだろうか、と何気なしに竹谷を見やると、ぐりぐりしていた動きを一切止めていた。頭巾が外されているせいで、その耳に血液が集まってしまっているのが見えた。自分の行動を客観視できるようになったのだろうか。今更羞恥心を思い出しても遅いのではないだろうか。

「何、おかえりとか言ってあげたら良いの」

 途端、竹谷がばっと顔を上げた。その距離の近さに、座っていて下がれないのに思わず背を反らす。目元も朱色、あわあわと何かを弁解しようと開く口から覗く八重歯、羞恥に飲まれた竹谷は馬鹿の一つ覚えのように呻く。
 なんだ、可愛い顔しやがって。思わず口許が緩んでしまったわたしに混乱した竹谷が怒り出す。その頭を撫でてやるのがわたしの務めなのか、誰かに聞く前にわたしの指先は動いていた。

立方体にて水面を仰ぐ

160726|八朔さん、リクエストありがとうございました