今やSOS団の部室と成り果てた文芸部の部屋のドアをノックする。いつもの可愛らしい朝比奈さんの声はない。灯りがついているので誰かがいることは確認できるが、特定するには至らない。まあ、長門はいるだろう。
 冬の空気を纏っているせいで触るのを躊躇ってしまうノブを恐る恐る捻ると、想像通り指先が硬直した。冷たさのあまり顔を顰めたまま中を覗くと、想像通りにパイプ椅子に座って本の世界へ飛び込んでいる長門と、同じくパイプ椅子に座ってひたすらシャーペンをノートの上で動かし続けるさんがいた。さんがいたとは意外だ。ハルヒに捕まらなければ、彼女は放課後になるとすぐに学校から姿を消してしまうからだ。

「おい、キョン」
「はい?」

 ドアを開けた人物を確認することなく、さんがその正体を俺だと言い当てたことに少し驚く。まあ、ハルヒだったら入ってきて早々に何か面倒な提案を叫んでいることだろうし、古泉だったらわざわざ丁寧に挨拶でもしてるだろう。無言なのは俺と長門くらいなのかもしれないから、不思議ではなかったのかもしれん。
 さんは視線をノートと問題集の間で行ったり来たりさせながら、ガリガリとシャーペンで紙の表面を引っ掻いている。ははあ、数学か。グラフと数式で真っ黒に埋まりつつあるノートを感心しながら眺めていると、さんは漸く俺を見据えた。しかし視線は鋭いままだ。

「寒い。はよドア閉めやがれ」

 言われて気付いて俺は素早くドアを閉める。十二月は殊更冷え込む。特に今年は例年以上だろう(しかし何時も思うのだが、天気予報では毎年「例年以上の寒さでしょう(暑さでしょう)」を言っている気がする)。ぶるっと身震いし、マフラーだけを外してヒーターの前で縮こまる。埃のにおいがする。果たしてこのヒーター、最後に掃除されたのは何時なのか。あまり考えたくないな。
 さんはふうと溜め息を吐いてシャーペンをノートの上に転がした。座ったままぐっと背伸びをして、ごきごきと背骨を鳴らした。さんはよく骨を鳴らす人だ。やり過ぎると脊髄に影響が出るから危ないですよと言ったものの、大丈夫まだ死ぬ予定ないから、と些か的の外れた答えしか返ってこなかった。

「休憩ですか」
「んー、うん。疲れた。お茶淹れてくれたりしない?」
「はいはい」

 ぐでっと机の上でうつ伏せに弛緩したさんに苦笑いを返し、ポットの中に中身があるのを確認してから急須に注ぐ。ハルヒによってでかでかと達筆な字でと書き殴られた湯呑みを熱々の茶でいっぱいにして、どうぞと渡した。ノートに頬をくっ付けて礼を言うさんは幾分幼く見えて、年上ではないみたいだった。
 猫舌のさんはゆっくりと上半身を起こし、湯呑みで指先を暖めている。茶が少し熱を失うまでさんはずっとそうしている。猫舌の上に冷え性なのだ。ちらりと机の下に目をやると、さんの脹脛は縞模様のもこもこ靴下で覆われている。タイツを履いてもそんなに冷えるものなのか。
 ふうふうと息を吹きかけて、ゆっくりと茶を飲み出したさんはいつだって真剣な顔つきをしている。上顎を火傷しないように、舌先を火傷しないように。今回はどちらのミッションもクリアしたようで、ほっとした顔に戻って茶を啜っていた。
 さんの隣に座って俺も自分で淹れた茶を飲む。長門も飲むかと聞けば首を横に振られた。長門の視線は淀みなく文字の上を滑っていく。

「……もーじきクリスマスかあ」

 その話はやめてくださいよ、とは言えない俺。何故ならさんが遠い目をして言ったからだ。うきうきと弾んだ声で言われたならば俺は諸々に言いたいことがあるのだが、この人はそんなハルヒの様なテンションを持ち合わせている人ではない。寧ろ俺の苦労を分かってくれる良き理解者なのだ。

「涼宮が面倒なこと言い出すのは目に見えてるもんねーはっはっは」

 ずるずる茶を啜り、再び机に突っ伏してしまった。俺も思わず溜め息を吐く。長門がぱらりと本のページを捲る乾いた音を零し、さんは唸った。

「キリスト教徒でもないだろうに……」

 はは、と適当な苦笑を返す。日本人は無宗教であることが多い故のこの行事は、宗教色が極めて薄い。クリスマスは良い子にしてたらサンタクロースからプレゼントが貰える日、そんな認識が常識だ。
 さんは僅かにずり下がってきているらしいタイツを指先で摘んで引き上げて、机に肘を付いてぼんやりと遠い目をした。そして溜め息と共に机の上にうつ伏せに潰れて、顔だけを横に向けて俺に視線を向けた。
 さんはまるで自分の好きな人が自分以外の女に告白されている現場を偶然間近で目撃してしまい、挙句長年想っていたその人が告白女に承諾の旨を告げた為、幸せオーラを周囲に振り撒く新たなカップルの誕生に、表面上おめでとうと言う以外の選択肢を排除されてしまった時に仕方無く浮かべる力の無い笑顔を貼り付けた。

「……異世界人だって言ったら、信じる?」

 嗚呼頭が痛いね。
 さんはSOS団において最高にまともな人だと思っていたのだが、それは俺の勘違いで、本当は電波少女だったのか。いや、参った。唯一苦労人気質であるという共通項を持った人であると喜んでいたのに。やっぱり神様とやらは意地が悪いな。
 なんてつらつらと頭の中身をごちゃごちゃ回転させて返答を渋っていたら、さんは得意じゃないと強がって言っていた納豆を食べた時と同じ顔を一瞬浮かべて、無理矢理に口角を上げ、緩やかに瞼を落とした。

「はは、……ごめん、馬鹿なこと言ったわ」

 忘れてくれー、とひらひら手を振って机に突っ伏してしまったさんを見ると、いくら考えても先程の発言に嘘がちっとも含まれておらず、寧ろゴリ押しの真実のみで構成されており、しかしかなりの気まずさに発言を取り消したい余りに現実逃避を行っているようにしか見えない。
 机の上に散らばった黒髪がシャー芯の色と同調している。ぴくりともさんは動かない。ヒーターから吹き出る温風の立てる音と長門が紙を捲る音だけがよく響く。
 ……マジかよ……。
 冬だというのに嫌な汗が背筋を流れた。なのに足先は冷えたままだから、この部屋が温もりすぎて汗をかいた訳ではないことが証明されてしまった。

「……そう言うんなら、本当なんですね?」

 さんは俯いたままゆっくりと上半身を起き上がらせて頬杖をして、のろのろと右手で数学の問題集のページを捲った。否定も肯定もせずだんまりと無視を選択したということは、恐らく肯定の意だろう。さんは右手にシャーペン、左手に消しゴムを携えて頬杖を解いた。

「ごめん」

 俯いたままのさんの表情は伺えない。想像するまでもない。
 再び謝罪の言葉を口にし、言うつもりはなかったのだと、さんは重ねた。つい、うっかり、ぽろっと。心の内の呟きが零れてしまったのだろうと予想は付く。SOS団に所属していながらまともな思考と行動を兼ね備えているさんだって、偶にはミスもするだろう。
 だが仮に俺がこのことを聞かなかったことにしたとして、果たしてそれが正解なのだろうか? 俺と長門しかいないこの部室で、さんは恐らく真実を漏らした。そのことがどんな意味を持つか、分からない訳ではない。このひとは俺達二人を信頼した上で言葉を発したのだ。
 ただ、実直に「はいそうですか」と納得出来るほど俺も脳味噌が溶け切ってる訳ではない。現実味が無い吐露に戸惑ってしまう俺に、さんは敢えて何も言わなかった。少々苦々しい顔、と言うだけでは表現し切れない。
 長門は何のアクションも取らないまま、ただ静かに読書に耽っている。まあこいつが驚いてるとこなんざ見たことがないし、もしかしたら長門は全て分かっているのかもしれない。俺はチンプンカンプン、思考回路はこんがらがって今にもショートしそうだが。

「涼宮はすごいよね。本当に集めちゃうんだ」

 宇宙人、未来人、超能力者。さんは鶴屋さんのようなポジションの人だと信じて疑わなかった俺は、彼女の担う役割にただ驚くことしかできない。

「わたしは帰りたいんだよ。でも帰りたくないとも思ってる。この矛盾した感じが自分でもとっても腹立たしい」

 あーキョン、聞き流して良いから。年寄りの戯言だから。
 いや、一つしか歳が変わらないのに、年寄りって。加えて俺は、聞き流して良いと言われて素直に聞き流せるタイプの人間ではない。何を返せば良いのか分からない。どうしたら。
 俺があまりにも呆然とした顔付きをしていたからか、さんは徐に席を立ち、自宅から持参したというコーヒーメーカーに手を伸ばした。黒々とした液体が湯気を立てながら、真っ白なマグカップに注がれていく。マグカップは三つ。さんの席に置いていた湯呑みを見ると、中身はすっかり空になっていた。

「カフェイン摂り過ぎかなー、本当は冷えによくないんだってね」

 何事も刺激が強すぎるのは良くないんだなあ。コーヒーも緑茶もカフェインさんたくさんだから。さんはそう言って、しばらく液体を眺めている。本当に猫舌なのだ。

「解けない問題を目の前にしたら、キョンはどうする」

 さんはマグカップになみなみに注がれたブラックコーヒーを零さないように慎重に歩みを進めている。一つは長門が座っている席の前へ、もう一つはじぶんの湯飲みの傍へ、最後の一つは、

「……答えを見ます。解説を読んで、もう一度解き直します」
「なあんだ、同じか」

 俺の手の中へそっとマグカップが押し付けられる。さんは歯を見せた。無理矢理に笑ってみせているのがよく分かった。同じ。俺の解答と、さんの考えが。

「自分が正しいと思う答えを信じるしかないんだよなあ。解説は省略、解答の結論だけ書かれたこの参考書は、世の中の不条理さをよく表現してるよ、本当に」

 頭の良い奴が得をするようにできてる、嫌になるねえ、さんは目を眇める。長門が本のページを捲る乾いた摩擦音がやけに大きく聞こえる。俺は、何と返すべきなのか。どれが最善なのか。
 彼女が、その傷口をわざわざ抉って俺に見せた理由は、何だ。

「さてキョン君、問題です。この寒空の中、天の羽衣はどこから仕入れるのが正しいでしょうか」

 答えの出ない問いを投げかけたさんの瞳は、陰々滅々たる色合いで揺れている。

金のリボンで結わえて燃やして

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