電子レンジでチンしたような恋をしていた。いや、そもそも恋とはじわじわ感情が昂るよりも一気に上昇する方が多いのではないかと推測する。いつ好きになって、とか、細々としたことを考える以前の問題で、気が付いた時には既に落ちている。色んな本や漫画や映画を見てきたけれど、登場人物は大体そう言うことが多い。手遅れだとも。
 まあつまり、爆発したのだ、好きすぎて。加熱しすぎたのだ。わたしは生卵だった。恋愛に不慣れな人間が無茶をするからこうなる。電子レンジの内側は黄色と橙色の中間色が汚らしく飛び散っていることだろう。こんなことをしなければ美味しく食べてもらえたのに。
 女の子を食べ物に例えるのもよくある話だ。あの子は綿菓子みたいに甘いとか、そんな表現。わたしは口の端を汚さないように綿菓子を食べることが出来ないので、綿菓子のようなという形容の言葉にはあまり良い印象が無い。元はザラメなのだし。ふわふわしていて口の中であっと言う間にいなくなって、中身が無い。そーゆー女の子が好まれる世の中だと知っているのだが、綿菓子を目指す為には険しい道のりを越えていく必要があり、とてもじゃないがわたしには無理だ。生卵のわたしには。
 良いじゃん生卵。調理の方法は無限大。ザラメの彼女はザラメとしての使命が限られている。彼女は甘い味にしかなれない。
 溜め息を吐く。誰が好き好んで卵かけご飯みたいな恋愛を望むだろう?いねえよそんな奴。
 とりあえず電子レンジの中はどろどろのぐっちゃぐっちゃで掃除が大変な状態だが、蓋を開けなければ分からないので、通常運転を見せかけている。多少雰囲気が刺々しくなっているかもしれないが、思春期の女の子にしてはわたしは随分冷静な方だと思う。人様に迷惑かけてない、だいじょぶだいじょぶ。
 現状、大丈夫ではない。
 仁王がじとりとした目でわたしを睨み付けて早三十分。重苦しい沈黙の中で、部室のパイプ椅子に座って部活の日誌を書いているわたしを、仁王は飽きることなく睨み続けている。そろそろ飽きろよ、視線がむず痒い。
 一言も口を開かない仁王のせいで部室内の空気が張り詰めていて息苦しい。仁王のことなど仁王自身にしか分からぬ。他人のわたしが口五月蝿く指摘して何になる、馬鹿馬鹿しい。
 本日の練習メニューを記入し終えたのでノートを閉じる。同時に仁王が息を吐いた。わざとらしい溜め息だ。やっとわたしから視線が外れてわたしも溜め息を吐く。疲れた。

「何でお前さんが溜め息するんじゃ」

 何でわたしはお前に咎められているんだ、と思いながら学生鞄に筆箱を突っ込む。後は職員室に部誌を提出するだけだ。地面と椅子の間に埃や砂が挟まっているので、パイプ椅子はぎしぎしと嫌な音を立てる上に座り心地が滅法悪い。立ち上がろうにも上手く椅子が動いてくれないので、膝を曲げた妙な体勢のまま立って、鞄の紐を肩に掛ける。
 落ちた方が負けという言葉を思い付いた人は本当にすごい。泣きたくなるくらい正論だ。

「何でもかんでも過去形にしよる」
「え、してないよ」
「英語の宿題の話じゃなか」

 現在完了形の問題で、うっかり過去分詞でなく過去形を書いてしまっていたのがバレたかと思った。仁王に宿題を見せてやる前に気付いて書き直したからそんなことは無いだろうと思っていたのだけれど、そういうことではなかったらしい。じゃあ何だ。
 別に仁王にへらへらしていてもらいたい訳では無いのだが、もうちょっとくらい穏やかな表情で接してくれたって罰も当たるまい。目線で座れと命令されたので、長机に鞄を下ろして歪な音色を奏でる椅子に腰を下ろした。

「はよう出しんしゃい」

 目的語の伴わない命令文は、かたい音をしている。緊張の色だ。

「何を」

 以心伝心の仲ではないので、わたしは問い質さなければならなかった。例え何となく予感があったとしても、嫌な汗が手のひらに溜まっていたとしてもだ。

「ほお、惚けるか。お前さん偉くなったのう」

 口の端っこも眉尻も吊り上げた仁王は、お世辞にも優しい表情とは言えない。新入部員が見たら泣いて逃げ出すかもしれない。美形が怒ると怖いのは普遍的事実だ。
 仁王だって帰る準備はもうできている。マフラーまで巻いて完璧な装備だというのに、何故パイプ椅子から離れないのか疑問である。口許がチェック柄のマフラーに隠れて見えないが、きっと苛立ちにひん曲がっていることだろう。
 来る者拒まず、去る者追わず。これ程ぴったりな表現をわたしは他に知らない。仁王は自分を中心として円を描いて、近付いてくる対象をじっと見詰めているだけなのだ。円周上に足を踏み入れた瞬間、仁王の曖昧な態度は始まる。わざとやっているのだから性質が悪い。仁王の目はあまり笑わない。
 こうも他者に攻撃的な姿勢を取るのは珍しい。

「具体的にお願いします」
「お前さん、自分で自分の首を絞めとる自覚はあるんかの」

 お、いや、これは逆だ。虚勢だ。具体的な言葉にすると仁王自身が困るのだろう。不利にならないようにわたしの口を操りたいというところか。見えないボーダーラインを反復横跳びさせて何が楽しいんだ。
 部員はみな帰ってしまった。部室にはレギュラーとマネージャーが一名ずつ。残された仕事は職員室への部誌の提出と部室の戸締りのみである。仁王が席を立てば、わたしは本日最後の仕事を終わらせることができるのだが、パイプ椅子に背を預ける仁王は猫背を維持して動かない。
 わたしの鞄の中身を見られていたとしたら、この無駄な虚勢は一瞬で崩落して、わたしは残された数ヶ月の中学校生活を辛酸を舐めながら過ごすしかあるまい。
 仁王の隣は物理的に静かで、穏やかで、ふっとした瞬間に加熱が始まる。人の少ない場所をよく把握している仁王の横では、確かに心臓がやかましく怒鳴り散らすことはあるが、わたしは平静でいられたはずだった。
 少し前までは。

「はあ」

 わざとらしい声音だった。仁王の溜息はすっかり失望の色に濡れていて、わたしはあらゆる選択を間違えていることを実感する。だとしても、どうしようもない。何をどこから訂正すべきなのかもう分からないし、そもそもこの感情自体が間違いのようなものだ。
 しょーもない友達でいることは楽で、心地良くて、不安の材料をわざわざ抱える必要もなくて、わたしは間違えて千二百ワットで加熱してしまった事実だけを恨めば良かった。見ないふりをしておけば、いつか誰かが掃除してくれる。それまでの辛抱だったのに。

「……右手出しんしゃい」
「なぜ」
「俺も右手を出す。お互い隠しとるモン出せば恨みっこナシじゃろ」

 なるほど、平凡な日常を提供してくれる優しさ月間は終了したということだろう。もうわたしのどうしようもない心の内など火を見るより明らかとでも言いたいのだ。酷い奴だ。自分は誤魔化すくせに。
 もう焦げる寸前のわたしは、ヤケクソだった。もういい。もういいんだ。卵は炭になった。苦々しさしか残っていないこれを咥内にねじ込むのも悪くないかもしれない。仁王がわざわざ右手、と言った。それだけを理由に、わたしは生傷を作ってやるつもりで捨て身の言葉を吐く。

「それ、左手だと困るの?」

 はっと鼻で笑いながら尋ねたわたしに、仁王はきっと同じような表情で返すに違いないと思っていた。自分の発言に責任をもって左手を差し出した。右手には部誌を携える。この茶番が終わればさっさと職員室に寄って帰宅してご飯食べてお風呂に入って寝るのみである。枕が大変なことになるかもしれないので、スポーツタオルは忘れずに自分の部屋に持っていこう。
 さあ殺せ、という覚悟でわたしはトドメを刺してくれる仁王の顔を見た。

「……は?」
「ほ、んまに、往生際の悪い女じゃな!」

 そう吠えてぐしゃぐしゃに髪をかき混ぜて、仁王は自分の鞄の中から乱暴に手のひらに乗る程度の小さな立方体を取り出すと、わたしの左手に押し付けて猫背を更に丸めて縮こまってしまった。
 箱は、そう重くない。仁王が選んだとは思えないピンク色の包装紙に赤いリボンが巻き付いている。中身は怖くて確認できない。
 すっかり俯いて旋毛だけをこちらに向けている仁王の耳は火に当てられたようで、そう言えばヒーターを切り忘れていたことを思い出す。ギギ、と嫌な音を立てて椅子から立ち上がると、仁王がばっと顔を上げた。
 混乱していた。訳も分からず己の鞄の中を引っ掻き回し、ずっと渡す瞬間を探しては諦めていた代物を掬い上げる。仁王の左手に押し付ける。青色のリボンを巻いたそれは、貯めていたお小遣いを使い果たして買った、ブランドものの手袋である。爆発四散した生卵は、もう元の姿に戻れない。こうする他なかったのだ。
 仁王が珍しく驚いた顔でわたしを見上げているので、叫び出したくなる衝動を必死に我慢して視線を逸らすと、わたしの手のひらに収まった可愛らしい小箱に辿り着く。

「……あれ? なんで誕生日の仁王がわたしにモノ渡すの?」

 芥子色のジャージが大袈裟なほど跳ねた。思考などとうに焼けて、わたしは仁王を待つしかない。

この声に歯を立てろ

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