「彼女できたんだ」
えっ人体練成したの? と言わなかっただけ、わたしは賢明だったと思う。対して興味も無かったので、とりあえず「そうなんだ、おめでとう!」とコメントをしていおいた。無難だと思う。何でも、この元は彼氏という身分であった男の、新たな彼女さんは経済学部の主席で、国家公務員を目指していて、勉強に大層ご熱心な女の子らしい。それはすごいぞ、純粋にお会いして勉強のやる気持続のコツとかをお伺いしたい。是非。
経済学部の主席かあ。主席ってすごいな。大学での勉強というのは本当に個人差がはっきりと出るものだから、きちんと継続して努力を重ねているに違いない。生まれ持った才能だけで生きている奴は除く。天才と呼ばれる奴らは次元が異なるので話題に出すべくもない。そう、例えば同じ理学部の鉢屋三郎とか。逆に言えば、法学部の久々知は努力の変態である。地頭もかなり良いけど、勉強が好きじゃなきゃ例え頭が良くたってセンター試験で全科目の点数が九割超えなど夢の話である。時々人間じゃないなと思う。
ここで、おや、と思った。今ここで、わざわざ彼女がどんな人であるかというのを事細かに説明する必要があるだろうか。この元彼女のわたしに。二週間前までは違ったけど。「彼女できたんだ」「そうなんだ、おめでとう」これで完結じゃないのか。まあ楽しそうに話してくれるので、わたしはふんふんと相槌を打ち、とんでもなく素晴らしい彼女のことを聞く。聞けば聞くほどすごい。出来た人だ。友達になってくれまいか、切実に勉強教えてほしい。切実に。
電車でわたしの横に座り、男が流暢に話しながら何か勝ち誇った顔をしているのを見て、懸命に相槌を打ちまくるわたしは何かよく分からんが違和感を覚えた。
そして、はっと気付く。そうか、これは風刺、当て付け、嫌味だ! 前の彼女に今の彼女の詳細を語り、「俺はお前と付き合ってた頃より幸せです」というアピールをしているのだ!
すげえ、ドラマっぽい! 月九とかこんな感じじゃないか!? ドロドロ恋愛劇だ! わたしは滅多に無い体験をしたことに感動した。非日常っぽさを味わっているこの状況に何だか楽しくなってしまって、熱心にその話を聴いた。聞いたではなく聴いたである。より関心を持って。ちなみに恋愛ドラマは殆ど見ないわたしであるので完全なる偏見である。まあ、逃げ恥はとても面白かったので除くぞ。
恋愛ごとなど、竹谷が常に恋を始めようと頑張って破れていくさまを見ているだけで十分面白くて満足だったわたしだが、このような状況下に己が配置されるとなるとわくわくしてしまう。当事者とは、物事を変化させるだけの力を持つ者のことだ。
が、わたしがあまりにも興味津々かつ彼女さんの素晴らしさに感心しながら話を聴いていることに気味が悪くなったのか、元彼さんは「はどうなの?」と話題をすり変えてきた。何故。わたしの話などどうでもよい。付き合っていた頃と変わらず、研究室と部活と勉強とバイトの日々である。特に面白い点は無い。
そりゃ尾浜みたいに可愛い顔して女の子をとっかえひっかえする日々であるなら自慢せざるを得ないだろう。フィクションみたいな野郎であるので凡人が真似をするのはかなりの技術が必要である。穏やかながらも日常を美しく過ごしているのは同期の中でも不破くらいだろう。不破の彼女はバイトを三つも掛け持ちしている社畜で、加えて公務員講座を受けながら教習所に通っている。そんな中で不破とのデートの時間はきちんと捻出しているというのだから、可愛い顔して化け物か何かなのかもしれない。どこにそんな体力が。
「へえ、は相変わらず忙しそうだね」
お、これは遠回しに「忙しいアピール乙」と言われているな。まあ不破の彼女には負けるからな。張り合うつもりがそもそもないけど。加えてわざとらしく名前呼びから名字呼びに変えてそれを強調してくるスタイル、うん、本当は名前で呼ばれるの好きじゃなかったんだと言えなかったから、今のところとても嬉しい。
仕方無い、付き合っている頃も散々言われたもの。『男友達がいるの?』『バンド二つも組んでるの?』と驚かれたのもよく覚えている。『俺のことを考えてくれるなら、時間作ろうって努力するのが普通でしょ?』も、理解できる。
しかし、うちの軽音部ではバンドを複数組むことが普通で、わたしはレギュラーで組んでいるバンド一つと、次の学内のライブ限定で活動する企画バンド一つに参加しているので、それくらい許してくれたって良いんじゃないかと思う。やっぱり音楽は好みが分かれるところがあるから、企画バンドの存在は結構重要なのだ。レギュラーバンドは割と王道な邦ロックのコピー中心だけど、企画バンドはそれぞれがやりたい曲を一つずつ挙げて好き勝手できるのである。
レギュラーバンドはボーカルの尾浜にギターの鉢屋と不破、ベースの久々知にドラムの竹谷で構成されており、わたしはキーボードをぽちぽちする要員であるが、なかなかどうしてこれが楽しい。ちなみに企画バンドは先輩後輩混合で、ギターボーカルの食満先輩は五月蠅いがギターの腕前は確かである。あと久々知はこちらのバンドではドラムをしていて、ベースは後輩の綾部と不思議ちゃんと常識人がせめぎ合う非常にカオスなバンドである。
まあ、『バンド辞めて俺との時間を大事にしようとか思わないの?』と言われた時点で、ああわたしの優先事項はバンド・友達>彼氏で、己がどうしようもないクズであることを再認したに過ぎなかった。しかしクズは一朝一夕で治るものではない。だからクズなのである。軽音楽部にはどうしようもないクズがたくさんいるので感覚がすぐにボケてしまっていけない。うちの大学はまだ大人しい方なんだ、これでも。ライブ中にすぐ脱ぐ食満先輩と竹谷を見慣れ過ぎてしまったせいで、女子として大事な何かを落としてきてしまっているのを自覚したのも最近である。
迂闊な発言をせずに黙り込んだわたしの選択は、結局正しかったのかどうか分からないままである。
何やかんやと話は続いたが(とても弾んだとは言えない)、電車が元彼さんの最寄り駅に到着したのでお互いに口を閉じた。わたしは相槌を打った程度だ。結局わたしが得た情報と言えば、スペックの高い新しい彼女についてである。その彼女にお会いする機会も無いと思うので、結論として無意味なものだが、まあ、元気に毎日を過ごしているならそれでいいんじゃないだろうか。
いや、その彼女から勉強を教えていただきたいとは心から思うが、それを伝えたところでどうしようもない。勉強は、結局自分でどれだけ頑張ったかによって結果が変わるものだからだ。他人に任せて成績が上がる訳もない。これは久々知からの受け売りである。勉強を教えてくれと懇願した結果とも言う。
電車が大袈裟な程揺れて、ようやく元彼さんの最寄り駅に着いたようだ。ここの線路はガタガタなので、立っている時はたたらを踏まないように足の裏に力を入れておかなければ簡単に尻もちをつくことが可能である。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
ぞろぞろと人が電車から吐き出されていくのに混じって、元彼さんの姿も見えなくなった。わたしはすっかり人の減った車内で欠伸を噛み殺した。ああ眠い。最寄り駅まであと十五分はある。わたしは読みかけの文庫本を鞄から取り出し、栞を挟んだページを開く。いつも通りである。
次の駅に電車が止まり、仕事でへろへろになった人々が次々と降りていく。と思うと、足音が近付いてきて、わたしの隣で静かになった。
とりあえず、この会話を電車内で繰り広げたのは良くなかったようだ。
「何あれ」
「何でしょうね」
道端に落ちている煙草の吸殻でも見るような目で見下ろされ、萎縮せざるを得ない。最強に居心地が悪い。ただでさえこの時間帯の電車は何の匂いか分からないが、下手すると気分が悪くなる空気であるというのに(仕事に疲れたおじさんの匂いなのかもしれないとか考えたが、おじさんは一生懸命頑張ったからそうなったのであって、おじさんを罵るのは可哀想というものだ)。
「……やるじゃん」
にやっと鉢屋が笑う。薄汚れたニューバランスのスニーカーに視線を落とし、足を組んだ鉢屋は膝の上にリュックを安置した。紺色であるはずのスニーカーはところどころが白かったり黒かったりと、そろそろ洗うべきなんじゃないだろうか。
「何が」
「真剣に返してたとこがなお良いな。馬鹿かと思ったけど」
先程の応酬のことを指しているのだろう。わたしは呆れて息を吐いて、鞄からペットボトルを取り出す。人が少なくなったから、飲み物くらいは大丈夫だろう。キャップを外して一口含むと、鉢屋は図々しくも「俺も」と言った。何でだ。抵抗しても無駄だと学んでいるので、素直にペットボトルを渡す。さらば、ほうじ茶。
「褒めるか貶すかどっちかにしてよ」
「褒めてんだよ」
何でこいつはにやにや笑うのがデフォルトなんだ、たまには不破みたいにはにかんでみせろよ、と思うが、そんなことをされたらますます不破との区別が付きにくくなって不便なので、そのままの鉢屋でいてもらうのが一番なのだろう。
鉢屋はペットボトルの蓋をきちんと閉めて、わたしの手にそれを戻した。おや、珍しくも本当に一口だけにしたようだ。どういった風の吹き回しかは分からないが、イチイチ考察していては胃が荒れる。まだ少し重みの残るペットボトルを鞄にしまう。
今日はギターを背負っていないところを見ると、練習の後ではなくライブハウス帰りなのだろう。この路線の始発の駅から徒歩五分の距離にあるライブハウスは、うちの大学の軽音楽部もよくライブ出演させていただくところで、インディーズのライブイベントが日々行われており、鉢屋はそこのバイトスタッフである。バイト帰りのわたしと同時刻の電車に乗っているということは、箱打ちか受付でもしていたというところか。今日はどのバンドが出るライブだったっけ、と塾講師のバイト明けの酸素の足りていない頭でぼんやり考える。
始発駅から乗っていたにも関わらず、少し離れた席からわたしと元彼の会話をわざわざ盗み聞きしていたのだろう。いっそ邪魔してくれればわたしも気が楽になったものを。性格の悪い男だなあ、と思うが、こんな奴に限って頗るモテるのだ。食満先輩と完全にお笑い枠に収まってしまった竹谷は、彼女ができないと日々嘆いているというのに。
広げた文庫本の栞の紐を指先で弄び、さて、どの選択肢が正解なのかを考えることにした。鉢屋を無視して文庫本に集中するか、スマートフォンでツイッターでも確認するか。いっそ寝てしまうのも良いかもしれないが、たった十五分では中途半端な睡眠になってしまう。これは無駄な考察ではない。
「ああそうだ、忘れんうちに渡しておくわ。月末のチケット」
鉢屋がぺろっと財布から紙切れを出した。取り置きしてもらっていた、わたしの好きなインディーズバンドのライブチケットだ。わたしは慌てて鞄の中から財布を取り出し、五百円玉一枚と等価交換した。前売り五百円、プラス、当日にドリンク一杯分を支払えば事足りる。
「ありがとう」
簡素に礼を述べると、鉢屋はダッフルコートのポケットからウォークマンを取り出して、わたしの耳に勝手にイヤフォンを差し込んだ。左右を間違えることもなくスマートに。無駄な技術である。
「先月、お前が買いそびれた音源な」
「あんた神か」
「こんな時だけな」
わざとらしく鉢屋はにこりとした。鉢屋の宣言通り、わたしが先月買いそびれた音源が、適度な音量で流れてくる。このバンドはベースが上手くて良い。
「お前、男運ないよなあ」
空気を十分に含んだ声色がイヤホンをしていない方の耳を擽る。喉の奥で笑う鉢屋は陰湿だが、後味は悪くないから不思議である。
「鉢屋も女運ないよ。後輩にとられたって?」
「嫌な言い方するなよ、ちゃんと別れた後だ」
鉢屋の眦は僅かに熱を帯びて、ああこいつでもきちんと傷付くんだなあと分かって安堵する。色んな意味で化け物みたいな野郎だけれど、忘れた頃に人間くさいところが見えると同じ生き物なのだと確認できる。すぐ泥沼化する軽音部は、いつだって修羅場のにおいと隣り合わせなのだ。鉢屋が死にそうな顔をしていたのは先週のことである。
「綺麗な子だったのに勿体ない」
「それは全くその通り」
お互いに慰めるのはヘタクソなのだ。
距離を間違え続けている。誰かに指摘されるまで、わたしはこの不器用な優しさをちらつかせる友人をそれなりに大切にしたいと、そう思うのだ。