食べ物を粗末にするのは許せないと、ずっと思っていた。それが間違っていないとも思っていた。別に世界の貧富の差とかわたしの財布と口座の中身が瑣末なものであるとか、人類皆平等平和主義とか言うつもりはない。わたしはわたしの目の前にあるものが平和であれば満足だし、最低限の衣食住を確保できる金額さえあれば生きていける。食べ物を有り難く口にすることは一般的であると考えているまでである。
 ところがどうして、これは良くない。目の前に鎮座するチョコレートは目が眩むほどの高級品ではないけれど決して安くもない。いつものわたしだったらあっさりぺろりと平らげていただろう。間違いなく。だって自分じゃ買わない代物だ。
 だからこそ、今回は自分で買ったこのチョコレートをどうすることも出来ずに時間を浪費している。
 別に自分で食べたって良い。しかしどこかでゴミ箱に投げ捨ててやりたいとも思う。だがチョコレートに罪はない。美味しいことは分かっている。早急に取扱要綱を確認してそれに従って行動すれば良いだけの話だが、そもそもそんな要綱はない。現実逃避をしたところでチョコレートが自動的に昇華する訳でもない。
 ガチャリとドアのノブが回る音がして、穏やかな足音が近付いてくる。休憩室の固いソファーにひとりで腰を据え、右手にコンビニで調達したライムの缶チューハイを握り締め、じっと机の上のチョコレートを見下ろすわたしを見て、ふうん、と何やら納得したらしい呟きが零れてきた。
 ノックぐらいしろよ、と言うのを忘れた。

「あと三十分は悩むよ」

 声の主はぼりぼりとぼんち揚げを咀嚼しながらにやにやとこちらに視線を寄越してきた。平時と何も変わらない、眠たげな目蓋である。
 アルコールを煽ろうとして、勝手にやって来たという事実を除ければ客人である存在である男に対し、気遣って飲む? と聞きかけて、わたしはこいつがかろうじて未成年であることを思い出した。危ない危ない。こんな顔をしているのだから少なくとも成人はしているだろうと常々勘違いしてしまう。俺、嵐山と同い年だよとのたまうものだから、そりゃあ、驚いた。それも何年前だっけ。
 飄々としたその皮を引き剥がせば、本当の子どもみたいな部分が見えるのだろうか。馬鹿げた想像をも見透かしているのか、迅の語尾は楽しそうである。

「俺が年上だったら良かった?」
「いや別に」

 迅は釣れないなあと軽く笑って、勝手にソファーに腰を落とした。その距離、拳一つ分。いやに近い。言葉の距離も。ぼんち揚げの袋をガサガサ鳴らして、わたしの口に断りもなく押し込んでくる。食べかすが零れるといけないので左手を受け皿にして仕方なく噛み砕く。迅は満足げな顔をしている。
 こんな詰め方をする奴だっただろうかと、今よりは幼かった迅を思い出そうとするが、ぼやぼやとした風景と近界民の記憶ばかりが浮かんで、諦めるしかなかった。血と埃のにおいの方がよっぽど鮮明である。
 手に付いた油を鞄に入れていたポケットティッシュで拭う。口の中の水分が持って行かれた。

「迅の前じゃプライバシーもクソもないな」
「女の子がクソとか言うなよ」

 女の子、ねえ。剣呑な目付きをしていないことを祈りつつ、わたしは鎮座する美味しいチョコレートが入った小箱を指先で弾くようにして迅の目の前に滑らせた。

「丁度良い、持っていきなよ、あげる」
「残飯処理だ」

 迅が口の端を吊り上げた。目は笑っていないがいつものことだ。ニヤニヤとした笑みを浮かべている時こそ、その瞳を縁取る下睫毛が緩やかなカーブを描くが、こうしてわざとらしく笑う時、さも可笑しいと声を震わせているのに比べ、虹彩に色はない。
 こいつが心から笑っているところなど見たら、それは世界の終わりかもしれない。

「高級な残飯だよ、誰も手をつけてないから安心して良い」

 包装をまとめるシールにすら、爪痕一つ残っていない。丁寧に巻かれたリボンの結び目も緩んでいない。結び目に添えられた、水分の抜かれた美しい小花も、一つたりともその形を崩してはいない。
 製菓企業の手のひらの上で見事に転がされ、カカオを原料とする甘い食べ物、中でも普段の自分であれば絶対に買わないような価格の代物を買った途端にこれだ。送る相手を失った哀れな届け物を視界の端に追いやって、アルミ缶を傾ける。喉には多少の刺激しか残らない。

「……正直めんどくさくて」
「へえ」

 全く酔えていないがこの機会を逃せば語ることもないであろう言い訳をひとつ漏らす。咎めることなく適当に相槌を打っている迅には、この瞬間だって随分前に見えていたに違いない。どれだけの並行世界が見えていたとしても、わたしの行動は大して変わらないのだろうと思う。
 一時期は、上手くいくと思っていたのだ。特別大きな喧嘩をしたことはなく、至って落ち着いた、穏やかな日々を重ねられていたと思う。そこに刺激があったかどうかを問われると一気に自信がなくなるが、少なくとも、わたしはそれで満足だったのだ。
 空きっ腹でも五パーセントのチューハイでは全く酔えない自分に辟易しながら、アルミ缶の飲み口に歯を立てた。僅かな苦みと薄い金属の味がする。日本酒とか買っておけば良かったな、と今更思う。家にはあったな。最近はコンビニでも売ってるし、また帰りに寄ろう。どうせ明日は休みで、一日予定もないのだ。
 こんな時間に本部にいる人間は管理職と技術職、そして小遣い稼ぎをしている学生隊員ばかりである。任務で負った怪我のせいで隊員から技術者に転職したわたしは、大学生である傍ら、普通の隊員と同様のシフトでトリガー開発に没頭する日々である。
 本当は水族館に行くつもりだった。夜でも運営している、夜型の海の生き物が見られると評判になったところへ。今朝会った時、結果的にわたしが別離を告げたので、本日と明日の休日謳歌は全てパアとなった。暇な時間が勿体なかったので、急遽お願いして開発室を開けてもらった。没頭しすぎて誰とも出会わなかったので、後日、諏訪や風間あたりにでもこの高級残飯を提供するのが妥当かと頭の片隅では考えていた。迅がやって来たのはある意味誤算だった。

「一般人だったんだろ?」

 迅の目の前には詳細なカルテでも置いてあるのだろうか。または映像フィルム。未来じゃなくて過去も見えるのか。だとしたら本当に哀れだ。
 部屋の柱に設置された壁時計の秒針が耳障りだった。二十一時三十七分。飲み会でもなければ晩ご飯を食べるには微妙な時間な気がする。良い子は早く帰りなさいなどと言えば、俺は悪い子だからと返ってくる確率は九割を超えている。特殊な能力がなくとも分かることはあるのだ。
 時間の使い方がヘタクソだからあんまり連絡とかできないと申し出たら、それは甘えだと返された。うんまあそうだよねと理解はしたが、改善するにはこちらが休日を全て差し出すしかない。息苦しい、そう伝えた時の凍った空気がまだ肌に纏わり付いている。
 迅の特殊能力のせいでわたしの些末な行動とお笑い劇が大体筒抜けになっていたとしたら、申し訳なさすら感じる。どこまで見えているのかなど本人にしか分からないが、見えてしまった場合に愉快なものでもあるまい。いや、蜜の味がするのかもしれないが、わたしは迅ではないのでその心境までは想像するしかない。

「結局そんなに好きじゃなかったんだよ。仕事の方が大事だった」
「言うと思った」

 俺のサイドエフェクトが、と続くかと思ったが、迅は黙り込んだ。リズムが崩れた。ほんの少しの息苦しさを感じながら、わたしは無言で詳細を語れと脅してくる迅の温度の低い瞳を僅かに見た。

「……そう、そうだよ。仕事は生きていくための手段じゃん。蔑ろにしても問題ないほどわたし有能じゃないし」
「なるほど、つまり」

 迅は勝手に深く頷いた。

「そいつはさんの生きていく理由にはなり得なかったわけだ」

 傑作だなあ、と迅は機嫌良さそうに笑う。人の不幸は美味しいものだ。欲しかったクリスマスプレゼントを手に入れたばかりの子どもみたいな顔で、残飯と呼んだ小箱を突っついている。
 何が目的で、この男はここまでやって来たのだろう。推測ばかりが蓄積されて気持ちが悪い。ましてや、見た目では判断できなくとも年下なのだ。こちらを年上扱いしているかという点では、怪しいところではあるが。

「さて、さん」
「うん?」
「三十分経った。悩めるさんの代わりに、俺が選んであげてもいい」

 一体どういう風の吹き回しだろう。根回しが好きだと豪語するこの男が、自ら腰を上げるとは。天変地異の前触れだろうかと思考を逸らしたわたしの手から、ごく自然にアルミ缶を奪って口を付ける。

「あれ、もう空っぽ」

 きょとん、と飲み口を見つめる迅は心臓に悪影響だった。飲み切っていて本当に良かったと僅かに息を吐けば、分かりやすいなあと迅がまた笑って缶をぺしゃんこに潰した。この部屋にゴミ箱はない。ひしゃげた鉄はとりあえず机の上で一時待機。

「あいつと別れたのは正解だったよ。まあさんもどっかで分かってたんだろうけどさ」

 その虹彩に、どんな空間が映っていたのだろう。わたしの顔をわざわざ斜め下から覗き込む迅は、瞬きもせず真っ直ぐな視線でこちらを殺しにかかってくる。
 自分が間違っていないと、肯定されたがっていると、そんな明け透けの願望が漏れ出していたことに気付いてわたしは額を手で押さえた。情けないことである。そのまま膝に肘を付いて俯いて、鉛色の息を吐く。

「良い後輩でいてくれてありがとうね、迅」

 顔すら見ずにぼそぼそと零す。面と向かって言える言葉ではなかった。仕事後の判断能力は間違いなく低下していて、本来であればさっさと帰宅して寝るに限る。迅の纏う空気は軽く、機嫌の良い振りができるのも立派な才能のひとつだよなあ、ぼやくわたしに迅の声が被さる。

「そう言われるのを待ってたんだって言ったら、さん失望する?」
「元から希望があったのか?」

 脳髄の反射で出てくる言葉ばかりを投げかけるわたしは、きっと恐らく迅の思い描く未来へ綺麗に誘導されている。
 ようやく顔を上げると、わたしよりも長い指先は華やかな包装紙に伸び、金色のシールに乱暴に爪を引っかけ、包装紙ごと派手な音を立てて破き始めた。びりびりになってしまった紙屑はそのまま机の下へ落ちていく。ドライフラワーはリボンに絡まって無残な姿になっていた。
 かわいそうなラッピングに迅は目もくれず、さっさとふたを開けて中に入っている甘さ控えめの生チョコのトリュフをひとつ摘まみ上げた。またわたしを見上げるその眠たげな眼差しは、こちらを挑発したいという意図が透けて見える。

「想像力足りてないってよく言われない?」
「初めて言われた」
「本当に? 奪っちゃったなー」

 軽口を叩く迅の、思い描いている計算式が読めない。今の言葉で空気の流れが変わったことぐらいは流石に分かったが、わたしはどこで、何を間違えたのか。いやな汗がじわりと米神に浮くのを感じる。
 トリュフは迅の口の中にあっさりと消えた。指に付いたココアパウダーを舐め取って、任務中と変わらぬ静かな温度の瞳を携えて、迅は確かめるように言葉を噛み締めている。

「まずさ、前提条件から見直さないと」

 食べ物に罪はない。だがそれを購入したわたしに罪がないと誰が言い切れるだろう。カレンダーに大きくバツ印を付けるような感情的な行動を取る訳でもなく、平手打ちをするなら長時間の研究のために体力を温存しとかないと、なんて考えたわたしの、何が正解だというのか。
 またひとつ、深い茶色のチョコレートが箱から顔を出す。忘れ去られたぼんち揚げにわざわざ意識を向けなければ、この嫌な予感から逃れられないと何かが警鐘を鳴らしている。

さんってほんと、年下には甘いよな」

 俺年下で良かったよ、と迅が歯を見せて笑った。初夏のような笑顔を浮かべるくせに、その目はじっとり重い冬の雨にそっくりだ。ちぐはぐな温度差で風邪をひきそうだと油断したのが最後、口内に滑り込まされた苦味が舌に絡んだ。

樹脂の右脳

170312