目の前で男がふにゃりと笑った。
 あまりの衝撃に目を白黒させるわたしに構うことなく、男の手が伸びてくる。殺意や敵意は驚くことに全く感じられない。一周回って逆に恐ろしい。一体何の企てだ、と背筋を震わせた瞬間、わたしの首根っこは骨張った手に捕まえられて、あっと声を上げる間もなく、鈍い音を立てて身体同士がぶつかった。

「ぐっ」

 衝撃を逃がすために息が飛び出る。首の後ろと背中に回った腕は、女の力では到底敵わない。刃物でも突き立てられたら呆気なく絶命する距離だ。まだ卒業もしてないのに学園内で殺傷沙汰とは、先生達が嘆き悲しむだろう。土井先生の胃にこれ以上風穴を作る訳にはいかない。だがこの二つの腕を振り解く手立てもない。
 油断は、していた。申し開きもない。
 これが間者だったとしたら、あるいは何かの実習によるものだったとしたら、わたしはシナ先生からの有り難いお説教で足を痺れさせなければならない。退学まで行かなくとも信用問題である。就職難の時代にこれはキツイ。マズイ。
 腕の力はどんどん強くなる。胸同士が押し潰されて肺の中の空気が更に口から零れ出た。わたしの手は無実の証明の如く宙に浮いたまま、足の裏に至っては半分程度しか床と接触していないのだった。
 此処は保健室の前の廊下である。偶然にも今は誰もいないし、保健室の中にも病人怪我人保健委員はいない。善法寺先輩が委員会の後輩達を連れて裏々山に薬草をかき集めに出かけたからだ。小松田さんから少し前に聞いた。

「ちょ、くる、しい」

 わたしはわたしの命の存続のために声を上げた。掠れに掠れ、最早声と呼べるのかも怪しいものだったが、こんなに至近距離にいる男の耳に届かぬはずはない。こんな廊下で灼熱の抱擁を突然貰っても困惑するばかりである。わたしは何かしただろうか。
 首の後ろを掴んでいた手が、休日のために頭巾を外していたせいで露出している耳をなぞった。外側の骨を伝って窪みにすりすりと触れて耳朶に行き着き、耳の後ろを撫でた。昼間には相応しくない温度だった。

「うぐ、なに、ちょ、」

 そのままぐいぐい体重がかかってくる。

「こ、のっ」

 名を呼ぼうとしたところで、わたしの両耳はその手のひらに覆われ、外界の音を拾えなくなった。絞め殺すような抱擁はなくなったが、距離は先程と全く変わらない。少し力が緩んだだけである。
 どちらか、分からなかった。
 正直、不破だったというのが一番納得がいく。あんなに邪気のない笑みを浮かべるとしたら、まあ不破だろう。よっぽど良いことがあって気分が高揚していて、顔見知りに飛び付きたくなったのかもしれない。いや、苦しい仮説だ。五年生の中で一番まともな不破が、あの常識人があんな奇行に走るだろうか。
 かと言って鉢屋だったとしよう。変装技術の向上は素晴らしいが、わたしの背骨を折るくらいの勢いで抱擁する理由がどうしても思い付かない。
 しかし思い込みを利用するのが忍者である。そもそもこの男が鉢屋なのか不破なのかという二択に絞る時点で間違いなのだ。まあ竹谷ではない。久々知は微妙。尾浜はあり得るか。考えるほどに思考はどんどん迷子になって、結局鉢屋か不破か、堂々巡り。
 おとがいを羽のように撫で上げる指先に背が勝手に震える。まるで閨の空気だ。冗談ではない。男の頬が己のそれにぴったりくっついて、抵抗しようにも背中までぐるりと回された腕の拘束が弱まらない。

「ああ」

 感嘆詞が耳元に零される。
 はっと我に返って、受け止めていた体重を、逆にこちらが返す形で向こうに身体を預け、相手の膝を狙って足払いをかける。しかし背中を押さえる腕が離れる素振りはなく、そのままわたしごと床へ向かって倒れていく。冗談じゃない。宙に浮いていた手を床に突っ張ろうと伸ばした瞬間、わたしの視界に空の青が映り込む。
 咄嗟に受け身を取ろうと長年培った反射で身を捩るも、男の手がわたしの後頭部を覆い、床に肩を縫い付けてきた。覚悟していた床からの衝撃は些細なものに収まったが、またしてもシナ先生のお説教を逃れられない体勢である。
 頭の後ろに回っていた手が、喉元に降りてくる。絞め殺されるのか、もう諦めるか。下唇を噛み締めると、またふっと笑い声が耳をくすぐる。

「分かってるくせに」

 ようやくまともな言葉を聞いた。喉を辿って鎖骨をなぞり、無骨な指が目蓋に触れる。目を閉じてなるものか。きつく睨み付けると、対象が喉を鳴らすのが分かった。
 露骨な綻びは罠だ。包み込んでくる熱が忌々しい。噛み切ってやろうかと思わずにはいられない。思考の放棄は死だ。
 ぎりっと歪な音が己の奥歯で鳴る。答えを口にするのも癪だったので、目前の柔い肉に牙を立てた。

しばし永遠を待て

180708