連日の実習で精神・身体共に余裕を失っていたが、ようやく待ち望んで恋焦がれた休日が訪れた。布団の上でごろごろして、一日中読書に勤しんでやると意気込んで、部屋の隅に山積みにしておいた本を一冊手に取って開いた瞬間、廊下に何者かの気配を感じ取ってしまった。誰だ、わたしの優雅な休日を邪魔する輩は。戸越しではあるが、既に何となく嫌な予感がする。
 身構えるより早く扉が開け放たれ、青空を背景に登場したのは、何やら大荷物を抱えた用具委員長だった。おい、部屋に踏み入る許可は出してないぞ。

「今日暇だな?手伝ってくれ」
「何故断定する死ね」

 読書の邪魔をされたことに対する怒りから即座に暴言を吐き捨てたわたしに動じることもなく、食満は戸に背中を預けた。工具を抱え直した食満は本を開いて布団に寝そべるわたしの頭から足先まで視線をやって、一つ頷いた。いや、一体何に納得したと言うんだ、絶対何も分かってない。読書に励もうとしているわたしをきちんと理解してくれ。

「流石に寝巻のまま手伝わせるのは悪いしな」
「よし、分かったなら早く帰れ、わたしは忙しい」

 食満はうんうんと首を縦に振って、にっこり笑った。

「じゃ、部屋の外で待ってるから早く着替えろ」
「せめて会話を成り立たせる努力をする素振りだけでも見せろよ」

 枕元に置いていた櫛でも投げ付けてやろうと思うと、食満はするっと部屋の外に出た。しかし、入り口の戸にその背中はくっついたままである。帰れよ。もしくは今すぐくのたま長屋に侵入したことが先生に露見しろ。わたしの休日の唯一の娯楽を奪えるほど貴様は偉いのか?終ぞ筆記試験でわたしに敵わなかった事実は消えないぞ?
 反抗の意思表示として布団の上でごろごろするも、食満が動く様子は微塵もない。本気か。正気か。疲れている友人を労わる優しさはないのか。

「こないだ焔硝蔵の戸棚直してやったろ」
「恩着せがましい!」

 渾身のドヤ顔が非常に腹立たしい。食満に修理を依頼したのは事実なだけに、わたしには強く断る術がない。思わず歯噛みする。
 数日前、焔硝蔵の床に何故か転がっていた焙烙火矢に斉藤が足を取られ、持っていた壷が宙を舞い、壁にぶつかった後に戸棚を見事に粉砕した。助かったのは、斉藤の持っていた壷には中身が入っていなかったので、被害がそれ以上拡大せずに済んだということぐらいだ。粉々になった壷を見て、土井先生の胃も粉々になっていたのは言うまでもない。
 しかし、わたしとて火薬委員長として、戸棚を直してもらった礼として何もしなかった訳ではない。そこまで恩知らずじゃないぞ。
 暑さに耐えられなかったのか、頭巾を取っているせいで後れ毛の目立つ食満のうなじを睨み付けながら、わたしは反論する。

「その件はうどん奢ったでしょう」
「戸棚以外にも壊れた梯子直してやったし、足りない縄作ってやったじゃねえか」

 それくらい大目に見てくれよ、細かい奴め。
 着替え終わったかと食満が急かす。わたしは渋々布団から起き上がる。何で休日まで忍装束を着ねばならんのだ。休日出勤なんて冗談じゃない。転がっていたせいでぐしゃぐしゃになっている髪を手櫛で大人しくさせ、寝巻の帯を解く。さらば、わたしの充実した休日。今度はいつ会えるだろうか。涙出るわ。

「うどんだけじゃ労働の対価には足りねえよ」

 食満が笑う。工具を抱え直したのか、小さな金属音が響いた。

「そうやって文句を言うから団子も奢ったのに?」
「困った時はお互い様だろ?」

 別に間違ったことを言っていないのが、尚のこと腹立たしいのだ。溜め息が出る。こうなったら、さっさと終わらせて早く部屋に戻って読書を再開する他はない。部屋の外から響き渡る蝉の声音に、実習で疲れ果てた頭が痛む。わたしの目前を進む食満の足取りが重くないのがまた腹立たしい。




 外は快晴であるのに、埃っぽく薄暗い天井裏で食満に釘を手渡すわたし、不憫。早く帰りたい。灯明皿の灯りで図面まで読むのを手伝っているわたし、偉い。褒めてくれ誰か!

「はいはい偉い偉い、次の釘」

 チクショウこいつ、めっちゃ腹立つ。
 動詞すら言わない食満は、そこは用具委員長らしく、的確に修繕を行っている。長い指先に釘を渡し、むわっとした空気を団扇で静かにかき混ぜてやる。こんな適当な輩に対して、何て優しいんだろうわたし。まあ、夏場にこんな狭苦しいところで修繕作業をするのは、確かに、そう確かに、一人で行うには時間がかかるだろう。そこは目を瞑ってやっても良い。
 何でも、校庭でバレーボールをしていたらしい七松の殺人アタックが室内にいた善法寺に激突、跳ね返ったボールが天井を突き破ったためにこんなことになっていると言う。あの男は落ち着くという動作をこの六年間で小指の先も学ばなかったらしい。
 釘の頭が板に沈むのを見計らって、食満から声が掛かる。

「次どこ?」
「今のとこから二寸右、今度は短い釘」

 図面を読むわたしの指示通り、食満は真っ直ぐに釘を打つ。手捌きは尊敬に値するが、こいつの態度はお世辞にもそうとは言えない。わたしは用具委員会ではないのに、六年間もこんな風に手伝わされて、食満の言いたいことを大体把握するまでになってしまった。要らない以心伝心だ。それなのに何故、わたしの帰りたいという意思は伝わらないのか。
 忍装束の袖を捲り上げて露になった食満の二の腕は、きちんと鍛えられているので形が良い。灯明の光を浴びて、やけにしっとりして見える。思ったよりも白い。白さで言えばうちの火薬委員会の久々知は豆腐と見紛う白さだ。それを超えて白いのは立花だが、あいつはもう少し血色が良くなるべきだと思う。
 食満の左隣で、その左手に釘を渡す仕事はもうじき終わりそうだ。しかし、事前に聞かされた内容としては、アヒルさんボートと風呂場の桶の修繕、保健室の前の廊下の床張りがまだ残っている。ちなみに廊下に穴が誕生した原因は、言うまでもなく善法寺の不運にある。迷惑な話である。
 もうじき昼だ。一旦休憩するついでに、わたしを部屋に返してくれまいか。

「とりあえず、これ終わってからな」

 図面に残る釘の打ち付け箇所は、片手で数えられるほどになっていた。早く帰りたい。
食満は手の甲で額に浮かんだ汗を拭って、小さく息を吐いた。友人が毎度暴れるせいでこんな目に遭っているのかと考えると、少々哀れに思えたので、わたしは団扇を床に置き、懐から手拭いを出して、その額を拭いてやった。前髪が汗で張り付いてしまっていて、一緒くたに手拭いで擦ることになったが、それくらい我慢すれば良いことだろう。汗が目に入ると結構辛い。
 ぴたりと、それまで澱みなく動いていた食満の手が、金槌を握ったまま止まった。何度か瞬きをしている様子が横から見てとれた。意外にも食満の睫毛は長い。久々知には敵わないが。不自然に表情が落っこちていたので、わたしは手拭いを食満の額から離してその顔を覗き込んだ。

「食満?」

 口を真一文字に結んで、食満は固まっていた。うなじにも汗が浮いているのが見えたので、それも拭ってやった。大袈裟なほど食満の肩が跳ねた。何だ、首弱かったっけ。耳も弱いのだろうか。

「あ、悪質な!」

 反射的に吠えた食満は、好奇心に動かされるわたしの右手を制止しようと手拭いごと引っ掴んだ。手拭い越しに伝わる熱さに驚く。手放された金槌が放物線を描いて床(正確には天井裏)を叩き、その振動で隅の埃が舞った。二人して咳込んで、貴様のせいだと睨み合う。涙目で。二の腕とは違って日に焼けた食満の頬には、今は照るはずのない夕焼けの色が浮かんでいた。
 わたしの左手には、まだ数本の釘が残ったままだ。一人分以上の汗を吸う手拭いを握り締めたまま、わたしも食満も、どちらかが動くのをひたすら待っている。

沈みゆくもの

140812r・y・k寄稿|180822再録