年末年始、公務員は一部の部署を除き暦通りの休暇があるが、仕事の山は雪崩れる寸前、端末を無理矢理宥めてシャットダウン、とりあえず形だけの仕事納めの挨拶を上司にぶん投げて帰宅の準備に入った。機密事項が含まれる書類は庁舎から持ち出し厳禁だが、この省庁に勤める職員は、悲しいことに例外の扱いである。溜め息を我慢出来ない。
 紛失すれば容易く首が飛ぶであろう端末と、必要最低限に絞った参考資料の束、慣れ親しんだ文房具と判子とブルーライトカットの眼鏡をリュックサックに入れ、コートを羽織ってマフラーを巻く。お先に失礼します、よいお年を。あちこちから聞こえてくる声には疲労の色が濃く、そりゃそうだよ年末だもの、と自分を慰める。しんどいのはわたしだけではないのだ。
 終業打刻の端末に職員証を翳し、重い扉に手をかける。定時は十七時半、現時刻は十八時。久し振りにこんな時間に庁舎を後にすることが出来るのは心から喜ばしいが、待ち受けているのは持ち帰り残業である。躁鬱。
 帰宅ルートは変則的だ。何故なら、帰る家の座標が変動するからである。
 お前は一体何を言っているんだと怒られそうだが、歴史保安庁に勤める職員の殆どがそうである。今から帰る家は、職員達が血と汗と涙と鼻水を流しながら築き上げた、各々の“本丸”である。
 歴史改変を目論む歴史修正主義者との戦争において、刀剣の付喪神の力を呼び起こすことが出来る審神者の能力を持つ人間を掻き集めることが、わたしが配属されている歴史保安庁の最重要課題だ。
 今後の情勢を予測する部署の職員が賢明に弾き出した未来予想図からすると、現状の審神者の数はあまりにも少ない。そこで飛んできた鶴の一声が次のとおりである。

「政府職員は刀剣男士を見て触って出来るんでしょ? じゃあ審神者になれるじゃん」

 無責任な発言をしやがる歴史保安庁長官、いや彼は政治家なので、行政マンではない。この歴史保安庁で行政職員として一番偉いのは副長官であるが、組織としての長は長官なので、要するに、長官には逆らえないのである。
 副長官が必死に説得を試みたが、この長官、自分の今後の政治家人生を上手く動かすために適当なことを言うが、頭は頗る良いので、一度効率的であると判断されてしまうと覆すのは難しい。
 つまり我々の負けである。この年末に。
 歴史保安庁職員の一部は、歴史改変の戦争によって、歴史の流れから存在を抹消された人間である。実家に帰りたくとも、最早己の生きていた証は残っていない。帰る場所が物理的にないのである。

「それぞれの職員が本丸を持てば、家も出来るし戦力にもなる。どうして今までやらなかったんだろうなあ」

 帰る場所がないなら作れば良い。能力があるなら活かせば良い。まあそりゃそうなのだが、この長官、簡単に言いやがって、という気持ちを殺すことは出来ない。一つの本丸を作るためにどれだけの業務が必要なのか、理解してから発言してほしいものである。指先一つで構築出来るなら、ここの職員数はもっと減るはずだ。
 というか、物理的に帰る場所はあるのだ。実家には戻れないが。まあ、この場合の長官の発言は、家とは家族のことも指しているのだが。
 そうして、通常業務に重ねて自分の家作りまで命じられた職員達は、十二月の頭から寝る間も惜しんで本丸構築と条例改正の業務に勤しんできた。何とか年末に間に合ったことは喜ばしいが、正直もう一年間は働きたくない気持ちでいっぱいである。議会も反対してくれれば良いものを。
 住んでいた職員寮を引き払い、本日が、わたしの本丸生活一日目のスタートとなる記念すべき日であった。この年末に。

「おい」

 階段の踊り場の隅っこでひとり立ち止まったわたしに声をかけてきたのは、同僚の刀剣男士、大倶利伽羅である。コートも羽織らずにマフラーを巻いただけの姿は見ていて寒々しいが、本刃はケロッとしている。
 わたしの隣を、肩を落とした別の職員が重い足取りで通り過ぎていく。そりゃ憂鬱である。楽しい年末年始になる訳がない。

「眩暈か」
「いえ、現実逃避です」

 いつもどおりの返答に、倶利伽羅さんは小さな溜め息を零して、わたしのマフラーの端っこを鷲掴みにした。

「……帰るぞ」

 そのまま長いおみ足でずんずん階段を下りていくので、わたしは首が絞まらないように慌てて駆け下りる羽目になった。
 歴史保安庁庁舎の一階の奥に、本丸に繋がる転送門が設置されている。門に接続されている端末にパスコードを打ち込んで職員証を翳す。
 潜ればそこが、わたしの新しい家である。
 転送門からぺいっと身体が弾き出され、毎度着地のタイミングを誤って顔面から地面にめり込んでいたわたしも、業務に慣れたことで完璧な着地を決めることが出来るようになっていた。成長を褒めてほしいが、甘い言葉を投げかけてくれる人はいないので、自分で褒める。わたしは偉いぞ良くやった。
 隣には無駄口を叩かない倶利伽羅さん。しんしんと降っている雪を手で払い、わたしが玄関の鍵を開けるのをじっと待ってくれている。コートのポケットの中から携帯用端末を取り出し、職員証を翳して先程とは異なるパスコードを入力する。
 隣から手が伸びてきて、わたしの頭と肩に降り積もった粉雪を払う。礼を述べるも華麗に無視した倶利伽羅さんは、さっさと引き戸に手をかけて屋内に入ってしまう。
 法改正案が通ってしまったので、審神者という職業は、公務員の副業禁止の例外になってしまった。今日からわたしは政府職員兼審神者なのだ。気が重い。

「おい」

 中から呼びかけがある。家の中から声がするというのは良いものだ。もう味わうことの出来ない実家を脳裏に、わたしは玄関に一歩足を踏み入れる。

「……ただいま」

 蚊の鳴くような声しか出なかった。疲れたからだ。流石に今日は、もう仕事は出来そうにない。ご飯食べて風呂入って一瞬で寝てやると決意して顔を上げると、マフラーを外して廊下に立っていた倶利伽羅さんと目が合った。
 長い前髪越しに見える琥珀色の瞳が、心なしか柔らかい温度を帯びているように錯覚する。視線は一度逸れた。形の良い唇が動く。

「……お帰り」

 あ、今日がわたしの命日かもしれない。




 肩に食い込むリュックサックを畳の上に置いて、炬燵のスイッチを入れる。晩ご飯どうしよう、と携帯端末を開いていると、手洗いうがいを済ませてジャージに着替えた倶利伽羅さんが炬燵に滑り込んできた。相変わらず薄着である。

「倶利伽羅さん、ご飯何が食べたいですか」
「何でも良い」

 刀剣男士と言えど、倶利伽羅さんにも疲労が溜まっているらしく、炬燵に入ったまま動く気配は微塵も感じられない。山脈を描いていた書類を捌いた我々に、無駄な動きをする気力は残っていないのだ。

「出前取りましょう。選んでください」

 端末を差し出すと、彼の長い指はすいすいと画面をスクロールし、暫くして止まった。一度タップされてわたしの手元に戻ってきた端末の画面には、野菜の彩りが美しいカレーが出現していた。ご飯は大盛りが選択されてカートに入っている。

「ローストチキンスープカレーですか、美味しそう。真似して良いですか」
「好きにしろ」
「注文しました」

 端末を伏せて、炬燵の天板に力なく突っ伏す。もう活字を追いたくないしキーボードに指を乗せたくない。人目も憚らずにだらけるわたしに、倶利伽羅さんは何も言わない。
 この同僚は、一体どんな気持ちでこの本丸に一緒に来てくれたのだろう。
 倶利伽羅さんは歴史保安庁で顕現され、政府職員として勤務している刀剣男士である。彼を顕現させたのは、わたしが所属する大和国本丸支援課の課長だ。本来であれば、彼は課長の本丸に戻るはずだった。
 とりあえず、同じ業務を担当するよしみで付いてきてくれたのだと推測している。
 この年末年始、我々歴史保安庁職員に求められている業務は、己の本丸の始動である。名ばかりの休みに涙が出そうだ。
 わたしの霊力とやらは端的に述べると質が良くなく、刀剣男士を顕現させる力が弱いらしい。
 倶利伽羅さんは、周りをよく見ている。わたしが疲労困憊の上に審神者の業務で更に死にそうになってしまえば、自分の業務にも支障が出てくることを予測して、課長の元ではなく、この本丸に来てくれたに違いない。
 知ってはいたが、飛び切り優しいのだ、倶利伽羅さんは。
 木製の天板に頬を押し付けて、目を閉じる。ほこほこと温まってきた足先に、詰まっていた息を吐く。頭が重い。風邪を引いていないだけまだマシだが、時間の問題な気がしている。
 本丸を構築するにあたり、オーソドックスな屋敷の形式にしたが、マンション型にしておけば良かったかもしれないと少し後悔する位には、寒い。電気も水道もガスも使えるので、生活に不便はないのだが、ワンルームマンションでの一人暮らしに慣れた身体は、単純に寒さに弱かった。
 エアコンを稼働させるか、炬燵に全身潜ってしまうか悩んでいると、肩に何かが乗っかかった。

「…………」
「…………」

 正体は、職場で着用しているわたしの作業着だった。
 喋る必要がない時はとことん喋らない倶利伽羅さんなので、驚き固まるわたしが無言であれば、勿論口を開くことはない。わたしが炬燵でぐでぐでしている間に、リュックから丸めた作業着を取り出して掛けてくれたのだと思うと、どうしようもなく拝みたくなってくる。わたしの同僚は尊い。
 心からお礼を述べていそいそと作業着を着込んでいると、倶利伽羅さんは徐ろに立ち上がり、障子を開けて部屋の外に出てしまう。普段はあの赤い腰布で隠されているが、ジャージ姿だと驚くほど小尻なのがよく分かる。

「…………」

 思ったより早く戻ってきた倶利伽羅さんの眼差しが冷たいので、わたしの邪な思考は見え見えだったのだろう。一刻も早く表情筋を殺さなければ。

「おい」
「はい」

 再び炬燵に足を突っ込んだ倶利伽羅さんの、必殺・目は冷たいけど声は冷たくないの術により、わたしは重傷である。残念ながらしがない職員に真剣必殺の技巧はなく、戦線崩壊を待つしかない。
 静かに差し出されたのは、炬燵には欠かせない橙色だった。

「食べるか」
「食べます」

 社畜、何も考えずに即答するのそろそろやめたい。

「いつ買ったんですか?」
「……審神者支援課の国永から貰った」

 隣の部屋に段ボールを置いている。倶利伽羅さんはそう述べて、炬燵の温度コントローラーを弄っている。

「へえ、鶴丸さんですか。何処かの本丸からいただいたとかですかね?」

 返事がないので、肯定である。
 ただでさえ倶利伽羅さんと鶴丸さんは旧知の仲なので、例え倶利伽羅さんが慣れ合うつもりはないと豪語しようが、あの儚げイケメン真っ白戦闘狂爺の手から逃げることは出来ないのだ。
 わたしと倶利伽羅さんの所属する本丸支援課は、本丸が軌道に乗るまでの準備全般と、解体された本丸の後処理、戦況分析、その他諸々の業務が所管である。対して鶴丸さんの配属されている審神者支援課は、審神者からの緊急要請の対応を中心に、色々と厄介ごとを引き受ける課だ。うちの課はまだ年末年始に一呼吸入れる程度の余裕はあるだろうが、鶴丸さんのところは閉口を選択するのが正しいだろう。

「……出前はいつ届く」
「十分後です」

 端末の画面には、宅配バイクのアイコンとタイマーが表示されている。政府が委託している出前屋なので、本丸という特殊な場所であっても配達が可能であり、スピードも割と速い。大変有り難いことである。

「……蜜柑、食後にいただきます」
「ああ」

 少し冷静になると一気に羞恥が込み上げてくるが、通常運転である。誤魔化せる訳もないのだが他にやることもないので、受け取った蜜柑をもみもみしていると、倶利伽羅さんが不思議そうに瞬きをした。アッやめて可愛い顔しないでください最高。

「揉むと蜜柑の細胞が傷付いて、修復するためにクエン酸を消費するので酸味が下がって、相対的に甘味が上がるらしいですよ」

 冷静でいなきゃ……とまるで堀川さんのような台詞を脳裏に描きながら、もみもみしていた理由を説明する。食べ物を粗末にしている訳ではないのだということさえ分かっていただければ十分である。

「…………」

 暫く沈黙を落とした倶利伽羅さん、大きな両手で小さな蜜柑をそっと揉み始めた。
 エッヤバイ何これわたしは今何を見ている? 超可愛いんですけど? あっそうかこの倶利伽羅さん甘党だったな、いや愛しさが圧縮されて死にそう。無理。
 顔を両手で覆って震え始めたわたしに訝しげな視線が突き刺さるが、ここで口を開こうものなら惨劇が待ち受けている。折角本丸まで付いてきてくださったのに、課長の本丸に蜻蛉返りされては堪らない。わたしは耐えてみせるぞ。
 震えるわたしの横で、タイミング良く端末も震えた。晩餐の到着のお知らせである。わたしは部屋を飛び出て玄関へ急いだ。




 部屋に戻ってくると、倶利伽羅さんが天板を布巾で拭いているところだった。お礼を言ってパッキングされた容器を差し出す。スパイスの良いにおいが鼻腔を擽り、腹の虫に大打撃。鳴き出す前にいただかねば。湯飲みに急須から茶を注いだところで、はっと顔を上げる。

「水のが良いですか?」
「構わん」
「はあい」

 残業にしては豪華な晩ご飯だなあと呟くと、黙って食え、という無言の圧力を感じた。では合掌。

「「いただきます」」

 この同僚、慣れ合わないけど挨拶はしっかりするところが素晴らしい。とか言及しようものなら切り刻まれるかもしれないので、お口にチャックである。
 プラスチックの深い器に収められたスープカレーに、スチロール製の器に入った米を丁寧に沈めてゆく。ルーに浸っていた茄子とオクラを噛み、米を咀嚼し、食べやすい大きさになっているローストチキンに齧り付く。程良い辛さと肉の旨み、米の甘さが絡まって多幸感が半端ない。香辛料のおかげですぐに口の中は熱くなり、自然と湯飲みに手が伸びた。
 倶利伽羅さんの一口は大きいが、よく噛んで味わって食べている。食べる速度を合わせてくださる優しさを知っている人間は、果たして何人いるだろう。わたしは幸せ者である。

「美味しいですねえ」

 思わず零れた声に、倶利伽羅さんは緩やかに瞬きをするだけだった。
 随分柔らかい反応をしてくれるようになったものだ。四月に配属されてからもう九ヶ月、今年度も残り三ヶ月だ。慌ただしい毎日で、言葉通り何度も死にかけて、でもまあ何とか年末を迎えられているのだ。奇跡である。
 スープカレーはあっという間に胃に消え、倶利伽羅さんと揃って手を合わせる。美味しかった。食べ終わった器を回収し、部屋を出て台所へ向かう。プラスチック製だが、食器は返却しなければならない。こびり付いたルーをティッシュで拭い、スポンジに洗剤を染み込ませる。
 水道水が冷たくて飛び上がりながら、何とか皿洗いを終えて炬燵に戻る。天板には熱々の緑茶が入った湯飲みが並んでおり、わたしはへこへこ頭を下げて暖を取る。同僚の気遣いに生かされている日々である。

「うあ~~~~~ぬくい~~~~~~倶利伽羅さん最高~~~~~~~」
「あんたはそればっかりだな」
「あっヤベ言わんで良いことまで」
「いつも言っているだろう」

 頬杖をついた倶利伽羅さんの呆れた声も格好良いので刀剣男士とは本当にすごい存在である。自分でも何を言っているのかよく分からない。
 炬燵の中で足を伸ばす。ほこほこと足下から温まると自然に目蓋が落ちてくる。熱い茶を啜り、湯飲みを握ったまま天板に頬をくっつけた。

「倶利伽羅さんは」

 返答はないが、蜜柑の皮を剥く音が聞こえる。業務でへろへろになった脳は、漠然とどうでもよい言葉を吐き出す己の口に危険信号を出すこともなく、ぐらぐら揺れる思考を垂れ流しにしてしまう。

「……この本丸の刀剣男士の数がある程度揃ったら、課長の本丸に戻られますよね。ああいや、来ていただいて本当に有り難いので、寧ろ戻ってほしくないというのが本音オブ本音ですが。業務外なのにご負担おかけして申し訳なく」
「…………」

 ず、と茶を啜った倶利伽羅さんが、その喉を震わせる様子はない。

「わたしの霊力の質ってどんだけ悪いんですかねえ……政府職員だからと言って初期刀の五振りも用意されてなくて、最初から自分で鍛刀しろって結構無茶苦茶だと思うのですが。こんなに簡単に例外を作ってしまって良いんですかね、後から問題になりそう」

 炬燵の上でじっとしている自分の蜜柑を鷲掴む。濃い橙色のそれをじっと見つめるも、そこに答えが現れる訳ではない。うじうじと愚痴を漏らしてしまう口を止められず、蜜柑の頭の緑色を指で突く。

「多分ですけど、この年末年始に無事に本丸を稼働させられる職員なんてほんの一握りだと思うんですよね。で、駄目だった職員は、解体する本丸所属の刀剣男士を引き継ぎましょうみたいな話になるんですよ。今多いですしね。折角育っている刀剣男士を刀解するのは勿体ないって、あの長官なら言い出しかねない。年明け開口一番にそれですよきっと」

 疲労は思考を複雑にし、落ち込んだ気分にさせるからいけない。業務中は考えごとをする余裕など全くないが、こうして一息吐く場面に出会せば、良くない方向にばかり振り切りれてしまう。
 上半身をきちんと起こして茶を啜る。飲み終わったらさっさと風呂に入ろう。折角の蜜柑は、残念ながら食べる気分でもない。
 年末年始、この本丸で行う業務を想像してみる。
 炬燵は一辺八十五センチの正方形の大きさで、ノートパソコンと書類とマグカップを置くと余白は殆どない。未だ見ぬ近侍に準備してもらったホットコーヒーのにおいで睡魔を撃退し、カフェインで脳を突きつつ、ガタガタとキーボードを叩き続ける。ドーナツ型の低反発座布団を尻の共に、炬燵布団の中で見えないので胡座で仕事に取り組む。
 まあ、悪くはないかもしれない。近侍が“誰”なのかを全く想像出来ない以外は。

「……審神者なんて向いてないんですよ。組織の下っ端で細々と事務屋が出来れば良い。職業選択の自由です」

 音は止んだ。蜜柑を手放して天板の木目を視線でなぞり、迂闊なことを言ったなあと後悔する。吐き出した言葉は戻らない。喉で縺れて呼吸困難になりたくなかったから、なんて苦しい言い訳である。

「条例案は議会を通った」
「施行は四月一日からですよ。まあ、だからこうして前段階で政府職員も本丸を持たされてるんでしょうけど」
「何が気に食わない」

 いっそ怖いくらい、倶利伽羅さんの声は穏やかだ。温くなった湯飲みの表面の凹凸を指先で辿って、重たい頭を横に振る。

「……主従関係……」
「それで」

 倶利伽羅さんの前で隠しごとが出来た試しがない。いつでも洗い浚い吐かされて、わたしの羞恥心を抉ることに楽しみを見出しているのではないかとすら思う。
 それもまあ、優しさの一つだとわたしは知っているのだが。

「……今の仕事、悪くないと思ってたので」
「どうせ数年で異動する」
「身も蓋もないことを……」

 しかし真実だ。倶利伽羅さんと一緒に仕事が出来るのは、限られた時間だけである。まあそもそも、歴史の本筋から存在を抹消された人間にどれだけの時間が残されているのか、見当も付かないのだが。
 歴史保安庁の業務は特殊なので、通常の官公庁の異動パターンには当てはまらないかもしれない。だからと言って何か慰めになる訳でもない。
 ふ、と倶利伽羅さんが鼻で笑った。くそっ貴重な笑顔を見逃した、と顔を上げれば、目を眇めた彼が、頬杖をついてこちらを見ていた。

「あんた、俺を手放したくないだけだろう」

 突然投下された爆弾に、わたしはぎょっとして飛び上がった。
 日頃から明け透けだったかもしれない。いや、かもしれないではない。でも全てを冗談にしてきたはずだった。こんな真面目な声色を出されてしまうなんて、誰が予想出来ただろう。
 混乱のあまり炬燵から這い出そうと足を伸ばすと、倶利伽羅さんの長い足に指先がぶつかって再び飛び上がる。彼は静かに瞬きを繰り返すだけで、文句の一つも零さない。わたしはますます申し訳なくなって謝罪の言葉を山盛りに、炬燵の四隅の一つに足を寄せて縮こまった。
 図星を突かれて思考はしっちゃかめっちゃかであるが、そこから立ち直れないなんてことはあってはならない。浅くなった呼吸を意図的に深め、目を真っ直ぐに見るのはまだ難しいので、彼の緩く弧を描いている赤く染まった毛先などを見つめておく。

「いやいや、落ち着いてください」
「落ち着くのはあんただ」

 うっかり目を合わせてしまえば、死の宣告だった。爆撃は容赦なく続く。慣れ合うつもりはないと強く言い切るのに、その曲がらない視線は何だ。こちらの寿命を縮めて楽しいだろうか。非道である。
 九ヶ月も一緒に仕事をしていて、わたしは何も知らないのだ。何故ならそれは業務外の事象であり、わたしと倶利伽羅さんはただの同僚でしかない。知る必要がないことに首を突っ込んでも仕方ない。倶利伽羅さんも今まで言及しなかったのだから。
 だが、常に彼の口から聞くあの言葉を思い返すに、腑に落ちない。

「な、慣れ合いでは」
「仕事だ」
「職務命令じゃないなら拒否して良いはずです」
「そももそ命令は出ていない」

 淡々と打ち返される言葉に負ける訳にはいかない、こちらの都合で刀剣男士を好きにして良い訳がない。そう思うのに、残業明けの脳の処理速度は幼稚園児のかけっこレベルだ。もう白旗を上げるしかなかった。

「駄目ですもう頭が回りません無理です分かりやすく、偏差値下げて言ってくれませんか」

 これは業務中にわたしがよく述べる定型文である。倶利伽羅さんはただの刀剣男士ではない。歴史保安庁でバリバリ仕事に励んでいる職員の一人でもあるのだ。口で勝てた試しはないし、彼の思考を探ることは出来ても、正確に当てるのは難しい。
 倶利伽羅さんの視線は一度下方に流れた。はあ、といつもの溜め息を溢れさせて、その黄金の瞳は違えずこちらを真っ直ぐに射貫く。

「あんたが望むから」

 ギエー、情けない断末魔を上げ、わたしは顔面を両手で押さえて畳の上で転げ回った。重傷である。一撃必殺、戦線崩壊、もう戦えません。無理。無理。無理です。
 い草の匂いが鼻腔を擽る。落ち着きたいのに身体がまるで言うことを聞かない。ど、ど、と鳴り止まぬ心臓が恨めしい。混乱と緊張と、制御出来ない自分が情けなく、喉が震えて更に情けない声が落ちた。

「何てことを……」
「…………」
「何ですかそれ、あまりにもこちらの都合じゃないですか」

 よろよろと身を起こすも、真っ直ぐに倶利伽羅さんを見ることが出来ない。額を押さえて炬燵の天板と見つめ合う。

「そうだ」

 だから、と倶利伽羅さんの手が、革の手袋に包まれていない指先がこちらの耳を掴んだ。よく聞け、とでも言うように。強制的に顔を上げさせられたわたしは、もう逃げ場がないことを知る。

「どうせ、歴史保安庁の職員がまともな本丸運営を行う余裕はない。形だけの本丸を作り、後々の面倒ごとを被せられるために、上の都合だけで制度化されたに過ぎない」

 やはり、と思う。読みは倶利伽羅さんも同じだった。

「刀は勝手に扱われる道具だ。あんたは人間で、政府の手駒の一つだ。今更自分の役割が見えないと言い訳をするつもりか」
「…………」

 今度はわたしが黙り込む番だった。悲しくて歯噛みするくらいに正しかった。

「形骸化を目的とした本丸に例外を持ち込んで何が悪い。あんたが死に急げば迷惑を被るのはこっちだ」

 耳を挟む指先が熱いのか、自分の体温が上がっているのか、どちらもか。特別に感情を塗した声ではない。業務中のホウレンソウと変わりない。でもそれは、不思議なくらいにわたしが望む言葉ばかりが並んでいる。
 同僚から目を背けたいのに、たった二本の指がそれを許してくれない。

「それとも」

 これ以上は、聞いてはいけないのではないか。

「傅いてほしいか」
「勘弁してください」

 何も考えられず、引き攣れた声が飛び出した。いつだってそうだ、見ないで良い部分まで指摘して、傷が付く一歩手前で刃を退けて、薄皮一枚の痛みを残して、そのくせ手を引っ張って歩いてくれるから。
 もういっそ切り刻んで無造作に捨ててくれれば良いものを、このひとは。

「ふん」

 漸く満足したのか、倶利伽羅さんはわたしの熱を帯びた耳を解放し、蜜柑の皮剥きを再開した。

「……大抵の人間は」

 積もった雪に初めて足を踏み入れる時ような声だった。

「帰る場所があれば、簡単に死ななくなる。データがレクで上がったんだろう」

 間抜け面を晒すわたしの唇を割って、倶利伽羅さんの指が蜜柑の欠片を押し込んでくる。驚いて口を少し開いてしまった瞬間、それは手早く突っ込まれ、あろうことか指先が舌を一撫でして去って行った。
 声を発することも叶わず、ごん、と炬燵の天板に額をぶつけて蹲る。じわじわ溢れてくる水分は、何を言い訳にすれば良いのだろう。
 歴史の本筋から存在を消された審神者と職員を、政府は見殺しには出来ない。歯車の一部に組み込まれた我々は、その動きに従う以外には生きられない。
 終わりが見えない戦争に勝つために勝手な都合で振り回して、なのに命令ではなく、あくまでも自分の意志だと言わせて、傲慢にも程がある。刀剣男士を何だと思っているんだ。政府は。わたしは。
 口の中に突っ込まれた橙色に歯を立てる。弾けたそれは場違いに甘くて、ほのかに残った酸味が舌先を擽る。酸欠の脳が空気を求めるので、ふらふらと頭を上げる。

「……ああ。それで良い」

 柔らかくほどけた声音に、遂にわたしの目の前はぐしゃぐしゃに滲んだ。

火を均して

190210