「彼女ができねえ!」

 単位でも落としたのかと疑う程度に悲痛な叫びであった。
 体育館の舞台裏を魔改造して作られた軽音部の部室にて、部屋のど真ん中に設置された炬燵でごろごろしていたわたしと食満先輩は、頭を抱えてソファーに転がっている竹谷に向かって手を合わせた。南無。

「いや拝んでないで!」
「竹谷、女の子にも選ぶ権利があるよ」
「正論言いやがって……」

 ギリギリと奥歯を噛み締める竹谷に対し、心根の優しい食満先輩はギターマガジンを斜め読みしながら、どうどうと宥めていらっしゃる。
 物理的に崩壊寸前のおんぼろの部室は、冷え込んだ空気が扉の隙間から侵入してくるので、きちんと練習する時以外は炬燵に籠るのが最適解である。指が悴んで弦を押さえるどころの話ではない。
 竹谷はわんぱく少年の心を忘れない男なので寒さに簡単に撃ち負けることはないが、わたしと食満先輩は抗っても当然に風邪を引くのみである。年々貧弱になっていることは指摘してはいけない。
 肩まで布団をかけて、ごろりとホットカーペットの上に寝転がればもう出られない。冬本番が到来すれば、室内だろうが容赦なく顔まで冷たくなる部室である。炬燵は命綱なのだ。

「食満先輩は! 彼女欲しくないんすか!」
「欲しいに決まってるだろ!」

 即答であった。まあそうだろう。食満先輩は顔の良さで手塚ゾーンの如く女を引き寄せるが、大体は近くにいる善法寺先輩が食ってしまうのである。南無。
 折角付き合っても、思ってたのと何か違うだの言われて別れる確率が八割を超えている食満先輩の悲鳴は切実である。大変可哀想なのだ。
 嘆き続ける竹谷を宥めるには生き物か食べ物だ。大学構内に手頃に愛玩できる小動物がいる訳もない。うじうじし始めた竹谷を放置すると面倒であることを知っているわたしは、やれやれよっこいしょと重い腰を上げることにした。
 慈善活動である。偽善だろうが知ったことではない。
 リュックの上に丸めて置いていたコートに袖を通す。スマホと財布だけをポケットに入れて、炬燵から出てしまったせいで震えた背筋を伸ばす。

「お腹空いたんで購買行ってきます」
「あっ俺も!」
「俺も俺も」

 竹谷の精神は年齢に比べて驚く程健やかなので、立ち直るのも大して時間を要しないところが良い。
 部室のドラム用の椅子に投げ出されていたコートを引っ掴み、竹谷はもうご機嫌だ。カナダグースをぞんざいに扱う竹谷は、神経質お洒落番長のアパレルバイト店員の鉢屋に毎度ブチ切れられているのだが、残念ながら本日は不在である。良かったね怒られなくて。
 ちなみに不破も尾浜もコートの扱いは適当なので、部室の床で無惨にくしゃくしゃになってしまっている確率が八割を超える。大体は久々知が綺麗に畳み直してくれるので、彼らはもっと豆腐小僧に感謝した方が良い。鉢屋はカルシウムを摂取した方が良い。
 しかしまあ、竹谷は怖いくらいコートのフード部分に付属しているもふもふが似合うな。七松先輩に比べれば野生度は下がるが、不思議と動物の群れの先頭にいそうな印象がある。

「どんな印象だよ」
「いやでも分かるぞ」
「食満先輩まで……」

 どうやらわたしの見解は的外れではなかったようだ。先輩はうんうん頷き、黒のチェスターコートを羽織っている。就職活動を終え、社会人になっても普段使いできるようにと購入したらしい。無駄にシュッとして見えるのが少し腹立たしいが、先輩なので黙っておく。
 わたしのすぐ横でショートブーツに足を突っ込んでいらっしゃるため、部室の狭い出入り口はあっさりと定員オーバーである。竹谷は大人しく我々が履き終えるのを待ってくれている。仏。
 部室の入口に転がったスニーカーに足を引っ掛けて、ひとまず立て付けの悪い横開きの扉を無理矢理に動かす。今日は段違いに扉が重いなと思っていると、先輩の腕が頭上に伸びてきた。手伝ってくださるようだ。有難くお任せする。
 よっと軽い声と共に扉が動いたと思ったら、動くどころの話ではなく、扉があるべきところから離脱していた。引き戸のレールが完全に破損しているのが見える。経年劣化である。この大学はどこの設備もボロボロで悲惨だが、軽音部の部室を含む体育館内が最も凄惨なのである。
 つまり、推定二メートルの板が、ゆっくりとこちらに倒れてくる。

「は!?」

 食満先輩の素っ頓狂な声と共に、木製のぼろぼろの扉が降ってきた。中途半端に爪先を突っ込んだだけのスニーカーでは足運びが上手くいくはずもない。先輩もわたしも、残念な尻餅を披露する羽目になるだろう未来が見える。
 回避する方法を脳内検索したところで、スローモーションで降り掛かる扉に太刀打ちできる訳もない。完全に体勢を崩してしまった食満先輩が、わたしの背後に倒れていくのを肌で感じる。なんてこった。女のわたしが先輩を庇える訳がない。
 こんなところで善法寺先輩のお零れ不運を発揮しないでくださいと吠えたいのは山々、とりあえず食満先輩の安否は自力でどうにかしていただくとして(諦めて)、己の頭部を守るのが先か、いや一応女なので顔面を守るべきか。走馬灯の如く脳の処理速度はぐんぐん上がるのに、肝心の足が動かず、重心が後ろに傾いてしまう。
 足を挟まれて重傷になるのは嫌だな、なんてくだらないことばかり思い浮かぶ。

「動くな!」

 背後から飛んできた声は鋭かった。野生動物を躾けるみたいに。
 咄嗟に腕を顔の前に構えたまま間抜けに転んだが、いくら待っても扉の衝撃が降ってこない。恐る恐る目を開けると、部室の奥にいたはずの竹谷がわたしの身体を跨いで、両腕を突っ張って落下物を支えているところだった。

「はー、間に合った……」

 こちらから表情は見えない。声は安堵を纏い、肩が上下しているのが見える。高校時代に短距離走の選手だったらしい竹谷が、ここ数年見せなかった本領を発揮して助けてくれたということだろう。
 隣でわたし以上に間抜けに転がっている食満先輩は、折角整った顔なのにぽかんと口を開けて固まっている。かく言うわたしも他人のことを笑えない。
 ガタガタと扉を壁に立て掛けて、竹谷は長い息を吐いた。この大学は体育の授業がないので、運動部やサークルに入っていない限りは体力が低下していく一方である。元運動部の瞬発力には頭が下がる。
 竹谷は慎重にわたしの脇腹の横から足を抜いて、部室の壁に背中を預けてずるずると腰を下ろした。食満先輩はぐしゃぐしゃになったコートの上でぴくりとも動かず呆然としている。わたしは転んだ時の衝撃でスニーカーの片足が部室の扉の向こうに飛んでいったらしく、爪先が寒い。

「助かったありがとう……いや竹谷、今のやつ女の子の前でやればモテるよ!」
「めちゃくちゃ格好良かったぞ!」
「えっそうすか?」

 倒れたまま思ったことをそのまま口にすると、食満先輩が便乗してきた。竹谷は戸惑った顔をしながらも、喜んでいるのが隠せていない。可愛い奴なのである。

「吊り橋効果狙っていこうぜ!」
「テニサーの女達ならすぐに落ちるって!」
「いや、もうちょいまともなアドバイスくださいよ……」

 いかん、真実を述べてしまった。竹谷は苦笑いを零して空を仰いだ。ごめんって。

「購買に行こうとしただけで何でこうなるんだろうな、俺達……」

 依然動く気配のない食満先輩の吐露に後輩二人は大きく頷いた。
 その拍子に、壁に立て掛けられていたギター及びベース達が、竹谷の肩と衝突して雪崩事故が発生した。
 それなりの質量が床を叩く。

「…………」

 言葉を失う竹谷は追加で表情も失い、全てのやる気を失って項垂れ、そのまま床に崩れ落ちた。床の端っこだったのでカーペットが足りておらず、冷たいフローリングに肌が触れてしまったのか、流石に悲鳴が上がったが、飛び起きる元気は残っていないらしかった。
 衝突事故により折り重なって遭難中のギターもベースも、全て楽器ケースに納まっているものばかりだったのでまだ良かったが、もう我々に動く気力は微塵も残っていない。

「ちわー……え?」

 部室の入口からひょっこり顔を出した久々知が、床に倒れ伏せる三人組を見て目を剥いた。

「何だらだらしてるんすか……ほら、バイト先で廃棄品のケーキ貰ったんで食べませんか」
「神」
「仏」
「持つべきものはお前みたいな友だよ」
「えっ何だよ気持ち悪いなあ」

 久々知のバイト先のケーキ屋は大学のすぐ近くにあり、評判の高いこじんまりとしたおしゃれな店である。クリームが崩れて商品にならなくなった品を貰ってきては配給してくれるので、貧乏学生には大変有難い存在なのだ。
 ぐでぐでと死んでいた我々は、美味しい食べ物を差し出されたなら即時生き返るしかない。食満先輩はコートを脱いで丁寧に皺を伸ばし、竹谷は雪崩たギターとベースを元の配置に戻し、わたしは部室の向こうへ飛んでいったスニーカーを回収する。

「あ、仙蔵と長次が部室向かってるってよ。数足りる?」
「大丈夫ですよ」
「竹谷、さっきの功績を褒め称えよう。先に選びな」
「やった!」

 いそいそと炬燵に戻って姿勢を正した我々は、ケーキを囲んで合掌する。終わりよければ何とやらである。

両の手はいつもひらいておくこと

200315