既に干涸らびていた。手遅れとは言わずともパラメータを表示するなら打っ千切りで赤疲労のそれ。油断すれば口からまろび出てしまいそうになる「かえりたい」を、すっかり冷めてしまったブラックコーヒーと共に流し込む。
時刻は二十一時を過ぎた。机の端には山盛りの資料────国からペーパーレス化頑張ってと言われているはずなのに見事に逆行しているのは、うちが特殊なお役所であることを理由にしても如何なものかと思う────を切り崩し再構築し体裁を整えて、はてさて今月の残業時間はどないなっとんのかいな、とか無駄なことを考えて、またマグカップに手を伸ばす。
歴史保安庁、通称「時の政府」に所属する一職員のわたしと大倶利伽羅は、二人三脚でややこしや案件の諸々を斬っては投げ、蹴散らしては投げ、或いは丸めてゴミ箱にダンクシュート又はシュレッダーで細切れに────はできずに、日々机の上や出張先の本丸で戦っているわけである。
画面を見詰め続けてしょぼしょぼになってしまった瞳に目薬をさして、椅子に座ったまま背伸びをする。鳴ってはいけない不協和音を奏でる己の背面に自分でも驚きながら、こうして日々は過ぎていくのだなあ、ともつれる頭でぼんやり思う。
隣の席の同僚は、至って涼しげな表情で資料作成に励んでいる。同じだけの時間を労働に費やしているはずなのに、わたしに比べれば草臥れていない。底無しの体力をお持ちで羨ましい限りである。いや、赤疲労はお揃いなんですけど。
すっと通った鼻筋や彫りの深い目許や長い睫毛を横目で眺めながら、マグカップの底に薄く残っていたコーヒーを飲み干す。カフェインの効力など、とうの昔に遙か彼方へ裸足で逃げ出してしまっていた。眠気覚ましにもならん。
「俺の顔よりデータベースを見ろ」
「そんな殺生な」
「仕事をしろと言っている」
「それはそうですね」
正論で宥められ、わたしはマグカップをノートパソコンの横に着座させた。視線を同僚からパソコンの画面に戻すと、ただ圧倒的な現実に殴り掛かられて虚無の心である。
十九時頃に食べたはずのコンビニのおにぎりはすっかり消化してしまって、こんな時間なのに腹が空いた。腹が空くとどうなるか。御機嫌が斜めになってしまう。大人として自分の機嫌は自分で取るしかないので、最もお手軽な方法を試みるのが一番である。同僚の端正な横顔を目の保養にして何が悪い。
「開き直るな」
「すみません、ちゃんと仕事します」
当然だ、と細められたこがね色の瞳が物語っていた。倶利伽羅さんに窘められるのが癖になりそう、と思っていた時期もありました。手遅れです。
執務室は我々と似たようなへろへろの職員で溢れている。いまこの瞬間、時間遡行軍に強襲されたら人間の職員は全員お陀仏だろう。逃げる体力ぐらいは残しておきたいが、ここ暫く続いている残業チキチキレースの中ではなかなかに厳しそうだ。そもそも職員の仕事は、刀剣男士の皆さんに守ってもらうことが前提になってしまっているし。
繁忙期がきっちり決まっている部署もしんどいが、突然現れた繁忙期が半永遠に続く部署も酷いと思う。うちは後者だ。
歴史保安庁大和国本丸支援課、というのがわたしの配属されている課の正式名称である。主に本丸設置時の備品等の管理及び調整に関する業務、戦況データの解析及び公表に関する業務、本丸の解体に関する業務、その他諸々が担当ということになっている。その他諸々の比重を考えたら負けである。
公務員って定時で帰れそう、と言われた瞬間に「組織と部署による」と反射で返してしまいそうになるわたしは悪くない。来世の労働環境に期待。
「ていうか全然見当たらないんですけど……本当に実在するんですかそんな記録」
「猫背。下腹に肉が付くぞ」
「それはいかんです」
こないだの業務で諸事情あって倶利伽羅さんに抱えられてしまったことがあり、己の筋肉の欠片もない肉体を恥じたのは記憶に新しい。下腹は元来ふよふよしているものだと言い訳したいが、猫背を矯正しない理由にはならない。大人しく腹筋に力を入れて背筋を伸ばしておく。
そう言う倶利伽羅さんの背筋は残業中であってもしっかり伸びている。わたしや向かいの机の島でぐでっと潰れながらキーボードをぽちぽち刺している御手杵さんとは大違いだ。
「いやでも本当に、いまのところ大和国のデータベースには見当たらないですね。来週、備前国と相模国に照会かけます。こっちより戦況データ充実してるでしょうし」
「……わかった。本丸の違法改造の件は」
「そっちはひとまず通知文で対応します。あと新型結界の提案ってどうなってましたっけ」
「先方の返事待ちだ」
「では『ひ本丸』解体の書類を優先させますね」
「『そ本丸』の祓所の予約に間に合わせるなら、月曜には課長決裁が必要だが」
「ま、まじすか……いやでも一緒に終わらせた方が後々絶対楽ですよね……」
本日は金曜日。通知文は今日中に起案文書を作れば何とかなるが、本丸解体に関係する書類作成の作業は、結構骨が折れる。今日できる範囲(正しくは今日片付けておくべき範囲)でざっと見積もっても、最低六時間は掛かる。希望は打ち砕かれていた。
「終電で帰るってば池袋……」
「今日は無理じゃないか」
「マジレスありがとうございます。ところで金曜日になると急に業務が膨れ上がるの何なんですかね? どっかで発酵でもしていると?」
ふん、と倶利伽羅さんは鼻を鳴らした。無駄口を叩いている暇があったらさっさと作業に戻れという圧を横から感じ取り、わたしは手放したマウスに再度指を重ねる。帰りたい。文字列の海をスクロールする。帰りたい。
「おうおう、今日も死にかけてるな!」
白衣を翻して颯爽と現れたのは、少年の姿にあるまじき低音の美声の持ち主、広報広聴課の薬研藤四郎課長補佐である。こんな時間帯にも関わらず彼はまだ元気そうに見える。
お疲れさまですと軽く頭を下げると、彼は既に帰宅した職員の椅子を何処からか引っ張ってきて、短パンから覗く美しい生足を男前にどかっと広げて座った。相変わらず儚げな顔と動作のギャップが激しいひとである。
「決まったら一番にサイトーに言ってやろうと思ってたんだ。朗報だぜ」
「え、なに、何ですか」
ちなみに、サイトーというのはわたしの職場での偽名である。時の政府職員や審神者は、本名で業務に取組んでいると何処かでうっかり呪われたり悪用されたりといった事案が多発するので、偽名を使う風習が定着したらしい。審神者は割と自由に名付けが可能だが、職員は業務を円滑に遂行するという都合上、よくある名字ランキングから拝借しているだけに過ぎない。
薬研補佐は眩しくて直視できないレベルの笑みを浮かべて、わたしの顔面に何かをずいと突き付けてきた。引き剥がして内容を確認するより早く、彼の得意気な声が鼓膜に触れた。
「歌の広報本丸の大倶利伽羅と鶴丸国永、二振りだけの企画公演が決まったんだ。さっき公表したとこだぜ」
「…………は?」
わたしも、隣の席の彼も、一様に全ての動作を止めた。
衝撃のあまり、思考回路はすっかり焼き切れていた。薬研補佐は硬直するわたしの肩をバシバシ叩いて喜んでいる。ご期待に沿った反応を示せたのだろうが、正直それどころではない。
「う、歌の広報本丸って、広報広聴課の委託の、あの、お芝居とライブの……」
「ああ。最近、兼業審神者が増えてるだろ? 副業の方が忙しくてなかなか審神者業に集中できん奴も増えているみたいだからな。こういう福利厚生イベントを経由して業務の効率化の研修に繋げようって魂胆だ」
「神か?」
「あんた……」
薬研補佐の肩を引っ捕まえて逆に食い気味に迫るわたしを、同僚が忌々しそうに窘めた。薬研補佐は眼鏡を指先でくいっと押し上げて「いやー面白いほど喜んでくれて嬉しいぜ」にやりと口の端を吊り上げた。
歌の広報本丸は、芝居の広報本丸とあわせてめちゃくちゃ人気の高い福利厚生制度のひとつである。チケット戦争に打ち勝った者だけが現地での観劇を許される。配信も円盤もあるが、やはり現地の空気は格別なのだ。
「すごい、いま一瞬で赤疲労吹き飛びましたよ」
「そりゃすごいな。もっと働くか?」
「いえ、現状でお腹いっぱいですので、さっさと片付けて観劇に備えます」
「当然のように観に行くつもりなんだな」
薬研補佐が肩を揺らして笑うそばで、倶利伽羅さんが眉間に深い皺を刻んだまま、自分の端末に向き直ってキーボードを打ち始める。彼は自分の同位体が慣れ合う様子を目にするのが辛いらしく、歌の広報本丸も芝居の広報本丸にも好んで近付かないので仕方ない。ひとの好みはそれぞれである。押し付けるのは良くない。
大倶利伽羅と鶴丸国永、爆裂に人気の高い二振りだ。チケット戦争は苛烈を極めるに違いないが、最初から負けをイメージするようなことがあってはならない。常に意識するのは「席が用意された自分」である。
「だって推しが! 動くんですよ! 有休取れるように仕事頑張るしかないじゃないですか!」
「だそうだ、良かったな大倶利伽羅」
「倶利伽羅さんは推しの中でも別枠ですのでご安心ください、いつでもうちわを掲げる準備はできています」
「あんた本当に重症だな。明日出直した方が良いんじゃないか」
「休日出勤は嫌です! のーさんきゅー!」
すっかりテンションの乱れたわたしを嫌そうな顔で見やる倶利伽羅さんである。彼の塩対応も随分と人間味に溢れてきたなあと思いながら、人間顔負けの「どっこいせ」と共に腰を上げた薬研補佐に深々と頭を下げた。
本当に広報広聴課の職員さんには頭が上がらない。審神者だけでなく、職員もまた広報活動を兼ねたこの福利厚生制度に大変にお世話になっている所以である。
「じゃ、頑張れよ」
「ありがとうございます薬研さん、徳を積みます」
俄然やる気が漲ってきた。頑張るしかない。煩雑な書類をたくさん作らないといけない本丸の解体業務だろうが、議会対応まで膨れ上がることが分かっている違法改造本丸の処理だろうが、何だってこなしてやる、という気持ちである。生命活動を維持できる範囲で。政府職員の斬り捨て御免率は高いのである。
白衣をひらひらさせながら大股で打合せスペースに戻っていく薬研補佐を見送って、わたしは自分のデスクに向き直った。作業着の袖を捲って、とりあえず単純作業の範疇である通知文書から取り掛かることにする。
はあ、と溜め息が隣から零れて、わたしはキーボードに伸ばしていた指を止めた。憂鬱の色濃い吐息は、同僚にとっては通常運転だとしても、放っておく理由にはならない。
「倶利伽羅さん?」
「…………」
彼に顔を向けると、琥珀色が僅かに揺れていた。すぐに視線は逸らされたが、彼の繊細な表情を見逃すわたしではない。
わたしの物ではないのに、そうやって甘いところを見せるひとだから。
「倶利伽羅さんにもペンラ振って良いんですか?」
「止めろ」
コンマ一秒で返された声音は舌打ち交じりで、照れたお顔も大変可愛い。うちわを見て良かったらファンサくださいねとによによ笑いながら言うと、脳天に全然本気じゃないチョップが降りてきた。
加減をしてくれるひとだ。そのむず痒いほどの優しさに、わたしの頬は更に勝手に緩んだ。
「……あんた、覚えていろよ」
捨て台詞みたいな言葉と共に、わたしよりも大きな手が伸びてくる。先の行動が読めないのはいつものことなので、わたしは大人しく待ち構えておくことにした。
いつもの黒の革手袋は、いつの間にか外されていた。長い十本の指が左右からわたしの耳に伸びて、ガッと勢い良く頭を鷲掴みにする。疑問符の飛び出たわたしを、倶利伽羅さんが待つことはない。
わたしの頭蓋骨なんて一瞬で砕けるだろうに、彼の両手はそのまま、揺さ振るように髪を掻き回してきた。うええ、と思わず声を上げるわたしに、倶利伽羅さんがほんの少しだけ口の端を吊り上げたのがわかった。
赤疲労の時だけ見せてくれる油断した姿は、わたしの心臓の鼓動なんて容易く操ってしまう。
本刃は嫌がらせのつもりなのだろう。人間の感情についてはもっと勉強してもらわないと。こんなの、恩賞と何が違うんですか。
文字通り爆発したわたしの頭を見て満足したのか、彼の手は戻っていってしまう。正気の振りをして、わたしは懸命に言葉を紡いだ。
「そ、そんな、犬でも洗うみたいに」
「ふん」
絡まった髪の隙間から見えた倶利伽羅さんの、少しだけ緩められた眦に、わたしはこんなにも許されていることを知るのだ。