暫し無言を貫いていたが、それでも緑と赤の瞳は雄弁だった。
見慣れたおじさん達の群れの中、見慣れぬ彼の双眸に朝から脳がうっかり溶け出しそうで怖い。午前六時にしては刺激が強すぎるが、負けている場合ではない。
ブラインドで操作するのも慣れたもので、初々しかったのも最初の一ヶ月だけだった。片手間みたいにアスチルベのライトブルーを競り落とし、僅か息を零す。
山田くんは花きの競りは初めてらしく、電光掲示板に視線を向けたり机に備え付けられた端末を見やったりと忙しい。
「……え、今ので競り落としたんすか?」
「うん。あの掲示板で値段が下がっていくから、欲しい値段の時にボタン押すだけ」
水産物の競りと違って、花きのそれは声よりも機械音が響いているのも意外だったのだろう。彼の素直な「すっげー速くてびっくりした」声音が鼓膜を揺らがして、何だかむず痒い。
「朝早くから付き合わせてごめんね」
「何言ってんすか、他でもない萬屋ヤマダにご依頼ありがとうございます」
隣に座ったまま、山田くんが恭しくぺこりと頭を下げた。若いからか、僅か肩が触れそうな距離感であるからか、薄着でもないのに肌が熱を感じる。錯覚のはず。
手元には視線を落とさずに掲示板を見詰めながら「あと二十種類だから、コーヒーでも飲んでのんびりしてて」述べると、山田くんは「多いのか少ないのか分かんねェな」からからと笑ってから「や、面白いから見てて良いすか」と投げ返してきた。
本来であれば、この場にはわたし一人がいて、父が仲卸売場で買付けする予定だった。昨日の夜、父が突如ぎっくり腰を罹患し、絶望に打ちのめされながら萬屋ヤマダに懇願の電話をかけたところ、山田くんからコンマ一秒で承諾の旨が返ってきて、何とかなったというわけである。
「昨日はちゃんと寝た?」
「まあ……てか、いつもこんな朝早いんすね」
「パン屋さんに比べればまだマシだよ」
てか、雑談しながら操作できんのすげェ、と山田くんが感心した声を上げるので、勝手に頬が緩んでしまう。不審者である。若人を隣に侍らしている女なんて、競り市場では悪目立ちして仕方ないので表情筋には死んでもらうしかなかった。
「あと思ったんすけど、何か良いにおいしますよね」
「……花が集まってる場所だからね」
山田くん、何故わたしの顔を覗き込みながら迂闊な発言をしてしまうのか。一瞬だけ思考回路がショートしてしまった。慌てて繋ぎ直して持ち堪えたわたしを褒め称えてほしい。あと、既に肩同士がくっついてしまっているのだが。何故に。山田くんよ。うっかり覗き込んだ拍子であるならば、わたしの心臓のために今暫く適切な空気を此処に挟んでいただきたい。
と、主張できぬ花屋のしがない副店長である。山田くんの興味津々な視線がようやく電光掲示板に移って、何とか二酸化炭素を細く吐く。寿命が縮んだ。肩から分かる彼の体温は間違いなくわたしより高い。若い。
そういや彼は今年成人式だったか。彼の弟くん達から長兄は夏生まれと聞き及んではいたが、お祝いをするタイミングを逃していた。この後ご飯にでも連れて行こう、そうしよう。決意を胸に手元のボタンを押す。
「あと残り三種類だから、移動する準備始めてね」
「うす。てか速いなやっぱ」
「階段混むけどおじさん達の間を縫っていくからね。頼むぜ兄ちゃん」
「おう、任せろ! アッ」
弟達に喋るノリだったのか、さっきまで引き絞られていた声音が突如、わたしの貧弱な鼓膜を襲った。周囲のおじさん達も目を白黒させている。ラップする人の声量を甘く見ていたわたしが悪い。
「だ、大丈夫すか、すいません」
「や、良いから……競りももう終わるし……」
大きな手がアワアワとこちらに伸びてきて、そのままガッと音がしそうな勢いで肩を抱く。
泡吹いて倒れなかったわたし、実は最強なのでは?
すいません、耳平気すか、と無駄に良い囁き声が耳朶を掠めた。そっちの方が随分と破壊力があることを知り、大きな後悔に苛まれながら電光掲示板を睨み付ける。防御力を高める方法は何処に売っているのだろう。
ドデカいカゴの乗った台車にぎっしりと詰め込まれた段ボールを認めて、これ全部? と山田くんがぱちぱちと瞬きをしている。「あともう一台あるよ」「マジすか」だから体力のある男手の助っ人が必要だったのか、と彼は納得した様子である。
ごろごろと歪な車輪の音を響かせながら、台車を押して駐車場へ急ぐ。さっさと詰め込んで店に戻りたいが、今日はこれから仲卸売場も回らないといけない。
花は鮮度が命だ。今日は切り花中心だから、種類が多い。
「車まで運んでくれたらわたしが荷入れするから、その間にもっかい台車の往復お願いできる?」
「いや、逆の分担の方が良いんじゃないすか。絶対重いでしょ」
「うーん、きちんと詰め込まないと収まらないから……」
渋る彼の背を押して、台車往復の任務を授ける。山田くんは本当に真面目で良い子だ。いや、萬屋ヤマダの経営者に「子」なんて表現は相応しくないな。二十歳になったわけだし。
切り花が萎れないように、段ボールの中には水が含まれた状態になっているものも多い。腰の逝った父を考えると、わたしも十分に注意しなければならないが、そもそも男性の従業員を増やさないとキツいな。花屋に来てくれる若い男性なんて少数派だ。辛い現実である。
山田くんがうちで働いてくれたらなあ、と叶わぬ願いに思いを馳せている場合ではない。
チューリップ、水仙、フリージア、ラナンキュラス、アイリス、ヒヤシンス、アネモネに百合と、季節を先取りした花々の入った箱をよっこらせ、と車に積むのはいつも通りだが、考えごとをしていたのが良くなかった。
軍手をしているにも関わらず、朝露と内容物でしっとりした段ボールが指先を掠める。咄嗟に箱ごと抱えようとして、わたしは車体から足を踏み外した。
あ、これ、まずい。
「っぶね!」
切り裂くような鋭い声と同時、わたしの胴体は太い腕に持ち上げられる形で静止した。
幼子みたいに抱えられたわたしの、肺から漏れ出た二酸化炭素は頼りなく、心臓は十六ビートでは収まらない。シャカシャカ鳴るウインドブレーカー越しに伝わってくる彼の体温は、驚くほど熱い。密着した肉体の質量に生唾を飲む。
「や、まだくん」
「間に合った!? 怪我してねェすか!?」
「あ、ありがとう、無事です、はい」
山田くんに助けてもらわなければ、この腕の中の薔薇たちを傷めるどころではなく、多分わたしは車に顔面を打ち付けていた。あまりにも面目ないので肩を縮こまらせていると、山田くんの手のひらが丸まった背に宛がわれる。
「何言ってんすか。とりあえず、今日は俺が車に載せますんで指示ください」
「……じゃあ、お願いします。ありがとう」
「いくらでも扱き使ってやってくださいよ、そのための助っ人なんで!」
明るい声で拳を突き出して、くしゃっと笑う山田くんは眩しい。駐車場の外で朝日が昇ったから、とわたしは自分に言い訳を重ねるしかない。
彼が長い手足を活かしてさくさく花を積んでくれたおかげで、先程消費した時間を何とか巻き返すことができた。仲卸売場も問題なく巡回できて、萬屋ヤマダの優秀さに感動するばかりである。
高速道路をかっ飛ばしてイケブクロの店舗に戻り、荷下ろしを終え、休憩室で近所のパン屋のたまごサンドを朝ご飯にと彼に手渡す。「では忘れないうちに本日の報酬を……」茶封筒と一緒に、今日仕入れたばかりの赤色のガーベラ一輪を差し出すと、彼の瞳がまるくなった。
「……あの、花言葉とか、あるんすかね」
意外なことを言われ、今度はこちらが動きを止める番だった。ぶっちゃけ花屋的には花言葉なんか気にせず好きな花を買ってほしいが、まあそれは置いといて。知りたい? とわざとらしく小首を傾げると、彼は大きく頷いた。
何かもう、本当に眩しいな。ごつごつとした手のひらに、包装紙越しの赤はよく似合う。
「『限りなき挑戦』……ラップバトルもお仕事も、応援してるよ」
「じゃあ早速」
「うん?」
わたしの手と山田くんの手が、一輪を挟み込むようにして熱が混じった。かさついた己の指が長いそれに絡め取られて、びくともしない。
「応援してくれるんすよね?」
「うん……?」
こちらを射貫く青年の原色の緑と赤は逸れない。ね、と繰り返す彼の、その双眸が細められるまで、あと。