「農水省に配属されるにはどうしたら良いのかな」

 疑問符を語尾に貼り付けてはいるものの、彼の声色から本気の追求ではないことが窺い知れた。暇潰しのようなものだろう。
 同僚の桑名江は、内容なんざすっかり頭の中に刻み込まれているはずの審神者業務の手引き書なんかを手に、分厚い前髪越し、こちらの背中を視線で刺してくる。
 返答の催促に等しい棘に、わたしは手にしていた書類を一度膝の上に置いて、首だけで振り向いた。彼はわたしの少し後ろで胡座を掻いていたはずが、気付けば寄り添うような距離まで迫っている。普通に驚いた。
 怠惰を決め込んで沈黙を舐めていると「経験者でしょ?」と首を傾げて、桑名江は散歩を待ち望む犬みたいに詰め寄ってくる。
 時の政府に引き抜かれる前の経歴なんて一言も漏らした覚えはなかったが、恐らく人事課の陸奥守くんだろう。しかも口を滑らせたのではなくてわざとだ。まはは、と豪快に笑う彼の姿が脳裏に浮かぶ。

「歴史保安庁が君を手放すとは思えませんが」
「思考実験だよぉ」

 やはり暇潰しのそれである。
 桑名江の体温は、他の刀剣男士と比べても高い気がする。直接触れ合っているわけではないのに、背後に迫った熱を確かに感じる。美しい眼球は分厚く重なった髪の奥、こちらからは全く窺えないのに、光線銃みたいな視線が皮膚を焼く。
 彼の瞳が稲穂の色と知ったのは、いつだったか。

「……面談で配属希望を上司に伝えて、天命を待つしかないのでは」
「もっと簡潔に言ってよ」
「絶望的です」
「やっぱり?」

 机の上に束ねられた書類の山をぺらぺらと指先で弄んで、彼はふんにゃり笑ったような声を出した。否定を前提にした問い掛けは、少し鬱陶しい。
 庭から鳥の軽やかな囀りが流れ込んでくる。今日が休日なら颯爽と花見に繰り出したいくらいの、爽やかな青空が広がっていた。
 膝の上でくたりと曲がった紙束に再度視線を落とすと、明朝体がこちらを静かに見上げている。なるべく目を合わせたくはない。嘆息をひとつ。

「そもそも君が配置替えされてしまうとわたしは過労死しますよ」
「そんなにヤワじゃないでしょお?」

 僕知ってるよお、と彼は幼子みたいに屈託のない笑みを浮かべてみせる。これに騙されてはいけない。
 文字列を指でなぞっても掻き消えるわけもなく、業務命令はじりじりと網膜に近付いてくる。溜息を吐くのにも飽きたところで、わたしは重い腰を上げた。

「……いえ、本日から課せられている審神者業の兼務は、正直言って限界を超えるしかありませんので」
「そっか。早く鍛刀したらどう?」
「それはそうですね」

 彼は小さく鼻を鳴らした。素直に返事をしただけなのに何故。
 急にむくれたかと思えば、男は立ち上がったわたしの腕を引っ張った。畳に逆戻りの刑である。そのまま彼はわたしの肩甲骨に柔くない頬を押し付けた。シャツ越しに零された吐息は生き物の温度だ。ちょっと暑いからと言ってデスクに作業着を置いてきたのは失敗だったかもしれない。

「……どうせ、僕を君のモノにはしてくれないんでしょ」

 問い掛けるような言葉の並びでありながら、それは断定の色が強かった。

「そうですね」
「僕が土を耕して肥料を混ぜて種を植えて、丁寧に水をあげてお世話してきたのに」
「庁舎の屋上庭園のことですか?」

 また随分と話が飛躍したな、と思いながら書類を捲る。鍛刀して顕現させて、刀装作って出陣させて、その間に政府職員が身を守る用途に使用する式神作りに励めとのことである。業務命令は淡々と次のページにも続いていた。
 彼とこうして真新しい本丸に腰を下ろしているのは、単純にこれが仕事であるからだ。
 この先の未来予想図を脳裏に描いて肩を竦めた。ここがわたしの墓場になる。何も知らぬ初々しい審神者だったら、そんな想像を巡らすこともなかっただろう。知らぬ方がしあわせなことなんて、数え上げる方が馬鹿馬鹿しい。
 むう、と彼が背後で唸った。

「そうやって都合の悪い時に頭の悪い振りするの、嫌いなんだけど」
「今日は随分ご機嫌斜めですね。鍛刀が終わったらお昼休憩にしましょうか」

 損ねた情緒を立て直すには些か分が悪い。彼の前髪がわたしの背中でくしゃりと擦れる音がする。返事は噛み殺されたらしかった。




 今までは担当の審神者に指導する側だったが、いざ自分がその立場になると何とも言えない緊張感があった。鍛刀がだけなら経験があるが、顕現作業は本当に初めてだ。
 鍛刀部屋に足を踏み入れ、精霊さんに頭を下げた。資材の設定は端末から操作するだけだが、礼節を欠く態度は最終的に自分に跳ね返ってくる。
 不機嫌を全く隠さない桑名江が、わたしの手元をぐいぐい覗き込んできた。彼に対する礼節は、随分前にデスクに置き去りにしてしまっている。

「初期刀は打刀が良いでしょお。早く設定しなよ」
「まあ、わたしの首を落としてもらう刀ですしね」
「ほんっま、業わくのう」
「お口が悪いですよ」

 大の男の身形で口を尖らせるんじゃない。当然みたいにわたしの肩に両手を置くのも如何なものか。

「何なん? 自分には責任の欠片もありませんみたいな顔しやんでよ」

 また随分とキツイ言葉運びである。そっちがその気なら、こちらだってそれなりの態度で応戦するしかなくなるのだが。良い年の(桑名江に至っては百年単位の)大人がこのような有様で良いと思うか。反語。
 我々は隠れて負けず嫌いなところがよく似ていた。ここは職場と違って制止の役割を担ってくれるひとがいない。篭手切江とか、豊前江とか。

「じゃあ桑名くんが初期刀に代わって首落としてくれるんですか」
「やだ」

 即答である。わたしの最後にでも寄り添いたいのかと思わせておいて、全力の否定を噛ましてくる。一体どっちなんだ。
 大袈裟な溜め息がうなじをくすぐったと思えば、彼の顎がわたしの右肩に乗っていた。
 祖父の家で飼っていたゴールデンレトリーバーを思い出す。顔を出す度に散歩に連れていけと自らリードを咥えて近寄ってくる愛嬌のある子で、わたしの肩に顎を乗せて甘えるのが常だった。豊かな毛並みを撫でくり回せば嬉しそうにきゅうきゅう鳴くから、わたしはいつだって母の「もう帰るよ」の言葉で現実に引き戻されていたのだっけ。

「……何考えてるの?」

 ────訝しむ声が後ろから耳朶を叩く。最近専らわたしを引き戻すのは、この付喪神さまの役割になっていたことを知る。
 何でもないですよ、と返したのに、彼の喉仏はわたしの肩にくっついたままだ。彼が言葉を紡ぐ度に振動が肌を這う。距離が開く様子がないので、多分諦めて次の行程に進む方が無難なのだろう。端末に指を滑らせる。とりあえず全部三百五十の配分で良いか。

「ちょっと、ほんまに鍛刀するん?」

 上擦った声が頬を叩く。祖父の家のあの子と比べものにならない重さがぐっと肩に乗る。
 ああ、鍛冶場の精霊さんが生ぬるい目でこちらを見上げている。遊んでいる場合ではない。これは仕事だ。初日から職務怠慢で指導されたくはない。

「考え直さん?」
「さっきと言動が矛盾してますが大丈夫ですか」
「大丈夫やないから怒ってるんでしょ!」

 鼓膜は破れなかったものの、彼の怒号に肩が大袈裟なくらい跳ねた。普段はふにゃんふにゃんした喋り方をしていても、戦場を駆け回る男だ。怒りの感情が欠けているわけではない。
 端末を操作するわたしの手首を、彼の大きな手が背後から拘束する。びくともしない。何で邪魔するんですか、なんて尋ねようものなら、きっと事態は悪化の一途を辿るのだろう。わたしに残された選択肢は面白味に欠けていた。
 怒っているひとを見ると、自分は相反して冷静になるものだ。不思議と薄く感じられる酸素を肺に押し込めて、わたしは敢えて鍛冶場の炎に視線を向ける。

「この問答、恐らく終わりが見えませんが」
「何で抗議してくれやんの」

 遂に会話も擦れ違い始め、肩に彼の額が押し付けられた。いやいやと子どもみたいに首を振って、服越しの肩甲骨に熱い吐息を被せてくる。やっぱり支給された作業着をちゃんと着ておけば良かった。装甲が心許ない。後悔は常に遅い。
 抗議。わたしが。

「……誰に、何を」
「課長に、審神者の兼業」
「労働条件は規則で決まっているので、課長ではなく人事に……」

 業務中の条件反射で吐き出した言葉は、どうやらお気に召さなかったらしい。手首を掴んだままの彼の手に、ぎりぎりと再び力が込められた。骨を圧迫する痛みに呻くも、桑名江はまるで気にした素振りを見せない。
 かと思えば、わたしの身体は反転させられ、今度は彼と正面から向き合っていた。
 ぐしゃぐしゃになった前髪から、向日葵みたいな黄金色が覗いている。間抜けに瞬きを繰り返すわたしの目玉を刺し貫くような。

「人間のくせに何で欲張ってくれへんの? おかしいやん」

 その瞳が確かに潤んでいるのを見て、喉が鳴った。わたしの喉だった。
 割と穏やかな刀剣男士に分類されているはずの彼が、ここまで取り乱すようなことだろうか。時の政府職員も、審神者も人員不足が喫緊の課題である。

「農水省に行きたかったのでは?」
「僕の話じゃない。君の話だよ」

 予想していたのと随分異なる返答に、眉を寄せた。この男、陸奥守くんからどこまで情報を聞き出したんだろう。
 体勢が変わったと同時に、彼に奪われた端末をちらと見やる。あとは鍛刀開始の文字を指先で押すだけの画面。時間は無為に過ぎる。
 このまま野放しにしておくと碌なことにならない。わたしはわざとらしく鼻を鳴らして、少し垂れ目がちの彼のそれをしっかりと見詰めた。

「桑名くん、業務中なのに隠れて飲酒でもしました?」
「……信じられない」

 何故かそれきり絶句した様子の彼は、わたしの腕を引っ張って足早に鍛刀部屋を離れた。歩幅が大きい。連行されるわたしはいつ転ぶか分かったものではない。待った待ったと声を張り上げても返答のひとつもない。
 縺れる足で蜻蛉返りさせられたのは執務室である。辿り着くやいなや、彼は既に山積みの書類の中からクリアファイルを一枚引っこ抜いて、こちらに手渡してくる。読んで。穏やかな春の陽気に反して、その声は硬い。
 片腕はまだ拘束されたままだった。頑固者と知ってはいたが、同僚に対してこの仕打ちはない。結局のところ力で敵う相手ではないので、仕方なくクリアファイル越しに並んだ文字列をなぞる。

「譲渡承諾書? 偽造したんですか」

 む、と目の前の彼は実に分かりやすく口許をひん曲げた。

「お天道さまに顔向けできないやり方はなるべくしないって知ってるでしょお」
「なるべくですし」

 揚げ足ばっかり、と桑名江は子どもみたいにぷいと顔を背けた。
 そう、業務上、必要とあらば汚い手を使わなければならない場面はある。彼の信条はわたしと同じだ。揚げ足でも何でもない。
 偽造じゃないとして、たった一枚のこの書類を作り上げるための労力を考慮すると、途端に気が遠くなる。冗談で出てくるような書類ではないのだ。

「……課長に嘆願したんだよ」
「何してるんですか」

 思わず半目でコメントしてしまった。我々の配属されている課の長は、確かに桑名江を顕現したその人であるのだが。嘆願なんて、普段はのほほんと業務に取組んでいるこの男が?

「だって、僕が耕し続けたいのに、どうして他所の刀に譲らないといけないの?」

 流石に、今更畑の話だと茶化す空気でないことは分かってしまった。
 それでも、真正面から挑むのは怖い。彼は人間ではないからだ。わたしは畳に視線を落とした。

「……随分熱烈ですね。何か悪いものでも食べたんじゃないですか」
「その理屈なら、朝昼晩と職場で同じご飯を食べてた君も熱烈になってるはずだよね」
「こちらは通常運転ですが」
「おたんこなす!」

 盛大に罵られた瞬間、わたしの身体は桑名江に包み込まれてしまった。
 鼻先に押し付けられた厚い胸板の奥、白のパーカー越しに早鐘の鼓動が皮膚に伝わる。書類が折れるのを危惧して咄嗟に腕を上げたのは間違いだった。これでは抵抗の手段が皆無である。
 おたんこなすなんて、それ真剣必殺の時にしか言わないくせに。────それくらいブチ切れていると?
 冷や汗が出てきた。わたしは何度間違ったのだろう。自問自答している時間はない。現状この本丸には、わたしと桑名江しかいないのだから。

「言動の不一致は如何なものかと」

 時間稼ぎの言葉に、彼は打って変わってにっこり笑った。漸く前髪で稲穂の色が隠れて、柔和な空気が戻ってくる。地面をあたためる太陽みたいな。
 ああ、何故いまわたしは視線を上げてしまったのか。

「種が雨に流されちゃったのかも。今度は念入りにやるよ」
「そうですか」
「うん。甘やかしてくれるだけの僕を期待するのはもう終わりだよ」
「そうですか」

 こちらの片言の返事に気分を害した様子もなく、桑名江は今にも鼻歌でも披露しそうなくらいの空気を振りまいている。
 違う、この男、全然上機嫌なんかじゃない。真逆だ。わたしを折るまで徹底的に戦うつもりだ。
 第六感が告げている。逃げられない。彼の腕は全く緩まない。ふふ、と彼が笑う。収穫物を見せてくるときと何ら変わりがない。

「芽吹くのが待ち遠しいなあ」
「時間が解決することもありますよ」
「もお、こっちは怒りたくて怒ってるんじゃないのに」

 豪雨の中、散歩に行けない犬みたいだ。的外れの言葉は丸め込められ、わたしはそうですかと力なく返答するしかない。
 クリアファイルを持つ手は汗が酷く、気を抜けば取り零してしまいそうだった。やっぱり怒ってる。

「あるじ」
「契約結んでませんよ」
「今から結ぶの」
「順番は遵守しましょうね」

 後手後手の対応に未来はない。宥め賺して引き延ばせても、たったの数秒にしかならない。わたしの背を覆う腕の強さは、退路を燃やす炎に似ている。

「お腹が空いているんだ。横取りされる前に好物から食べるよ」
「お昼ご飯の話でしたか?」
「ちょっと黙って」

 噛み付くような声だなと思った時には、既にわたしの呼吸は呑まれてしまっていた。

泥のアウロラ

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