「白膠木さん?」
はいはーい俺がお笑い芸人の白膠木簓サンやで~、と一息で返してまうとこやった。
慌てて酸素と一緒に営業の定型文を飲み込む。白膠木さんなんて呼び方するん、九割が業界関係者やねんもん。ほんで俺はいまトウキョウにおって、良くも悪くも全然そっちの人らとは関わらん日常を送っとる。
とりあえず煙草の火ィ消して頑張って目ェ開いとこ。人畜無害のオニーサンの佇まいを演出するんがいっちゃん無難なんや。
わざと作った己の真顔は結構刺々しいから嫌やねんけど、背に腹は代えられへん。やって名指しやで? めちゃくちゃ悲しいことにこっちやと全然知名度ないはずやから、その時点でオオサカにおった頃の関係者に絞られる。
くるくる脳内を駆け巡る俺の思考を掻き分けるみたいに、他人の足音が近付いてきた。駅近の喫煙所なんか、お喋りを楽しむとこやない。こないなとこでカップルがイチャついとってみ? 周りの人からしたらシンプルに鬱陶しいし喫茶店行けや~てなるやん。や、俺いまフリーやから彼女ちゃうけどな!
傾いた西日を背中に、声の主は喫煙所の出入り口の近くで立ち止まった。逆光やから顔が全然分からへん。
「やっぱし白膠木さんやないですか!」
はっとする。それは聞き覚えのある声やった。
よお盧笙と出さしてもろた、オオサカのテレビスタジオの光景が鮮やかに蘇る。
俺らのお笑いがいっちゃんええ感じになるように、あれやこれやと手ェ尽くしてくれたスタッフさんのひとり。テレビに全然慣れとらん俺らに、基本的な立ち振る舞いやら業界での礼儀やらを一から色々教えてくれた人や。
あー、なんか自分以外の関西弁聞くのも久し振りやわ。
懐かしなあ、なんて手ぇ振ったるんがええんやと分かってるんやけど、何せ今の俺、さっきまで左馬刻の仕事を手伝っとって、気軽に人に言いたないことしてきた後なんや。いや実際んとこ人助けしただけやねんけどな!
流石の簓さんも意外と気が引けてもて、じりじりと一歩、重たい足を後ろに置く。出入り口はもう一ヶ所ある。
「……人違いやと思いますけど?」
「え? 何でわたしが間違えるて思たんですか?」
その声があんまり柔らかいもんやから、ついに俺は走り出した。
トウキョウの街は薄情で、歩道を闊歩しとる若者達はそもそも必死の形相で全力疾走を開始した俺なんかに関心もあらへんし、ビルの隙間をぬいぬい進む野良猫ちゃんかて歯牙にもかけへん。
さっき帰路を辿ってってもうた左馬刻と再び合流したろ思ても、後ろ姿はすっかり見えへんし。電話したら飛んできてくれへんかな。
いや、左馬刻来てもうたら余計にややこしなるわ。却下。
何とか撒いたかなあ、と路地裏の壁に背中を預けて、ヒィヒィ言いながら空気を飲み込む。煙草吸い始めたからかな、体力どっか行ってもうたわ。額に滲み出てきよった汗を手の甲で拭って、スーツのポケットに入れとったスマホを取り出す。十七時三十四分。夏に向かって日暮れが遠くなり始めて、汗で張り付くシャツに眉を寄せる。
オオサカで彼女にはめちゃくちゃお世話になったから、こない失礼な態度は取りたくなかったんが本心やけど。気まずい言うか、何ちゅーか。はあ、と思わず溜め息をひとつ。
「いや油断し過ぎちゃいます?」
「ヒョエエ!」
マジで飛び上がった。心臓ギュウてなってもたやんけ!
全身黒で固めたスタッフの装いの彼女が、俺があまりにビビり散らかして腰抜かしたんを見て、涙が出るまで笑っとった。白い歯が眩しい。
軽やかな笑い声は大きい訳でもないのに、スタッフのガヤに紛れてもちゃんと聞き取れたんよな。
「もうドッキリ仕掛けられても平気なんちゃいます?」
ちゃうやん、こんなんドッキリになる訳ないやん。正真正銘、本気で驚いたリアクションを笑ってもらえたんはありがたいねんけど、ああもう。俺がドッキリ企画あんまし得意やないことまで覚えてくれてるん何なん?
嬉しいやら恥ずかしいやら、頬に熱が溜まり始めたのを自覚する。零した吐息が上擦って、筋トレでもしやなあかんかなとか考える俺を他所に、彼女は黒のスニーカーで一歩踏み込んできた。
「ご無沙汰してます白膠木さん、こんなとこでお会いするとは」
「ア、アアー…………うん」
歯切れの悪すぎる返事に自分でもウワーて思た。思春期の中学生か。こんなん放送事故やん。彼女が小脇に抱えたカメラのレンズは蓋してあるから、別に何も問題はないねんけど。
俺の視線にいち早く気付いた彼女は、流石にお休み中の人撮るようなことはせえへんですよ、と眉尻を下げた。思わず瞬きを繰り返す。
「……ごめんなさい、めちゃくちゃ久々にお見掛けして嬉しなってもて、つい」
「や、それはええんやけど……」
ああせや、懇切丁寧で素直に言葉を紡ぐひとやった。彼女からの信頼を裏切ったような心地になって、俺は少し俯く。
トウキョウで白膠木簓に遭遇、とか言うて撮られるんをちょっと覚悟した俺を、きちんとフォローしてくれる手厚さ。コンビを解散した時かて、彼女は根掘り葉掘り聞いてくることもなく、お疲れさんでした、と一言。
俺がちょっと体調無理して舞台に上がった時も、楽屋にこそっと栄養ドリンクとかホットアイマスクとかの差し入れ置いてってくれとった。手書きのメモには名前もなく、ただ『無理厳禁』と走り書きがあるだけで。
「ロケ終わって解散したとこやったんです」
フラットな声で彼女は告げた。町歩き番組でよお使われとる、割かし小型のカメラやなと思とったら正解やったみたいや。
ビデオエンジニアが正式な肩書きやて言うとったのに、数年でテレビカメラマンに進化したらしい。ちっちゃい頃からの夢を叶えた彼女は、ほんの少し誇らしげに黒の機体を撫で、隣でカメラを分解して梱包して、これまた黒のカバンに手際良くなおし始めた。
「青のスーツもよう似合うてはりますね」
邪気のない笑みがこちらに向く。次のMCん時は、あの大御所さんから話振りましょね、と言うてくれた時と変わらん温度。彼女の周りは不思議と空気が凪いどって、気合い入れる前の一瞬、めっちゃええ感じに肩の力を抜いてくれるんよな。
「ほんま? おおきに」
「ちょい痩せました?」
「ええ? 体重計乗ってへんから分からんなあ」
そうですか、と返す彼女の瞳は緩やかな弧を描く。それ以上の追求はない。距離の詰め方はほんまに見習いたいくらいや。どこで勉強しはったん、なんて聞いても「何のことですか?」言うてはぐらかされるんやろけどな。
カバンを抱え直した彼女が立ち上がり、こちらに手を差し伸べてきて、俺は固まった。シャツから覗く腕は少し日焼けしとって、カメラマンとしてあっちゃこっちゃ外で活躍しとるんやろなあ。えっ?
「脅かしたお詫びにフラペでも奢りますよ」
冷たいの飲んで暑いの吹っ飛ばさんとね、と彼女は何でもないような顔をして俺の手を掴んだ。ぐいっと引っ張り上げられて、むずかる胸の辺りをあんま意識せんようにしながら、足の裏に力を入れる。
今更取り繕うても全部見透かされてるしええか、と開き直ることにした。
「え、ほんま? ほなメロンの奴!」
「クリームソーダ博士的に、ソーダ要素なくてええんですか?」
「ジャンル別枠やもん!」
はよ行こ、と今度は俺が彼女の手を引っ張って、ずいずい道を切り開く。オオサカおった時では考えられへん行動やけど、ええねんこれで。ようやっと答えが分かったとこや。
駅前まで戻れば確か店舗あったよな、と脳内で地図を広げていると、彼女の指先がそっと俺のに寄り添った。
「白膠木さん、指長いなあてずっと思てました」
「そお?」
「扇子持つとよお画面に映えるんですよ」
急に褒められてまともに打ち返されへん俺を他所に、彼女は言葉を続ける。バラエティ専門のカメラマンになったんですよ、念願叶いました。夕暮れの中、隣に並んだ彼女の横顔を見て、俺は。
「また一緒にお仕事できるん、楽しみに待ってます」
────他人任せの希望に縋るとか、白膠木簓のやることやない。
モノクロのオックスフォードで地面を蹴る。彼女はけらけら笑って、汗でべたべたになるん分かってんのにこちらを振り解くことなくそのまんま走ってくれる。
「白膠木さん、フラペは逃げませんよ!」
「期間限定は逃げ足速いやん!」
「まあそれはそうですけど! ロケちゃうんやから目的物まで走らんでええんですよ!」
「楽しいからええねん!」
「そら何より!」
俺、追っ掛ける方が好きやねん。知っとったんやったら、ほんま敵わんなあ。