雨粒が地面を強く叩き始め、やむを得ず演習を中断した。くのたま達を長屋へ戻し、この短時間で水分を吸って随分と重くなった頭巾を外に向かって絞る。手を伝ってばたばたと水滴が流れ落ちていく。
予期せぬ通り雨、暫くすれば暗い雲も途切れるだろうが、彼女達の集中力はもう戻ってこないだろう。長屋からは既に賑やかな声が上がっている。
じきに昼休みだ。各部屋を回り、他の迷惑にならぬようお喋りは控え目にと念押しすれば、それぞれ破顔して素直な返事があった。まあ、次回の演習に残りの項目を混ぜ込んでしまえば何とでもなる。
濡れ鼠になった衣を部屋干しの刑に処し、着替えてから職員室へ向かう。山本先生は在席中だったはずだ。簡単に報告を済ませてしまおう。
廊下を進んであと数秒で着くというところで、職員室から鶯色の忍び装束を纏った青年が出てきた。彼は切れ長の目を真ん丸にさせてから、礼儀正しくこちらに腰を折る。山田先生のご子息、売れっ子フリー忍者の利吉くんである。
「先生、ご無沙汰しています」
ぱっと顔を上げた彼は、山田先生の洗濯物を纏めている風呂敷を片手に「御用事が終わられたら、ランチご一緒して良いですか」とわたしの隣へ歩を進める。良いですか、なんて語尾を僅かに上げながら、形ばかりの許可を求める言葉を一方的にわたしの耳にねじ込んでくるところは、何年経っても変わらないようだ。
「構いませんよ。ただ、土井先生との先約があるので、同席は一声かけておきますね」
喜ぶだろうと思って同僚の名を挙げると、彼は整った薄いくちびるを一度へにょっと曲げた。あれ、と思った次の瞬間には、彼は口角を持ち上げ直している。想像の範疇からは少し外れた反応だったが、別に間違った提案をしたわけでもないだろう。
「分かりました。なるべく早くお願いしますね」
眉尻を下げる彼の懇願には、忍たまとくのたまから囲まれる前にきちんと来てくださいね、という副音声が付随していた。生徒達に完全包囲されてなかなか出発できない様子はよく見かける。了承し、わたしは職員室に足を踏み入れた。
食後のお茶を啜りながら、生徒のいなくなった食堂の卓を囲み、半分は雑談を交えながら今後の授業計画の見直しを行う。同い年の土井先生とふたり、教職に就いてから定期的に繰り返している作業だった。
学年や組によって授業の進捗具合が全く異なるため、演習が重ならないか、学園内の人数は適切か等、都度の確認が必要だ。学園そのものは平和だが、周囲の環境によっては悠長なことを言っていられない事態になる場合もある。わたしと土井先生の担当外の学年も含め、全体の調整は大変だが、重要な業務だ。
隣席の土井先生と計画表に朱を入れつつ、正面に座っている利吉くんから学園近辺の情報を提供してもらう。彼も話せる範囲ではあるが、十分に協力的な姿勢を見せてくれるので大変にありがたい。時々は守秘義務に引っ掛かるのか、細部を誤魔化す振る舞いが見受けられるものの、その点は自分の足で確認すれば良いだけだ。特に気がかりだったスッポンタケ、トフンタケ付近の情勢が何となく分かったので、準備が楽になった。
話が一段落したので、お礼も兼ねて自室から持参した羊羹を取り出すと、利吉くんの口許が綻んだ。彼にはかなりの量の情報を喋ってもらった。その対価である。
「美味しそうですね。どちらの店の?」
「何て名前でしたっけ、土井先生」
「昨日行ったのに忘れちゃったんですか?」
「場所は覚えてるんですけどね。金楽寺を越えて、キノコ村と園田村の境の……」
わたしの浅い記憶力にズッコケる土井先生と、またもや口をへの字にした利吉くんの視線に刺され、閉口を選んだ。
「……おふたりで買いに行かれたんですか」
何やら少し棘の見え隠れする声音である。彼は本当の兄のように土井先生を慕っているから、仕方ない。今からその様子では、土井先生が嫁を迎えることになったら耐え切れないのではないだろうか。少し心配である。
「二年生が学園長のお使いで迷子になって、迎えに行くついでに寄ったんですよ」
「私は乱きりしんが迷子になってたのを保護していたら、偶然合流して」
「それは……随分大所帯でしたね」
苦く笑った利吉くんは、特に乱太郎・きり丸・しんべヱの引き起こす騒動に巻き込まれがちなので、土井先生の苦労もよく理解できることだろう。胃の辺りを手で押さえる同僚に同情の眼差しがふたつ。
食堂のおばちゃんに小皿と黒文字を出してもらい、羊羹を切り分ける。お礼であるので利吉くんの皿に多めに盛ると、当然のように固辞しようとするので、彼の羊羹を半分に分断してから黒文字を刺して、そのまま口に突っ込んでやった。優秀な彼が先輩に逆らえず、目を白黒させている様子は見ていて愉快である。
隣から「流石にそれは可哀想じゃないか」という視線は感じるが、弱肉強食の世界であるので、言葉での指摘はなかった。土井先生は自分に被害が出なければ、かなり適当なところがある。
頬を少し赤らめて恥ずかしそうに羊羹をもぐもぐしている利吉くんは、くのたま達には見せない方が良いだろうと思う。学園から永遠に脱出できなくなりそうだ。
自分の分の羊羹を食み、湯呑みに手を伸ばす。上品な甘さが舌の上で広がり、また今度買いに行こうと決意する。冷めてしまった茶を喉に流し込んでいると、咀嚼を完了した利吉くんが咳払いをしてから、わたしの名を呼んだ。
「今回、結構踏み込んで情報提供しましたよね? 今度こそ、私の仕事にも御協力をお願いしたいのですが……」
利吉くんの双眸は、真っ直ぐこちらを見据えて曲がりそうにない。
とは言え、彼に任務の手伝いを依頼されるのは、もう数えるのを止めた程度に繰り返された事象だ。今回も当然、断るつもりでいる。
土井先生はすっかり傍観に徹することにしたらしく、羊羹に舌鼓を打ちつつ、ずるずると茶を啜っている。穏やかな振る舞いで勘違いしがちだが、割と冷酷な同僚である。
「前もおっしゃっていた、夫婦役の任務ですよね? こちらも授業がありますので……」
「先程練られていた計画表では、十日後から三日間は空いておられるようでしたが」
彼の前で予定を共有してしまったのが裏目に出た。逃げ道を仁王立ちで塞ぐ彼に、わたしは肩を竦めてみせる。
「わたしも休日は欲しいですよ」
「報酬、かなり弾みますよ」
ぐっと奥歯を噛む。人畜無害な笑顔を貼り付けている利吉くんであるが、その分、簡単な任務ではない。報酬は魅力的だが、休日返上で取り組むには些か骨が折れるに違いないのだ。頷く方が愚かである。
「いや、そもそもわたしではちょっと歳が離れているので……」
「何の問題もありませんよ。こちらも条件に合う人を見付けるのにかなり苦労しているんです」
条件ねえ。彼は緻密に計画を進めようとする一方で、戦闘が混じるとまだ少し甘いところがある。こちらの実力を評価してくれているということは、翻って、単純に負担が増すということである。
あと、これは私観だが、言いたいので言っておこう。
「利吉くん、ちょっと一味違うところありますもんね。くのたまはその辺り敏感ですし」
「私は至って普通ですよ。くのたまでは負担が大きいですし、先生が適任だと思ってお声掛けしているんです。穿った見方をしないでください」
「ほら、負担大きいんでしょう。疲れる任務はご遠慮したいですね」
「先生なら何の問題もありませんよ」
利吉くん、こうなるとあまり人の話を聞かなくなるんだよなあ。何処から湧いてくるのか分からないわたしへの信頼を盾に、ずんずんと陣地を広げてくる。
潜入捜査の類ではあろうが、撤退時の交戦が見込まれる任務に違いない。ただの情報収集で済むならくのたま上級生を差し出せば十分なのだ。わたしの生徒達は姦しいが優秀である。
「もうこの交渉も繰り返すのに飽きたでしょう? そろそろ頷いていただけませんか」
彼の整った顔立ちを活かせば、フリーのくのいちがいくらでも釣れるであろうに。自ら迫ってきておいて「飽きたでしょう」とは、強気にも程がある。彼がわたしに拘る理由が今ひとつ理解できないので、首を縦には振りたくない。
「後任の育成も重要なので、卒業生を紹介しますよ」
「一回くらい良いじゃないですか!」
「自分の身がかわいいのでね」
「その実力で何をおっしゃっているのか……」
大袈裟に溜め息を吐く利吉くんを眺めながら、湯呑みの底の水分を飲み込む。このままだらだらと会話を続けていても、こちらが不利になるだけだ。
腰を上げようとしたわたしの手を唐突に握り込んで、利吉くんが俯いた。
前髪でその表情は隠れてしまって、春にしては冷え切った指先が手の甲を這う。別に彼に危害を加えられることはないだろうという慢心が招いた結果である。同僚は茶を飲みながら薄ら笑いを隠しているようだった。
「どうすれば私を認めてくださるのですか」
僅か震えた声音を認めて、ひっそりと動揺する。ここで哀車の術を披露されても、認めるも何も、こちらはただ戸惑うことしかできないのだが。
「全く水準に達していないということですか」
「どの水準でしょうか」
「先生の理想の」
「はあ」
「もっと真剣に考えてくださいよ」
顔を上げた利吉くんの瞳は少しだけ潤んでいる。俯いていたのはこれの準備か。強く握り込んでくる手は、わたしの体温がじわじわと移っているのが分かる。
真面目に考察しろと言われても、利吉くんは自分が楽したくてわたしを指名しているとしか思えない。わたしも一時期はフリーで仕事をしていたので気持ちは分かるが、今は学園に所属する身である。理想を思い描くのであれば、やはり教育的機会を自らで消費するのは勿体ないという結論に帰結する。
「利吉くんが抽象的な物言いをするからでは?」
「そうではなく、ほら、あるでしょう、例えば……」
「そうそう、具体的にお願いします」
「た、例えば……」
利吉くんは口許をもにゃもにゃさせて、終いには完全に閉じてしまった。耳の縁が紅葉色に染まっているので、何やら照れくさいのかもしれない。
七つ下の彼はプロの忍者と言えど、身内のいる学園内ではまだ僅かに残る少年の残り香をこうして漂わせるのだ。
理想を真剣に語るうちは、まだまだ青い。形振り構わぬようになってほしいとは言わないが、いまのままでいてほしいと願うのも傲慢なのだろう。
「利吉くんがもっと経験を積んで、わたしを楽させてくれるようになったら考えますよ」
今度こそ席を立ち、空っぽになった皿と湯呑みを回収する。
ここまでわたしに拘るようになってしまったのは、やはり山田先生、土井先生の次に出会った忍術学園教師がわたしだったからなのか。お使いで学園にやって来た素直な少年を構い過ぎたからなのか。
悔しそうに歯噛みして渋る利吉くんの背を押して、学園長に帰りの挨拶をするよう促す。肩を落とした彼は少し哀れであるが、かなり諦めが悪いことを知っている。暫くすれば、また同じ調子で挑んでくることであろう。
利吉くんの顔がよいので、ああいうの心臓に悪いんだよなあ、という素直な感想は、教師の仮面の奥底で丁寧に焼いておく。若人を導く職に就いて数年、わたしはきちんと振る舞えるようにはなっているだろうが、油断は身を滅ぼす。
先程握られた手に意識を向けないようにしながら、ひとつだけ溜め息を吐いた。学園長の部屋までの廊下を進む利吉くんの背中が、前より少し広くなっているのが分かって、わたしはよく頑張ったなあと自画自賛しておく。誰も褒めてくれないのだ。
学園長の長話を聞き終え、利吉くんはわたしに恨みがましい視線を送ってから学園を去った。職員室に戻る道すがら、ずっと置物のようになっていた土井先生は半笑いでこちらを見やるので腹立たしい。
「そもそも土井先生が女装してお手伝いしてくださったら、わたしに話は降りてこないと思うのですが」
「いやあ、無理じゃないかな」
彼、筋金入りの負けず嫌いだし、と同僚が笑い飛ばした。暗にわたしが負けるまで続くのだと言われて、暗雲の隙間から覗く太陽光で全部焼き切れてしまえば良いのにと思った。