「さん」
名前を呼べば、いっそ大袈裟なまでに肩が跳ねた。けれどそれは、演技でもなんでもなく彼女にとっての自然な反応であることを俺は知っている。
振り向いたさんと、だけど合わない視線。俺の胸の辺りをうろうろとさ迷うそれは、戸惑いと不安を十二分に主張していた。
可哀想な程に身をこわばらせて、助けを求めるように口をぱくぱくと開閉させる、その様子はやはりとても愛らしくていつまでも眺めていたい気持ちにさせられるが、同時に今彼女が心の中で助けを求めているであろう幼馴染みのあの人を思い起こさせてイラッとした。
(本当に、いつもいつも俺の邪魔をしてくれる)
そも、あの人が過保護過ぎたのがいけないのだ。彼女を大切に大切に、自らの手の内に囲って、もう一人の幼馴染み以外との接触を断たせて、一人では生きていけないように、自分以外の人間など頼れないように、少しずつ、心を侵して。
それは最早優しさでも親愛からでもない。そしてそれに、彼女は未だ気付いていない。
「さん、聞いてほしいことがある」
けれど彼女はあの人の愛玩動物でもなければ娘でもない。まあ、あの人は最初からそんな目でさんを見てはいないだろうが。徹頭徹尾自分の恋情を貫くためだけに彼女の世界を閉ざしたあの人は、結局のところ彼女の気持ちだけはどうにもできなかったのだろう。推し量るのみで完全に掌握はできないそれがどこに行くのかが怖いから、あの人はさんをどこまでも甘やかに毒していく。
「何、でしょう……赤葦くん」
ならばいい加減あの人は知るべきなのだ。いや、認めるべきなのだ。
「俺は、さんのことが好きだ」
大きく見開かれる目。驚愕に彩られた瞳。
俺が想いを寄せていることなど、夢にも思わなかったのだろう。それについてさんを責める気持ちなど微塵もない。彼女をそう育てたのはあの人だ。そうなるように、あの人が仕向けた。
「それは、」
「言っておくけど、冗談でも罰ゲームでもドッキリでもないし、友達としてとかじゃなくて、異性としてさんが好きだって意味だから」
動揺をなんとか抑えこんで口を開いたさんの次の言葉が容易に予測できたために、俺は先手を打って逃げ道を塞ぐ。何故その返しが予想できたかということは割愛しておく。一言でいうならばどこまでもあの人の教育は俺みたいな男を彼女に寄せ付けないためにあったという他ないだろう。
いい加減、そう、いい加減にあの人は認めるべきなんだ。
彼女の世界は、彼女自身の意思によって開かれていくものだと。心は自ずから動くものだと。
「ねえ、好きだよ、さん」
だからその目を覆う幼馴染みの手を退けて俺を見てほしい。
君の世界には君と幼馴染みしかいないだなんて、そんなことは決してないのだ。
(ねえ、そうでしょう)
黒尾さん。
150508