さん」
 昨日と同じように、声をかけた途端に跳ね上がる肩。それは純粋に吃驚しただけだからではないと、昨日の今日で俺に見つかってしまったからだと、そう自惚れるくらいは許されると思うんだ。
「今日も会えて嬉しいよ、さん。こんばんは」
「え、あ……こ、こんばんは……」
 視線をうろうろとさ迷わせながら、消え入りそうな声で挨拶をするさん。その表情は今すぐここから逃げ出したいと雄弁に語っている。けれど実際にそれを行動に移すのも俺に悪いと思って律儀にこの場に留まるその姿がいじらしくて、もっと困らせてやりたいと思ってしまう。
まあ、あまり追い詰めすぎると逃げられるのだけれど。それこそ昨日のように。
「今日も予備校? 勉強熱心だね」
「あ、いえ……赤葦、くん、も部活、お疲れさまです……」
 音駒高校に通うさんと梟谷学園に通う俺との間に接点はない。さんが帰宅部とあれば尚更だ。むしろそういった誰かとの接点を少しでも削ぎ落とすために、黒尾さんが何だかんだと理由をつけて彼女の課外活動への参加を制限しているのだろう。
同じ学校ですらない俺がこうしてさんと話せているのは、偏に部活帰りの俺と予備校帰りのさんが乗る電車が一緒だからで。加えて梟谷から駅までの道の途中に予備校があるから、こうして駅までの帰り道さんと肩を並べて歩くことができる。
きっとこればかりは如何に黒尾さんがネチネチと策を巡らせようとどうにもならない、予想だにもしない偶然だ。
「そういえば俺の学校、もうすぐ中間なんだけど、さんのところは?」
「わ、私のところも、再来週……」
「やっぱりどこもテストの時期は似たようなもんだね。でもさんなら余裕でしょ」
「そ、んなこと、ないよ」
 俺が昨日の告白などなかったように平然と世間話を振るものだから、最初は戸惑いに強ばっていた表情も段々と安堵に緩んでいく。ああ、今この場でもう一度好きだと言ったなら、今度はどんな表情を見せてくれるだろうか。
逃げられるほど追い詰める気もないが、困らせてやりたいと思う気持ちを自制する気もさらさらない。存分に俺に困って戸惑ってくれればいい。そうして俺を意識して、黒尾さんが狭めたその世界を俺でいっぱいにして塗り替えて。
困った顔も不安そうな顔も戸惑った顔も、その表情は全部俺が作ったんだと思うと胸の奥がゾクゾクする 。勿論、笑った顔は最高に可愛いと思うし、照れた顔を見れば抱きしめたいと思う。
けれどとにかく今は、俺のことでいっぱいいっぱいになってほしいのだ。黒尾さんの言葉なんて思い出せないくらいテンパってほしいのだ。黒尾さんの作った狭い狭いさんの世界を、少しずつ壊して再構築して塗り替えて、そうしてさんを侵略していくのは、なんというかものすごく――興奮した。
「ねえ、さん」
「な、なんでしょう」
 改まって呼びかければ途端に強ばる表情に、また愛しさが募る。
「昨日のことなんだけど」
 立ち止まって、向き合うように促せば、おろおろしながらもきちんと俺を向く、その姿が可愛らしい。
俺よりもだいぶ低い位置にあるその目をじっと見詰めれば、時折逸らしつつもちゃんと視線を合わせようとするその無謀さが愛らしい。
もうさんの一挙手一投足が可愛過ぎて、どうにかなってしまいたい。
「何度逃げてくれてもいいけど、返事は必ずくれるよね?」
 かちん、と音が出そうなほど見事に固まったさんに、思わず頬が緩む。
それから暫くの沈黙を挟んで、俺の言葉を漸く嚥下したらしいさんは脱兎のごとく駆け出して、あまりに予想通りの展開に元々上がっていた口角が更に吊り上がって堪えきれない笑い声が漏れた。
「待って、さん」
 その後ろ姿を見送るのも楽しいけれど、やっぱり一緒に帰りたいから。
俺はずれかかっていたエナメルバッグをしっかりとかけ直すと、さんを追うべくアスファルトを蹴った。
 
150508
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