「」
いつもなら、俺が名前を呼べば何? と間を置かずに鈴を転がすような声で返事を寄こすのに、今日は俺が呼んだことにさえ気付かない程にぼうっとしている。
何かあったのかとか、具合が悪いのかとか、心配する気持ちと同じくらい、俺に気付かないことへの苛立ちが頭の中を埋め尽くす。
「……ちゃんはそんなにボーッとしちゃって、どうしたのかなァ? さては恋煩いか?」
けれどそんな独り善がりな苛立ちをまさかにぶつけるわけにもいかず、わざとらしいおちゃらけた口調で再びに呼びかけながら、その細い肩を掴んだ。
途端、びくっと跳ね上がるそれに、思わず眉間に皺が寄る。俺だと気付いていたなら強ばるはずのない薄い肩。誰の、いったい誰のことを考えていた。
「誰だ」
「……クロ?」
「誰のこと考えてたんだ、?」
「えっ……、」
「今度は何処のどいつが、俺達の可愛いに手ェ出そうとしやがったんだ?」
こうして、が一人で考え込む姿を見るのはあまり多くはない。そして、そういう時は俺にとって歓迎できない事態なことが多い。
人間関係にしろ成績のことにしろ悩みがあれば即俺に相談するが一人で思いを巡らせている時は、大抵異性関係の時で。
基本的に異性が自分に好意を寄せるなんて有り得ないと、そう思っているは誰に告白されようが粉をかけられようが、冗談か何かだと流してしまうためさして動揺しないしすぐ忘れてしまう。
けれど昔一度だけこいつが自分から誰かを好きになった時の姿がチラつく。そう、あの時も確かこうだった。こうしてぼんやりと考え込み、あまつさえ俺に対してまで無意識の内とはいえ警戒心を発露させて。
あの時は持てる手段全てを使っての柔らかな初恋を叩き壊した。そしてそれはそれは優しくの傷心を慰めた。その傷口に毒を塗り込んで、もう二度と誰かを好きになんてならないように、じわじわと思考回路を侵して歪めて。
けれどまたはこうして俺に何も言わずに考え込んでいる。から好きになったわけではないだろう。俺があれほど恋心など抱かないよう、繰り返し繰り返しその思考回路をゆっくりと歪めてやったんだから。
ならば告白されたのか。それもいつものように冗談だと思って流すこともないなら、本気だと理解しているということは、俺の刷り込みを超えてこいつの心に迫った野郎がいると言う意味に他ならない。それを、看過できる訳もなく。
「なァ、告白だよな? 好きだとか何だとか言われたんだろ?」
「う、うん、でも、なんでわかったの」
「そりゃお前、のことで俺が解らねぇことなんてあってたまるかよ」
「……クロは、すごいね」
そう、ぽつりと呟いて俯いてしまったの頭を優しく抱き抱える、常人が聞けば大抵気持ち悪いと返ってくるであろう俺の言葉に対して賛辞を寄越したは、決して愚かなわけでも世間ズレしているわけでもない。俺がそう教えたからだ。の常識を、感覚を、感性を、世界を、「幼馴染みのお兄ちゃん」の立場を目一杯に活用して築き上げた。俺の手から離れていくことのないように。それを、今更何処かの誰かになんて取られてたまるものか。
の耳元で先程の質問を繰り返す。それで、俺のに手を出した不届き者は一体誰なのかな?
「…………、」
この前もその前も、告白された時相手の名前を聞けばすぐに佐藤くんだの鈴木くんだの即答で答えが返ってきたから、今回もすぐに答えるだろうと、そう思っていたのに。
「あ、」
「あ?」
言いよどむように口を開いて、一音だけ発してまた口を噤む。
聞き返せばははっとしたように肩を震わせた。
「……名前、聞くの忘れた」
「……まあ、名前なんて知らなくて良いけどな」
本当は、『オハナシ』するためにも名前とクラスくらいは知っておきたかったのだが。この前もその前も、そうして佐藤くんだか伊藤くんだかの無謀な恋心を潰してやったばかりだ。
けれどに名前さえ認識されないのならその方がいい。俺以外にに想いを寄せる人間がの世界に存在することなど認めない。
ただ、逡巡したその間がどうにも引っかかる。
俺に従順なが、少しでも躊躇う様子を見せたのは、本当に名前を知らないからなのか、それとも。
「なあ、見た目はどんなやつだった? 身長はどんくらい? 俺よりイケメン?」
「……、黒髪のクセっ毛で、身長は、クロより低い……たぶん、かっこいいんじゃ、ないかな」
「俺より?」
「もう、クロったら」
俺のふざけた物言いに呆れたように笑うに、嘘をついている様子はない。俺から相手を庇ったわけではないようだ。
名前を知らないのなら、のクラスメイトや予備校の知り合いではないだろう。俺より身長が高いヤツより低いヤツの方が圧倒的に多いが、まあそれなりに顔面偏差値の高いヤツで黒髪のくせ毛、且つに関わりのない人間を探していけば見つからないこともないだろう。
「なァ、俺のがカッコイイだろ」
「うん、クロが世界で一番カッコイイよ」
そう、屈託なく笑うは俺だけのものだ。
「そーだろそーだろ。あ、研磨は? 二番目か?」
「研磨は世界一可愛い、よ」
「ぶっ……お前それ研磨の前で言うなよ」
小さい頃からずっと、俺がこの手を引いてきた。
俺が先頭で、すぐ後ろがで、少し離れたとこから研磨が着いてくる。それが、俺達のずっと変わらない関係。
そっと、の手に自分のそれを合わせて細い指を絡めとる。
「俺にとってはお前が世界一可愛いよ、」
「はいはい……研磨は? 二番目、なの?」
「そりゃお前、研磨は世界一イケメンだろ」
「世界一、はクロじゃなかったの?」
「俺はカッコイイだろ。研磨はイケメン」
「……よく、わからない」
「いーんだよ、それで」
解らなくていいから。
ただ、この繋いだ掌だけ解かずにいてれれば。
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