まるで、別人みたいだと、そうさんは言っていた。そこは、さんの全く知らない世界だった。コートから伝わる熱気、ネット越しにぶつかり合う闘志、そして何より、さんが今まで一度だって見たことのないような黒尾さんと孤爪の表情。
「…………」
「つまらなかった?」
「いえ、すごかった、です」
 どこかぼんやりとしているさんに声をかけると、ハッとしたように目を見開いてふるふると首を横に振る。ギャラリーにいる俺とさんを、音駒のベンチから黒尾さんが底の見えない目でじっと見ていた。
きっと黒尾さんは、今すぐにでもここに駆け上がってきて俺とさんを引き離したいはずだ。タオルに隠れた口元は、ギリギリと鈍い音を立てているに違いない。どうしてここに来ているのか、そうさんに問い質したい気持ちを抑えているのは、主将としての責任感と、孤爪や夜久さんの存在だろう。ちらちらとこちらを見遣る二人の視線には、僅かながら心配そうな色が混ざっていた。
さんは、バレーを見てて楽しかった?」
「……はい、赤葦くんも、すごかったです」
「ありがと、さんにそう言ってもらえて嬉しいよ」
 俺も正直、さんがギャラリーにいるのを見つけた時は二度三度と目を擦った。落ち着かなさげに何度も手すりを握り直すさんの不安げな顔を見上げてぽかんと口を開けていた俺の顔は、大層な間抜け面だったに違いない。知り合いかと木兎さんに訊かれた俺の肩をバシバシと叩いて片想いの相手だと煽り立てた木葉さんには、ちょっとくらい感謝してもいいかなと思う。おかげでこうして、休憩の合間を見てさんの隣に来られているから。
「黒尾さんも孤爪も、すごいと思った?」
「……はい。本当に、知らない人みたいでした」
 十年以上一緒にいた幼馴染み。黒尾さんは少し意地悪で過保護な、兄のような存在で、孤爪は内気で無気力な、ゲーム好きの同級生。それが、コートの中ではチームの大黒柱と脳。真っ赤なユニフォームも、勝利のために粘り強く戦い続ける姿も、さんは一度だって目にしたことはなかったのだ。
「ねえ、さん。黒尾さんと孤爪の二人がさんの世界の全てなんて、そんなことはないよ」
 黒尾さんの世界も、孤爪の世界も、さんだけのものではない。その外へと、広く広がっている。さんの世界だって、二人と完結しているわけではないのだ。黒尾さんが閉ざして来た世界は、開けた二人の世界をさんが目にすることによって亀裂が入ったはずだ。それも、もはや黒尾さんが誤魔化すこともできないような、大きな罅が。
「……告白の返事は、すぐじゃなくていいから」
 ゆっくりと、肩に触れる。その下にある柔らかで華奢な体が、びくりと跳ねた。
「ゆっくり考えて。俺のことだけじゃなくて、自分のこれからのことも、黒尾さんたちのことも」
 それだけ言って、手を離す。ギャラリーを降りる直前まで名残惜しくて見つめていたさんの視線の先は、コートでもネットでも幼馴染みでもない、どこともつかないどこかへと向かっていた。
 
 160709
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