静かに微笑む長兄は、凛としていて優しくて。その大きな掌でよくの頭を撫でてくれた。外で遊ぶことよりも本を読むことが好きなのために、忙しい時間の中でも頻繁にに本を見繕ってくれた。が一つものを覚える度に、聡い子だと褒めてくれた。
快活に笑う次兄は、勇ましくて明るくて。その広い背中にをおぶって駆けてくれた。部屋に閉じこもりがちなを外に連れ出して、時々意地悪もしたけれど、明るい外の楽しさを教えてくれた。の髪に花を挿しては、可愛い子だと笑ってくれた。
大好きだった。大切だった。ずっとずっと、一緒にいられると、信じていた。
「ゆうにいさま、れんにいさま」
白雄に届けるはずだった本は、持ち主を亡くしてしまった本は、あの日白龍に引きずられるようにして助けられたの懐に仕舞われたままだった。白龍の浴びた白雄の血がところどころ染み付いて、おどろおどろしい見た目になってしまったその本を、は寝台の中でぎゅっと抱き締める。
兄二人の遺体をは見せてもらえなかった。にとって白雄たちの躯はこの本だった。大好きな優しい兄たちがもうどこにもいないことなど信じられなくて、は強く強く血塗れの本を抱き締める。最後に見た白雄と白蓮の顔を、思い出せないのが辛かった。
――うそですよね、おかあさま。
白雄たちが死んだと聞いて、到底信じられるわけもなくは玉艶にすがりついた。暗い顔をして俯く白瑛はそっとの頭を撫でたが、その手は白雄のものより余程小さかった。
――ゆうにいさまもれんにいさまも、かえってきますよね? みんな言ってます、おにいさまたちは遠いところに行ったんだって言ってます、おにいさまたちはいつおもどりになるのですか?
の問いかけに耐えきれなくなったように玉艶はを抱き締めた。嗚咽する母の体は柔らかく、硬くて広い白蓮の背中とはまるで違っていた。
に燃え盛る炎の記憶は無い。城に入ってすぐに意識を失い、目が覚めた時にはすべてが終わっていたからだ。の手を握っていた母も、その隣で泣いていた姉も、が目を覚ましたことに泣いて喜んでくれたが、そこにはどの兄の姿もなく。
目を真っ赤にした母や姉に兄の居場所を尋ねれば、返ってきたのは白龍の居場所のみで。憔悴した様子の二人にそれ以上を問うこともはばかられて、は不安を押し殺して口を閉ざした。
それからは寝る間も惜しんで白龍の傍に付き添い、そこにいる人間に時折白雄たちの居場所を尋ねるものの、兄君たちはとても遠いところにいらっしゃるのですよ、と首を振るばかりで。
はずっと待っていた。遠いところにいるという兄が帰ってくるのを。大火傷に苦しむ兄が目を覚ますのを、ずっとずっと。
ほんとうは、わかっていた。遠いところとは生きているが辿り着けない場所なのだと、白雄も白蓮も、父と同じで二度とそこから帰ってはこないのだと、わかっていた。それでも認めたくなくて、またの頭を撫でてくれると信じていたくて、ただ一人そこにいた兄の掌にすがりついた。白龍が目を覚ます頃にはきっと、上の兄二人も帰ってくると信じて、もし怪我をしていたら自分が治すのだと、知ったばかりの自分の力を研鑽して。
それでも、目を覚ました白龍は首を横に振った。兄上たちは身罷られたのだと、もう二度と帰ってこないのだと、の儚い希望を打ち砕いて。泣きついた母も姉も、の望みを肯定してはくれなかった。もうこの世のどこを探しても、二人はいないのだと、認めてしまったは泣いた。目が溶けるほどに泣いても、声が枯れるまで泣いても、大きな掌も硬い胸もを慰めてくれはしなかった。もうこの世界のどこにも、そんなものは存在していなかった。
幼いには政のことなど解らず、ただ母に守られ従うのみだ。身の振り方に頭を悩ます必要が無い分、余計兄の喪失はを強く苛む。白雄たちの死を理解してからずっと、は満足に眠れていなかった。がらんどうな夜が、二人の消えた事実をの眼前に突き付けているようで。は毎日、白雄の本を抱き締めて空しい夜に耐えた。染み付いた血の色に、白雄たちのぬくもりが残っている気がした。
今日もひとり眠れない夜を明かすつもりだったの耳に、こんこんと遠慮がちに扉を叩く音が届く。
「、起きているか?」
囁くような声は、大好きな兄のもので。は慌てて身を起こすと、扉を開けて白龍を招き入れた。
「何かあったのですか? 龍兄様」
「いや……少し眠れなくて」
ちら、との抱えている本に視線をやった白龍は眉間に皺を寄せる。が白龍の姿を痛ましく思っているように、白龍にとっても今のは痛々しくて仕方が無かった。碌に睡眠も取らず、昼は昼で遊ぶこともせずに魔法の勉強に打ち込んで。白龍がを外へ連れ出すのは、いつまた家族を裏切るともしれない玉艶の傍にいさせたくないというのもあるが、それよりも白雄たちの死から目を背けるように一心不乱に勉学に励むを見ていられなかったからだ。塞ぎ込む白龍も、頑ななまでに勤勉さを自身に強いるも、白瑛が心配していることを知っている。玉艶も、に魔法の勉強を勧めはしたし、それを望んだの希望通り魔法の手解きをしてはいるものの、日々憔悴していくを見ては、外に行くことを何度も勧めていた。けれどは、強引に連れ出しでもしない限り、そういった勧めに首を横に振るのだ。
は彼らの死を理解こそはしたものの、受け入れられてはいなかった。未だに白雄たちの手に縋るように遺品となった本を抱き締めているのがいい証拠だ。眠れないなんて嘘だ。本当に眠れないでいるを少しでも兄の死から立ち直らせたくて、白龍はの部屋の扉を叩いた。
「その……一緒に寝てもいいか、」
白龍の申し出に、はぱちぱちと瞬きをする。怖い夢を見た時に、白雄たちの部屋に駆け込んで一緒に寝たこともあったのを思い出して、きゅっと胸元に本を強く抱き寄せた。たくさんの思い出が、優しいはずの記憶の何もかもが、兄の死という残酷な現実に翻って突き刺さる。
これで相手が白瑛や玉艶ならば、は申し訳なさを抱えつつも断っていただろう。の幼い心は、優しさにさえ傷付いてしまうほどに弱り切っていた。けれど、相手は白龍だ。眠れないと言った兄が、の存在を求めている。ならばそれを断る理由がどこにあるだろうか。追憶に痛む心など置き去りにして、は首を縦に振る。
「はい、わたしで良かったら」
「がいいんだ」
間髪入れずにの言葉を訂正した白龍に、は弱々しく微笑んだ。白龍はの手を引いて寝台によじ登る。繋がれていない方の手に抱かれたままの本がやっぱり白龍には面白くなくて、白龍はそれに手を伸ばす。びくっと震えたの、潤んだ瞳には気付かないふりをした。気付いてしまえば、きっと手を止めてしまう。にきちんと前を向かせてやらなければと白龍は思ったから、の涙に痛む心に蓋をした。
「、これは明日俺と一緒に埋めよう。俺とだけの、兄上たちのお墓を作ろう」
これを持っていたままでは、は白雄たちの影を追い続けてしまう。そしていつか、そのまま緩やかに、白龍の手の届かない、白雄たちのところへ行ってしまう気がして。色鮮やかに咲き乱れる花を見せても、からっぽなままだったの瞳。今だってただの美しい石のようだった瞳は、白龍の言った、兄上たちのお墓という言葉にようやく揺らぎを見せた。
「おはか、」
「この本は兄上に返すものなんだろう、だったらいつまでもが持っていてはいけない、わかるな?」
「…………、」
ゆらゆらと揺らぐ海へと溶け出した青は、深い深い悲しみを映していた。白龍の言葉に傷を増やしながらも、それでも絶対的な存在となった白龍に従って震える小さな手が、すっかりみすぼらしくなってしまった本をぎゅっと握り締めて白龍へと差し出す。
「……お兄様は、」
ぽつり、視線と共には本へと呟きを落とした。
「雄兄様は、こんどトラン語をおしえてくれるって約束してくれたんです。蓮兄様は、鳥の巣を見に行こうって、やくそく、」
ぽたり、本に落ちた涙が滲んで広がる。
「やくそく、したのに……っ」
ぼろぼろと、溢れ出した涙を受け止めるように、白龍はを抱き締めた。二人の体に挟まれた本がぐしゃりと音を立てる。可愛い妹をこんなに泣かせる兄が羨ましかった。大切な妹をこんなに泣かせる母が憎かった。小さな掌で、頼りない体で、白龍はを抱き締める。も白龍にすがりつくように抱き返した。の兄と呼べる存在はもう白龍だけになってしまった。白龍も、の唯一の兄であろうと変わった。一人称も口調も変えて、尊敬する兄たちのようになろうと。
「俺が、」
白龍の服からじんわりと広がって胸を濡らす涙が暖かかった。は生きているのだと、この腕の中で生きているのだと、白龍は実感した。
「俺が、にトラン語を教える。鳥だって一緒に見に行こう。俺がいる、。俺がいるから」
「りゅうにいさま……」
「泣いていい、。いつだってどこだって、俺が一緒にいる。一緒にいるから……!」
泣いていい、と言いながら白龍の目からも涙が溢れた。それを白龍は乱暴に拭う。自分は泣いてはいけないのだ。せめての前だけでは。白雄も白蓮も、の前で泣いているところなど見せなかった。泣いているを慰めてやれるのは泣き虫ではなく、頼れる立派な兄の手なのだ、そう決意して、白龍はぐっと涙を呑み込む。やがて泣き疲れて意識を手放したを抱えて、白龍も睡魔に身を委ねた。
翌日の夜、白龍の部屋の扉を叩く音がした。誰だろう、と思いながら扉を開けると、そこに立っていたのはで、白龍は目を瞠る。の腕には本が抱きかかえられていて、一瞬白龍の胸は嫌な鼓動を立てた。けれど白雄の本は昼に二人で埋めたことを思い出して、白龍は動悸を鎮める。
「どうした、」
「その……眠れないので、龍兄様と一緒に寝させてもらえませんか……?」
が差し出した本は、簡単なトラン語で書かれた絵本だった。白龍でもこれくらいなら読めるだろうと、第二皇子となった従兄が勧めたものらしい。だめですか? と見上げるが、立ち止まったままだった脚を動かしてこちらへと歩み寄ってくれたことに、白龍の胸は歓喜に震えた。
「だめなものか、約束はちゃんと守る」
の手を引いて寝台に上ると、の持ってきた本を開く。さっそく読み聞かせてやろうと頁を捲ると、の深い藍色の瞳が白龍の顔をのぞき込んだ。
「じゃあ、あしたは鳥の巣を見につれていってくださいますか?」
「ああ――明後日は何がしたい?」
「あさっては……ええと、雄兄様たちのおはかにおそなえするお花をつみにいきたいです」
「その次の日は?」
「……決まりません……龍兄様は何がしたいですか?」
「そうだな……その日は二人で書庫に行こう、もっとたくさんトラン語の話を探してやるから」
明日、明後日、しあさって。
約束を積み重ねて、微笑み合って、手を繋いで。
深い深い悲しみが、どろりと泥濘む憎しみが、まだ二人に重くのしかかっていた。開き始めた可能性に、独り知ってしまった真実に、耐え切れるわけもなく小さな体は軋んでいた。
それでも互いの存在を感じて眠りに就くこの瞬間、確かに二人は幸せだった。
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