可哀想な子供たちだ、と紅明は溜め息を吐いた。の手をぎゅっと握り締めた白龍が、紅明を真っ直ぐに見上げている。その視線の強さと言ったら、睨まれていると言っても遜色ないほどだ。
「白龍、の手を離してやりなさい。が痛がっていますよ」
紅明がとりあえず一番気がかりなところを指摘すると、白龍はぐるんとへ振り向く。
「痛いのか、」
「い、いえ……いたくないです」
眉を下げて笑うと、ほら見ろと言わんばかりに紅明へ視線を戻した白龍に、まただ、と紅明は思った。ここ最近、は白龍にまったく逆らわなくなった。元から兄姉たちに従順な性格だったが、それでもしたいことがあればしたいと言っていたし、嫌なことは嫌だと口にしていた。紅明の目に映るの指先は、血が止まって白くなってしまっている。あそこまで強く握られて痛くないわけがないのに、は見え透いた嘘を吐く。前までのなら痛いと言っていただろう。白雄たちが、生きていた時のなら。
「……離さなくてもいいですから、力を緩めてやりなさい。そのままではの血が止まって指が使い物にならなくなってしまいますよ」
しゃがみ込んで、白龍の目をの真っ白な指先に向けさせてやる。それでようやくハッとしたように手を握る力を緩めた白龍に、紅明は二度目の溜め息を吐いた。
「も、痛いのなら痛いと言いなさい」
「い、いたくなかったんです、ほんとうに」
紅明の言葉に顔を真っ青にして首を振る、義妹となった従妹は変わってしまった。前までは互いの都合の許す限り紅明の元を訪れて書物を一緒に読んだりしていたのに、最近は白龍の傍を離れない。というよりも、白龍が自分の傍からを離さない。そしてそれをも受容している。
たとえ紅明と一緒に話をしていても、白龍に呼ばれればすぐにそちらへ駆けていってしまうのだ。以前までなら余程の用でもない限り先約を優先していたが、今では何よりも誰よりも白龍を優先する。白龍にを取られて寂しいと、紅覇や紅玉に泣きつかれて紅明が重い腰を上げたのは、そんなに募る不安があったからだ。
に、何故そうも白龍ばかりを優先するのかと訊いたのはついさっきのことだ。その問いに俯いて黙ってしまったに、責めているわけではないのですよ、と紅明は諭した。けれど紅覇や紅玉も、それから私も、少し寂しいと思っているのです、と言えば、は顔を上げた。その泣きそうな顔に紅明が息を呑んだ瞬間に、駆け寄ってきた白龍がを庇うように自分の背に隠した。きっと白龍には紅明がを泣かせているように見えたのだろう。
「を虐めないでください、紅明殿」
「そんなことも、ありましたね……」
の去ってしまった部屋で、紅明は窓の外を見ながらひとり呟く。結局あの時はどう収拾を着けたのだったか、確か紅炎と白瑛がやって来て、何をしているのかと問いかけて、それから――
あれから何年もの時が経った今も、白龍との関係は根本的なところで全く変わっていない。あれ以後白雄たちの死から緩やかに立ち直るとともに、だんだんと白龍の要求と他人の都合の折り合いをつけることが上手くなっていっただが、それでもどうしようもなくなればは白龍を取るのだ。白龍は白龍で、その視界にが映っていないと片時も安心できないようで、幼少の頃から変わらずにいつもを連れ回している。
今も、紅明と次の戦についての話が終わったあとも他愛ない話に興じていたを、もう必要な話は終わったのでしょう、と連れ出しに来た白龍。その光の無い瞳の鋭さを思い出して、紅明はふう、と息を吐いた。どうにもあの兄妹に関わると、自分は溜め息ばかり吐いている気がしてならない。
見下ろした窓の外を、思考の只中にあった兄妹が歩いていた。ひらり、の服の裾が風を受けて翻る。片手でがその裾を押さえると、反対の手を繋いでいた白龍がくるりとへ振り向いた。
今はもう、白龍は血流が止まる程の強さでの手を握り潰したりはしない。その白くたおやかな小さな掌を、壊れ物を扱うかのようにそっと包んで引いていく。それでも、箍が外れれば白龍は簡単に力加減など忘れてしまうのだろう。そう思わせるだけの危うさが、白龍にはあった。
戦に出ることが許されない白龍と、大火の後しばらくして見出されたその稀有な能力が故に戦場へ度々駆り出される。が戦に行くと聞いてはその度に随伴を請い、そして当然のように却下され城で帰りを待つ白龍の振るう槍にはあまりに過ぎた鋭さがあった。が戦から帰ってくれば数日は四六時中一緒にいて、存在を確かめるように頻繁にに触れていた。が自分の怪我をも完璧に治せるだけの魔法を使えるからいいものの、これが手傷を負って戻ってこようものなら発狂するのではないかと思うほどの心配性である。
妹狂いの皇子、と白龍を揶揄する声もあった。けれどもそれは最近ではあまり聞かない。姉の白瑛と違い非力なを心配するのも仕方の無いことだろう、何しろ白龍は一度を目の前で危うく失いかけているのだ、という同情も、ある。けれどそれよりも、揶揄する誰もが白龍の狂いに恐れを抱いたのだ。揶揄も非難もまるで耳に入っていないかのようにただを一心に愛する白龍に、それを見て艶然と笑う玉艶に、嘲笑っていた誰もが薄ら寒い恐れを抱いた。ひそひそと交わされる中傷を聞いても声を荒らげるどころか無視して、それを素通りして真っ直ぐにのところへと歩を進めて、その頬を撫でてうっそりと笑う白龍。が関わらなければ真面目で優しく勤勉な不遇の皇子である白龍と、に対してあまりに重い愛情を傾ける白龍の落差はいっそ恐ろしいものだった。いつしかここでは、に対する白龍の狂気じみた感情には触れないことが暗黙の了解となっていた。
今やあの兄妹の関係に表立って非難を向ける者はいない。白龍には恐れが、には憐憫と同情が、向けられるのみだった。
「…………」
紅明の視線の先で、摘んだ花をの髪に挿してやる白龍の唇が弧を描いた。頬を赤らめて何事かに言っている白龍も、それにはにかんだ笑みを浮かべて耳まで赤く染めるも、まるで仲睦まじい恋人同士のようだ。微笑ましい兄妹だと言われても、それはそれで納得できる。誰が見ても、白龍とは幸せだ。
けれど、と紅明はが去った部屋を振り返る。はきっとこの部屋にまだいたかったのだと、紅明はそう信じていた。白龍がやってきた時、一瞬消えた表情。部屋を辞する時には本当に残念そうな、申し訳なさそうな顔をしていた。したいことがあっても、惜しく思う気持ちがあっても、白龍と較べる秤にすらかけない。それでもには、したいことも惜しく思うものもあるのだ。
が白龍を大事に思っているのは本当で、何をおいても白龍を優先するのは最早変わらない彼女の生き方なのだろう。それでもは白龍を置いて戦場へと発つ。それが自分の役割だと知っているからだ。すべきことをするのが、自分や、ひいては白龍たちのためになると解っているからだ。兄姉に守られてばかりいることを良しとしないは、役割を求めている。兄の背に隠れずとも生きられる道を。対して、ずっとこのままを自らの背に庇おうとしている白龍。
二人の間には、僅かずつではあるが確かな差異が芽生え始めていた。結局白龍への感情を家族愛以上には濁らせなかったと、年々重過ぎる恋慕を募らせていく白龍。あんなに近くにいるのに、どこまでも噛み合わない感情。罪悪感と感謝と兄弟愛、義務感と依存と庇護欲と情愛。今はただ、の鈍感さと白龍のなけなしの自制によって均衡が保たれているだけだ。
「可哀想に」
このままずっと一緒にいたところで、きっと二人の関係は進展もしなければ後退もしない。ただ危うい均衡状態のまま停滞するだけだ。
は絶対に、白龍に情愛を抱くことはないだろう。情愛を抱くとしたら――むしろ抱いてほしいという希望論に近いが、もしが恋をするとしたら白龍ではない誰かだ。早く、できるだけ早くに、白龍の感情が少しでも澄んでいる内に、は誰かに恋をするべきだ。そしてあの、恋人じみた兄妹関係に終止符を打つべきなのだ。白龍の望むままに関係を受け入れているだって、本当に想う人を見つければ白龍との関係に疑問を持つはずだ。そして、その関係を正そうとするだろう。
(もし、願えるのなら、どうかその時は)
自分が隣にいたいと、思うのは過ぎた願いだろうか。
視線を戻した先で、白龍がの髪に触れる。何度も繰り返し梳くように髪を撫でる白龍に、くすぐったそうに笑う。陽光を受けてきらめく瞳。明るい声が響く庭には、色とりどりの花が咲き乱れている。の手を引いて、白龍は池の方へと駆けてゆく。きっとこの瞬間、彼らは幸せに違いなかった。
妬みかもしれない。嫉みかもしれない。けれども紅明には、似ているようで全く重ならない想いのまま笑い合う二人が、あまりに不幸に見えて仕方が無かった。
150717