の真っ赤になった手を見て、白龍は卒倒しそうになった。血の気の引いた顔でに駆け寄り、掌が擦れないように細心の注意を払いながらその手首を握って手の状態を診る。
「龍兄様、あの、」
「、お前、何を、」
白く柔らかで傷一つ知らなかった掌は、いくつものマメが破れ、皮膚が剥けて血が流れる惨状を白龍の視界に晒していた。目を見開いて言葉を詰まらせる白龍に、は慌てて自分の掌に治癒魔法をかける。ひとまず流れる血は止まったため、掌に残る血を洗い流しに行きたいと思っただったが、怪我が消えたからといって見逃してくれるような白龍ではなく。
「、何をしていたんだ」
血が付いてしまうことも構わずにぎゅっとの掌を包み込んだ白龍は、この頃だんだんと開き始めた身長差でを見下ろす。は僅かな間躊躇っていたが、すぐに諦めたように俯くと兄の求めに応じて口を開いた。
「……剣術を、指南していただいていました」
「お前が、剣を……?」
の腰に差された剣を見て、まだ完全に塞がっていない傷口ごと、白龍はの掌を潰すほどに強く握りしめる。は痛みにきゅっと眉を寄せたが、俯いたのその表情に白龍は気付かない。白龍は白龍で、何故そんなことを、と痛ましげに眉間に皺を寄せた。
「、お前はそんなことをしなくていいんだ。剣など持つな。俺が守ってやるから」
「……でも、」
姉の白瑛は剣を取って武の道へ進んだ。迷宮攻略に行く、という話だって持ち上がっている。白龍だって、槍術の訓練に一日を費やしているのだ。ももし武術を身に付けたなら、否、は武人を目指さなければならない理由があった。官人たちが噂しているのを聞いたのだ、自分のこの生来の能力を、それ故に政略結婚に出せないだろうと、稀有で有用な能力ではあるが持て余すと、嫁げない皇女に一体なんの価値があろうと、声をひそめて言葉を交わしていたのを、は聞いてしまったのだ。自分はこのままではいけない。何らかの方法で身を立てなければならない。厄介者の皇女として、姉や兄、母に迷惑をかけることになるのは嫌だった。二人にだっていつか相応の地位が与えられるだろうに、もしかしたら自分がその妨げになってしまうかもしれない。そう思うと、は剣を取らずにはいられなかった。
「……私、政略結婚に使えないのだそうです。この魔力が悪用される危険があるから、将来他国には嫁がせられないだろうって……私は、お姉様みたいに、武人にならなくては、」
「お前には無理だ。そんなことしなくていい。嫁げないならずっとこの国にいればいい。いや、嫁ぐことなどせずともいいんだ。お前には魔法やその能力があるだろう」
「でも、」
「俺はお前が心配なんだ、」
手を取ってじっと真剣な眼差しでのぞき込まれれば、は何も言えなくなる。
「お前にはその能力がある。まだお前が幼いから向こうからは言ってこないが、紅炎殿たちの遠征について行きたいと申し出れば、きっと許されるだろう。そこで武功を重ねれば将来的には一軍だって任されるようになるかもしれない。だが、傷付いた者を見れば顔を真っ青にして治しに駆け寄るような優しいお前が、誰かを斬ることなどできるのか?」
「それ、は…………」
「将来を不安に思う気持ちも解る。俺や姉上たちのことを案じてくれているのも解る。けれど、。優しいお前が他人を傷付けて身を立てる道を選べば、きっとそれに苦しめられることになる。お前まで戦地に立つと考えると、誰かと殺し合うと考えると、俺は不安で仕方が無いんだ。何よりもお前が傷付いたら、お前までいなくなってしまったら、俺は……」
今度は白龍が俯く。それを見て、はそっと目を閉じた。優しい兄がここまで言うのだから、は剣を捨てるしかないのだろうか。確かに、は他人を斬るのが怖かった。この手が誰かの命を絶つと考えると剣を振る腕が鈍る。指南してくれた青龍にも指摘されたことだ。それでも、その重さを抱えなければ、に生きる道などないのだと、は覚悟を固めなければいけないのだと、こうして一人剣を振っていたのに。
白龍が望まないのなら、その表情が曇ってしまうのなら、は剣を捨てるべきなのだろうか。無力な皇女のままでいるべきなのだろうか。白龍に、迷惑をかけるかもしれないのに? 白龍の望みに沿うことと白龍の立場を考えること、どちらを優先するべきか判らずには弱々しく白龍の手を握り返した。
「弱くていい、弱いままでいてくれ、。剣など持つな」
「龍兄様……」
「何があっても俺がお前を守るから。お前がここにいることを謗る者がいたら、俺が許さないから。お前はそれを、負い目になど思わなくていいから。だから、剣など、武人を目指すなど、やめてくれ」
「……はい、ごめんなさい龍兄様……」
縋るように言い募る白龍に、は躊躇いながらも白龍の望みを取ることにして頷く。そっと未来の可能性のひとつを閉ざしたは、白龍に言われるままに腰に佩いていた剣を差し出した。他に刃物は持っていないかと訊かれ、姉からもらった懐刀があると言えば、それも出すようにと言われる。忙しくなってあまり一緒に過ごせなくなった白瑛が、が自分で身を守れるようにとくれたものだった。
「えっと……、これは瑛姉様が、」
「」
差し出すことを躊躇えば、白龍がの手を握り締めて名前を呼ぶ。色の違う両眼に――もうすっかり慣れてしまった左右で色の異なる瞳の色に、は息を詰まらせた。
「お前は武器など持たなくていいんだ。俺が守るから」
守るから、というよりも、守らせてほしいのだと、懇願しているようだった。掴まれた手はほとんど感覚を無くすほどに強く握り締められている。痛くはないが、熱いと思った。
「」
白龍が、に髪飾りを差し出す。紅玉がヴィネアを得てから、白龍はから簪を全て取り上げた。代わりに渡されたのは、全て布でできた髪飾りや、金属製のものは鋭利な部分のない髪留めなどで。元々髪を結い上げることはあまりなかっただが、おろした髪を束ねることもほとんどなくなった。パイモンの力を得て戦地に赴く白瑛と重なるその髪型を見ると白龍がなんとも言えない顔をするからだ。一部を束ねたり編んだりすることはあるが、大部分はおろしたままになっている。
「ありがとうございます、龍兄様」
受け取った髪飾りは花を模した、淡い色彩が連なっている可憐なつくりで。兄から貰った愛らしい見た目のそれに、は頬を緩めて笑った。白龍も微笑みを浮かべて、のさらさらとした青みがかった黒髪を指で梳いた。の手から一旦髪飾りを取り、耳の横に差してやる。柔らかい布でできた花びらが揺れる様子に、白龍は目を細めた。
「は可愛いな」
白龍の言葉には顔を真っ赤にして俯く。途切れ途切れながらありがとうございます、と言うを見て白龍はくすくすと笑った。
あの日は結局短刀を白龍に差し出した。白瑛には事情を話して謝った。どうやら白瑛は白龍から懐刀を返されたらしく、その時にに万が一があってはいけないから、と白龍を諭してくれたようだが俺がを守ります、との一点張りだったようだ。
『ごめんなさいね、』
白瑛の言葉がふと頭を過ぎる。
『もしかしたら私も、これを返されて少し安心しているのかもしれません……あなたが私のように、剣を、誰かを傷付けるかもしれない道を選ばなくてよかったと、そう思う姉を許してください』
は白瑛の謝罪に首を横に振った。気遣ってくれた白瑛が謝る理由は何もないと。それを見た白瑛は笑ってくれたのだ。まだまだ小さい妹の頭を撫でて、白瑛は笑った。
『あなたは私たちが守りますからね、』
「お前は俺が守るから、」
剣は駄目でもせめて魔法では、と決意しただったが、結局白龍の言うように他者を傷付けることのできないにできるのは治癒魔法を主軸とした八型魔法と、比類ない強度と大きさを誇る防壁魔法のみで。軍略もには向かない。結局自分は軍を任されるような器ではないのだと、落ち込んでいたを励ますように白龍はの頭を撫でた。
「ああ、ここにいたのですか」
白龍の背後から、声が聞こえた。
「紅明お義兄様」
「紅明殿」
は視線の先に、白龍は振り返って挨拶をする。紅明と彼の従者がそこに立っていて、硬い空気に紅明は個人的な用で来たわけではないようだ、とは不思議そうに首を傾げた。白龍も訝しげに紅明を窺っている。
「、あなたに話があります」
「? はい、どういったお話でしょうか?」
不思議そうにしながらも真っ直ぐに紅明を見て問うとは対照的に、白龍はを庇うようにじり、と動く。嫌な予感がすると、白龍は思った。
「、戦に出る気はありませんか」
そして白龍の予感は的中する。息を呑んだの視界に映らないところで、白龍の表情は盛大に歪んだ。最愛の妹が自分の守れないところへと連れ出されてしまう。その危惧に、白龍はの手を掴んでぎゅっと握り締めた。
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