「うっ、……ぐすっ、」
姫様、と兵士の誰かが呟いた。様、と気遣わしげな声が、ぽろぽろと泣くへ呼びかける。
「お休みください、様」
「もう何日も、お眠りになっていないではありませんか」
このままでは倒れてしまう、とを案ずる大きな手には、ぐるぐると包帯が幾重にも巻かれていた。その横にいる兵士は、顔の右半分を包帯で覆っている。彼らは傷の度合いが浅いために手当を後回しにされた者か、時間はかかるが欠損部分を補う魔法をかけてもらい、魔法が自分を癒すのを待っている者たちだった。碌に休むこともなく、忙しなく運び込まれる負傷者に魔法をかけ続ける。たとえ魔力が切れることはなくともその精神疲労は如何ほどだろうと、自分の娘と同じかそれより幼い皇女を、兵士たちは皆案じているのだった。
「だい、じょうぶです、まだ……皆が、戦っているのですから」
ぐし、と涙を拭ったの前に運び込まれたのは、脚を失くし、頬を抉られ、脇腹に大きな穴の開いた重傷の兵士。かろうじて息をしているようなその兵士を即座に癒し、欠けた脚がいずれは戻るようにと魔法をかけたは、次々に運び込まれる凄惨な兵士たちの傷に絶え間なく涙を流していた。それでも、魔法をかける手を止めることはない。傷病者の運ばれる天幕の中では、小さい足が必死に駆け回る音と魔法の光が絶え間なく続いていた。
「わたしが、休んだら……私が諦めたら、死んでしまう人が、いるんです……!」
一秒だって無駄にはできないと、は涙を拭うこともなく天幕の中を走り回る。紅炎たちに連れて来られた、初めての戦。予期せぬ裏切りと奇襲に遭った今回の戦いは、当初の予想を覆し多くの死傷者を出していた。紅明たちはすぐに手を変え戦局は立て直されたが、最初に出た犠牲者はあまりに多く。また、多くの者が決して軽くはない怪我を負った。この天幕に運び込まれる前に、命を落としたものも多くいる。魔法が間に合わず、の目の前で息を引き取ったものもいる。動ける者や近衛の兵士たちに治療の手伝いをしてもらっているものの、やはり傷の深い者は真っ先にの魔法を必要とする。初めてやって来た外で見る、残酷な戦の現実。の涙はどんなに流れても枯れることはなかった。
「姫様、俺はもう……ですから、どうか、御身を……」
「いいえ……いいえ! 許しません、生きることを諦めることだけは、許しません……!」
目の下には濃い疲労の跡が見て取れ、皇女とは思えないほど身なりの乱れたの痛ましい姿に、喋ることすら苦痛になっている様子の兵士は自分はいいから休んでほしいと首を振る。けれどはぎゅっと唇を噛み締め、内臓まで見えているその腹の傷に手を翳した。
「助けます、絶対、助けますから……! だから……!」
初めての戦に不安がるに、お菓子をくれた兵士。紅炎は素晴らしい将軍なのだと、誇らしげに武勇伝を聞かせてくれた兵士。遠征の道中で、の知らない花や鳥の名前を教えてくれた兵士。不敬になってしまうから内緒だと言いつつも、高い高いをしてくれたお調子者の兵士。皆、に優しくしてくれた。会ったばかりの者たちでも、大好きだった。大切な、煌の国民だった。誰一人失うわけにはいかないと、は泣く。皆が傷付いていくのが悲しくて、でも泣いている間にも救えるはずの命はこぼれ落ちていくのだ。
「お義兄様たちが、すぐに戦を終わらせるとおっしゃったんです、だから後少し、後少し頑張りますから……!」
早馬で届けられた、義兄たちからの伝言。紅炎たちなら、きっと成し遂げてくれる。がそう信じているように、紅炎たちもを信じてくれているのだ。任せたと、短い一言はをひとりの人間として認めていた。こんなことになってすまないとは、決して言わない。が、そんな謝罪を必要としないことを知っている。だからはその信に応えるのだ。の大好きな、煌の民がこれ以上一人だって、失われることのないように。
「…………」
を休ませようとしていた兵士たちは、皆黙々とそれぞれに動き始める。運び込まれる負傷者に優先順位の印をつけていく者、軽傷者の手当を始める者、動けるようになった者を他の天幕に移す者。まだ幼いのに、目にした地獄の端に既に耐え切れないほど泣いているのに、それでも目の前の死と生の狭間から目を背けない。ただひたすらに、自分にできる全てを尽くす。それさえできないのなら自分がここにいる意味は無いのだと、自身に価値は無いのだと、悲愴なまでの決意をその背中は語っていた。
「ひめさま、」
下半身を失い、最早魔法をかけても気休めにしかならない、死を待つだけの兵士。自分の無力に表情を歪めたに、その兵士は微笑んだ。
「最後にあなたにお目にかかれて、よかった」
命を捧げた国の姫に、惜しまれて涙を受けて逝くことの、なんと幸せなことだろう。満ち足りた顔で笑った兵士の手から、ルフが飛び立つ。ぐっと息を飲み込んだは、涙の流れるままに次の負傷者へと駆け寄るのだった。
「……よく、頑張ってくれました」
戦局が落ち着き、紅明が後方支援であるの元を訪れることができるほどに余裕が生まれ。長いようで短い数日の間に、戦の惨禍を嫌というほど目にした義妹。かたかたと震える小さな体を、紅明は優しく抱き締めた。
「皆、あなたを讃えていますよ。第九皇女、練は戦場に舞い降りた天使だと」
「…………」
ふるふると、首を横に振る。その顔を上げさせれば、泣き腫らして真っ赤になった瞼の間に、また零れそうなほどの涙を溜めていて。
「わたし、」
もっと助けられたはずだった。あんな満足げに死んでいくより、みっともなく泣き喚いてでも生にしがみついて欲しかった。
これは自分たちの落ち度だと、紅明はの背中をあやすようにぽんぽんと叩く。本来なら、ここまで大きくなる戦のはずではなかった。負傷者が出たとしても軽傷者が数十人程度のはずで。につけた者は気配りが細やかだったり気さくな性情だったりで、は今回穏やかに外の世界を楽しめるはずだったのだ。そのはずが、紅明の失策のせいで二度と消えないかもしれない恐怖を植え付けた。治しても治してもなお減らない負傷者。城の中では滅多に見ないような、凄惨な傷。目の前で失われていく、命。血と鉄と、死の匂い。今まで優しいものに囲われて生きていたには、あまりに過酷な現実。けれど可愛い末の妹は、あの地獄の中で立ち上がってみせたのだ。白雄の面影を強く残すその瞳を、絶望に曇らせることなく。
「、亡くなった者の無念に寄り添うあなたの優しさは、尊いものです。ですが、救われた者の歓びに、耳を塞いではいけません」
ぐすぐすと泣くの頬を両手で挟み込み、紅明は静かにを諭す。失ったものばかりに囚われて、失わなかったものを忘れてはいけないと。
「誇りなさい、。あなたは煌帝国を救いました。その小さな手で、数え切れないほどの命をこの世に繋ぎ止めました」
兵士たちから預かった歪な花束を、紅明はに差し出す。種類も長さもバラバラなそれは、に救われた者たちが戦火の跡から集めてきたものだ。震える手でそれを受け取ったは、きゅっと喉を震わせて。
「う、……ぁ、わああああああああん!!」
目の前の紅明に縋り付き、恥も外聞もなく泣きじゃくる。小さな聖女をただ静かに抱き締め、紅明は決意した。守らなければ。この、優しくて強く、しかしそれ故に脆い幼い義妹を、守らなければ。死んでしまった、白雄たちの代わりに。
「、あなたは私が守ります」
もう二度と、いもうとを泣かせはしない。それは誓いにも似ていた。泣きじゃくるが、二度とこんな悲しい思いをせずとも良いように。物陰に、兄の気配を感じる。長兄として、将として、を気遣いに来たのだろう。けれどそれ以上は動かない。きっと、どうしたら良いのかわからないのだ。白雄に良く似た瞳が、喪失に怯えて泣くことに戸惑ってしまうから。やがて静かに踵を返した兄の足音に、紅明はただを抱き締める力を強くしたのだった。
170129