「何か欲しいものはあるか、」
このところ、兄は口癖のようにそれを言う。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます、龍兄様」
それに対してはいつもそう答えた。
やはりこれが原因なのだろう、とは包帯で覆われた両目をそっと抑える。新しい魔法を試そうとして失敗し、一時的に目が見えなくなったと聞いて白龍は危うく卒倒するところだったらしい。
確かに、姉が顔に傷を作って戻ってきたかと思えば続いて妹が一時的なものとはいえ失明したのである。白龍の心労はどれほどのものか、その想像がついては自らの行動を反省した。
兄の表情は見えないが、どれだけを心配してくれているかは声だけで十分に解る。それどころか率先しての世話を焼いてくれる白龍に、はただただ申し訳ない気持ちと感謝でいっぱいだった。
の手を引いて歩き、食事の際は隣に座って自らの手で食べさせてやり、目が見えなくてはすることがなくて暇だろう、と本を持ってきて読み聞かせてやる白龍に、甲斐甲斐しいことだと周囲は微笑ましさ半分呆れ半分に言う。
そこに込められた同情や憐憫をは知らない。そもそもそういった言葉自体、の耳には白龍が届かせないからだ。
持ってきていた本を読み終えた白龍が、本を戻しに部屋を出ていく。
「立ち歩いたりはするなよ、」
「はい、龍兄様」
侍女も呼ぼうと思えば呼べるのだが、白龍の声があまりにも気遣わしげなものだったため、大人しく待っていようとは椅子の上で座り直した。
ぼうっと、椅子の上で窓の外から聞こえる小鳥のさえずりや風の音に耳を傾ける。
ふと、その耳にコンコンコン、と部屋の扉を叩く音が届いた。誰だろう、とは見えはしないが顔を扉の方へと向ける。白龍にしては早過ぎるし、そもそも白龍は改まった用件でもない限りは扉を叩いたりはせずに声だけかけて入ってくる。
「、いますか。私です」
「紅明お義兄様……?」
予想外の人物の来訪に、は慌てて立ち上がろうとするが、それを見越したかのように紅明は制止の言葉をかける。
「目が見えていないのでしょう、座っていなさい。開けてもいいですか?」
「は、はい。申し訳ありません」
浮かせた腰を落ち着かせたの姿を見て、部屋へと入ってきた紅明は眉を下げた。光で目を痛めてはいけないから、と白龍の手で厳重に巻かれた包帯が痛々しい。紅覇の従者にも包帯で目を塞いだ者はいるしそれなりに見慣れたといえば見慣れたものではあるが、やはり平素の健常なを知っているとその分余計にいたわしく思われた。
「いきなり来てすみません。あなたが失明したと聞いて、見舞いに来たのですが。事前に連絡を寄越した方がよかったですね」
「いえ、ご心配をおかけして申し訳ありません……お忙しいのに、ありがとうございます」
「ちょうど時間が空いたところでしたから、気にしないでください。兄上や紅覇たちも心配していましたよ」
「……ほんとうに、申し訳ありません。お二方にも、よろしくお伝え願えますか」
「あなた自身の不注意で失敗したわけではありませんし、何より怪我人はあなたでしょう。そのように気に病まないで養生してください」
そもそもが魔法の制御を誤った原因は、実験をしていた部屋に使用人の子が入ってしまったことにある。子供にとって光り輝く魔法陣は好奇心を煽られるものであったのだろう、子供はの制止も聞かず踏み入って魔法陣を乱してしまった。そのため危うくそちらへ向かいそうになった魔法式を、無理矢理自分の方へと引き戻した結果は一時的に光を失うこととなったのだ。
「……私は攻撃の魔法が使えないので、せめて攪乱に使えればと思って、いろいろ強さを変えて光魔法を試していたんです。でもこんなことになってしまって……私は、ほんとうに何もできないんだなと」
政略結婚の道具になれない皇女には価値がないと、を謗る声があるのは紅明も知っていた。白瑛のように身を立てる知力や金属器もない。白龍のように槍術などの武術や魔力操作が扱えるわけでもない。後方支援には特化しているが、それだけでは彼女の立場はあまりにも弱い。
せめて攻撃魔法を扱えれば、と思い立った矢先にこの失敗である。の意思が折れそうになるのも無理はないだろう。
「あなたはまだ幼いのですから、そのように焦らずとも良いでしょう。さすがに失明と聞いては心臓に悪かったですが、その努力は評価されるべきですよ、」
「……ありがとうございます、紅明お義兄様」
落ち込んだ様子のままではあるが、一応笑顔を見せたに、紅明は安堵した。
(……使用人の親子のことは、知らない方がいいでしょうね)
白龍がの事故を聞いて実験をしていた部屋に駆けつけた時には、もうは医者や魔導士たちのところへと運ばれた後で、部屋には迷い込んでしまった子供とその親の使用人が真っ青な顔で並んでいただけであった。
震える声で許しを乞うその親子を白龍が無表情で切り捨てたと聞いて、紅明は内心溜め息をついたものである。
は誰がなんと言おうとれっきとした皇女だ。その部屋に無断で踏み入ったばかりか実験の邪魔をし、を失明させる結果となったからには、その子供も、監督を怠った親も厳罰に処されて然るべきである。正直なところ、親子を切り捨てた白龍を咎める理由は何もない。
その後手当を受けたが、子供は無事だっただろうかと聞くのに対し、「ああ、どこにも怪我などはなかった」と白龍は答えたそうだ。その言葉に安心した様子を見せたに、使用人の親子の末路を告げられる者などいるわけがなく。
ただ、それらを知った者たちの中にはどうにもやるせない気持ちだけが残った。誰も悪くない、不幸な事故とその後処理だ。責任は負われなければならない。たとえ白龍が親子を切り捨てた理由が、城内の秩序の保全よりが傷付いたことへの憤りに傾いていようとも、が哀れな親子の死を知らずとも、紅明たちに要らぬ口を挟む理由はなかった。
「どれくらいで治りそうですか?」
「お母様の見立てでは、一週間ほどもすれば治るだろうとのことでした。明後日頃には、おそらく治ります」
「それは良かった。そういえば、紅覇から菓子を預かっているんです」
そう言って懐から菓子を取り出そうとした紅明の背中へと、冷え切った声が突き刺さる。
「に何か御用ですか、紅明殿」
「……見舞いですが」
本を手に戻ってきた白龍の言葉に、途端に部屋の空気が凍った。おそらく白龍は、紅明がに使用人の親子のことを言っていないか危惧したのだろう。探るような目を向けてくる白龍に、何も言ってませんよと言わんばかりに肩を竦める紅明。それらが見えないは、ただ険悪になった空気におろおろと口元に手をやった。
「……紅覇からの菓子は、白龍に預けておきますね、」
「あっ、はい、ありがとうございます。目が治ったら、改めてお礼に伺います」
「……へのお気遣いありがとうございます」
新しく持ってきた本を置き、紅明から菓子を受け取った白龍は「茶を持ってきます」と二人に背を向ける。その白龍の表情を見て、の視界が閉ざされていることを紅明ははじめてありがたく思った。
一部の者達は噂している、第四皇子は妹が失明したことが嬉しくて嬉しくて仕方ないのではないかと。白龍がの世話を焼く時の表情と言ったら、あまりにも喜びを隠しきれていないではないかと。
その噂を聞いて白龍ならあり得なくはない、と半信半疑でいた紅明であったが、今白龍の表情を目にしてそれは確信へと変わった。
どう見ても、白龍の目は喜びに輝いている。の目の包帯を巻き直すことも、手を引くことも、食事などの世話を焼くのも、白龍にとってはこの上なく楽しいことであるらしい。それがいったいどんな感情に由来しているのかなど、考えるまでもなく。
きっと白龍のその感情はいつかをも殺す。それを白龍が望もうとも、望まざろうとも。
けれど、と紅明は思う。茶器を手に戻ってきた白龍が、に菓子や茶を与えてやるのを、その白龍の明るい表情を見ながら、頬杖をついて茶を啜る。
「いっそ殺されてしまった方が、マシかもしれませんね……」
見えない内に、気付かない内に。
紅明の言葉は白龍には聞こえなかったようだ。ただ、視界が塞がれているため音などに敏感になったの耳には届いたらしく、不穏な言葉の意味を問うように首を傾げる。
それに対し紅明は笑って首を横に振った。それが空気で伝わったのか、ますます不思議そうにする。
気付かなくて、いいのだ。解らなくていい。
解ってしまう前に、なんとかしてみせるから。
だから、どうか兄であるべき二人の感情は知らずにいてほしいと、紅明はひとり願った。
150606