は基本的に禁城の人間に好かれている。愛らしい容姿に、素直で優しい控え目な性格。上の兄姉同様勤勉で、何事にも真面目に取り組む聡い少女。更には在りし日の白雄によく似た眼差しに、先帝の時代を思い出して崇敬を抱く人間も少なくはなかった。
しかしそれでも、先帝の遺児で、玉艶たちに庇護され、他国に嫁げない身であるを傷付ける悪意がまったくないわけではなく。
「これはこれは皇女様、また文官の真似事ですか」
書類をとある文官に届けに行くの通り道に立ちはだかり、慇懃無礼にわざとらしい恭しさで頭を下げる高官。紅徳に気に入られて高い位を得ているその官人は、しばしばこうして紅徳に疎まれているに絡んでくるのだ。
「嫁げぬ身の価値の無さを御自分でご理解されているのはご立派ですが……そのようにはしたなく使い走りのように駆け回っていては、皇后様が悲しまれますよ」
「…………」
嘲る言葉に言い返すだけの気の強さを持たないは、ぐっと唇を噛み締めて俯く。
「白瑛様も女人の身でありながら、軍師の真似事で戦場を駆け回っていらっしゃる。尊い御身を顧みず下々の者のようにあちこちを走り回るのは血筋ですかな? その跳ねっ返りの気性を、あの気弱な白龍様に譲って差し上げればよろしいものを」
しかし続いた言葉はの尊敬する姉と兄を侮辱するもので。到底看過できない家族への嘲笑に、は顔を上げて目の前の人物をじっと見据えた。
「撤回してください」
声を荒らげるでもなく、睨み付けるでもなく、ただ触れれば切れそうな、さえざえとした視線を真っ直ぐに向けてくるの静かな怒りに、官人は狼狽える。
「姉と兄に対する侮辱を、撤回してください」
夜の海のように冷たく凪いだ瞳に耐え切れず、男は冷や汗を流してから視線を逸らした。
「ま、まあお二方は御自身の役割を立派に果たしていらっしゃる、私の言葉が過ぎました……しかし皇女、武人でもなく政略結婚もできない貴方が誰の後ろ盾で皇女たる地位を得ているのか、ゆめゆめお忘れなきよう」
捨て台詞を吐いて、そそくさと去って行く相手を視界の隅で見送って、は無力感と悔しさでぐっと奥歯を噛み締めた。言われずともよく理解している、自分が皇后である母と金属器使いである姉の後ろ盾によって皇女と認められていることも、兄や義兄たちの温情に守られていることも。自分が至らないから彼らにまで謂れの無い中傷が及ぶ。自分がいなければ、或いは自分に何かしら身を立てる力があれば、このように言われることもないのに。自分のせいで大好きな兄や姉が悪く言われるのが、には堪らなく悔しくて悲しくて辛いことだった。の目じりにじんわりと涙が滲む。急ぎの書類ではないため、は柱の陰に身を隠して涙を拭った。
が、嫁げない理由である自身の生来の能力を疎んだことがないわけではない。こんな能力さえなければ、せめて義姉たちのように国の礎として嫁ぐことだってできるのに、と。けれど母が、兄が、姉が、義兄たちが、その稀有な能力を称賛して必要としてくれるのだ。『貴方は世界に愛されているのよ』『はすごいな』『貴方がいてくれて良かった』『お前の力が必要だ』『また今回も頼りにしていますよ』『やるじゃん!』、彼らがくれた言葉が嬉しくて、は結局この力がなければ良かったとは言えずにいる。
「どうした、何かあったのか」
「……紅炎お義兄様」
ぐすっと鼻を鳴らして、は声をかけてきた相手の名前を呼ぶ。多忙な身である紅炎が禁城にいることも、伴も付けずに出歩いていることも珍しくて、驚いたは涙を引っ込めて目をぱちぱちと瞬かせた。
「なんでも、ないんです。ただ目にゴミが入っただけで、」
「また心無い連中に何か言われたんだろう」
「……申し訳ありません」
「いい、謝るな。しかしお前は嘘が下手だな」
誤魔化そうとしたの嘘をあっさりと看破した紅炎は、若干の呆れを滲ませての頭をぽんぽんと叩いた。昔から隠し事のできない性格だったが、ここまで嘘が下手だと皇女としての将来が心配になる。
余談ではあるが、真顔での頭に手を置く紅炎が、慰め下手と弟に思われていることを彼は知らない。とりあえず撫でとけばいいと思っているに違いない、表情も声色も全く和らげないのがいっそ可笑しくて吹き出しそうだ、とも。
「紅炎お義兄様、私は、皇女として何もできない自分が許せないのです……武人にもなれなければ、政略結婚の道具にもなれません。そんな身で家族の温情に縋って、皇女の立場に無様にしがみついている自分が許せないと思います……」
淡々と、自身を裁くように言葉を連ねるに、紅炎は目を細める。政略結婚に使えなかろうがなんだろうが、皇女として生まれたのだからその立場に甘えて生きればいいものを、ひたむきに役割を求めるの高潔さが、その眼差しと相まって白雄と重なる。ぎゅっと手を握り締めて涙を堪える姿はむしろ同様泣き虫な白龍に似ていたが、それでもその瞳は白雄の面影をよく残していて、紅炎の胸の奥をちくりと棘が刺した。
「お前はよくやっている」
紅炎は慰めるのが下手ではあったが、しかしだからこそ優しい嘘などは言わずに事実だけを口にする。それが時に、柔らかい言葉などよりも救いになっていることも、紅炎は知らない。
「は権謀術数を巡らすような場面が多い外交などは不得手だが、堅実な内政などにあたらせれば高い能力を発揮すると聞いている。それにお前の魔力をあてにして遠征の予定を組むことも少なくはない。お前は確かに煌の皇女だ。一部の者が好き勝手に謗る声など聞き流しておけ、時間の無駄だ」
手が触れた頭からじんわりと広がるぬくもりと、真摯な言葉にの目じりからぽろりと涙が落ちる。義兄の角張った優しさに、は心が浮上していくのを感じてふっと微笑んだ。
「ありがとうございます、紅炎お義兄様」
顔を上げてにっこりと笑ったは、書類を届けなければいけないので失礼します、と紅炎に頭を下げて踵を返した。その小さな背中を見送って、紅炎は暫しの間考え込む。
(その内、身を固めさせた方が良さそうだな)
他国にはやれずとも、国内であれば問題無く嫁げるのだ。紅徳に疎まれている立場上、相手は限られてくるが。
優秀な魔導士でもあり人間魔力炉として稀有な能力を持つ義妹が、誰にはばかることなく胸を張って煌で生きていけるようにするには、それなりに位の高い人間に嫁がせるのが一番だ。紅炎の頭には真っ先に二人の人物が浮かんだ。
(紅明があれと親しかったな)
自分に関することをおざなりにする紅明と、他人によく気を遣える。二人は昔から仲が良くて、は紅明の前ではよく気の抜けた笑顔を浮かべていたし、紅明は紅明であの面倒くさがりな気性を凌駕する程度には好意的な感情を抱いているのかの面倒をよく見ていた。夕方になっても姿が見えないからと軽く騒ぎになった時は、部屋で書物を抱えたまま一緒にうたた寝している姿を見つけて呆れたものである。経済学について紅明がに教えているうちに陽気に負けて二人とも眠ってしまったらしい。血相を変えた白龍が、紅明の肩に頭を預けて寄り添って眠っていたを即座に引き剥がしていた。
(白龍が面倒だな……)
の結婚の話が出れば妹を溺愛している白龍が騒ぐであろうことは目に見えていた。自分がと結婚すると言い出しかねない。それはそれでひとつの選択肢ではあるが、義兄である紅炎から見ても白龍の行き過ぎた感情は危ういところが多く、を預けるには不安が募る。白龍の感情はいつかを傷付けかねない。義妹の幸せな未来を思えば、白龍に嫁がせるという選択肢はできるだけ避けたかった。
とりあえず紅明に嫁がせるという前提で玉艶や白龍に話を通した方がいいだろう、と思案しながら紅炎は自室に向けて歩き始める。白瑛はきっと紅明との結婚に賛成するだろう。昔からあの二人の仲がいいのを喜んでいたから。
白雄によく似ている妹、白徳の面差しを強く残す娘。守れなかった後悔が、の幸せを願う気持ちへと繋がる。あの藍色の瞳で見つめられる度、白雄に責められているようで一瞬息が詰まりそうになるなどと、言えるはずがなかった。
150703