白龍の用事は、シンドリアの食事がしばらく続いている中、が煌の食事を恋しがってはいないかと思い「何か食べたいものはあるか」と聞いてきたことであった。
確かにシンドリアの食事は彩り豊かで、戦以外で煌から出たことのなかったにとって珍しいものばかりだったが、南国の陽気と食べ慣れない食事に少し疲れが出始めていたのも事実である。
も料理ができないわけではないが、兄の手料理が食べられるということは純粋に嬉しいことであったので、は白龍の申し出に喜んで頷いた。
そして、厨房を借りに行った白龍を見送ったあと、は紅玉の用件を訊ねた。
本来の用事であった話は、紅玉が友人を作りたいという話であった。
が魔導士であることからヤムライハと、そしてそこからピスティと友誼を結んだように、紅玉もシンドリアで友を得ることができたら、と思いに相談したのである。
ほんとうはあの場で三人の話に混ぜてもらいたかったのだが、それを言い出す勇気もなく、だけを連れ出してしまった紅玉は少し後悔していた。そんな紅玉に、は次は四人でお茶をしましょう、と微笑み、紅玉もその言葉に喜色を浮かべた。
「紅玉お義姉様、恋とはどういうものなのでしょうか」
話が一段落ついたところで、がぽつりと呟いた言葉に、紅玉は目を瞬いた。
「そうねえ……その人を見ると心臓が跳ね上がって、一緒にいるだけでどうしようもなく幸せで、でもとても不安で……ずっとその人のことしか考えられなくなるような……感じかしら」
「お義姉様には、恋い慕う方はいらっしゃるのですか?」
「わ、私は……!」
紅玉の言葉にどこか思惟を巡らせているような面持ちで質問を重ねたに、紅玉は赤面して言葉を詰まらせる。ここに第三者がいたならば、あからさまな紅玉の慕情に気付かぬものかと疑問に思うかもしれないが、あいにくここには紅玉としかいない。
「そう、ねぇ……いるわぁ。とっても素敵な、方なのよぉ」
頬を赤く染めて、どこか遠くを思うような表情で俯く紅玉は、にとってとても美しく見えた。恋とは、このように尊い感情であったのかと、今まで触れることもなかった感情を目の前にして、は思う。
「紅玉お義姉様は、素敵な恋をなさっているのですね……」
「ええ、そうよぉ……だから私、今とっても幸せだわ」
ふふ、と照れたように笑う紅玉に、も微笑む。
そんなに、紅玉はふと思いついたように問いかけた。
「ちゃんは? どなたか想う人はいないのぉ?」
「私、は……」
『姫はお兄さんのことどう思ってる!?』
真っ先に思い浮かんだのはピスティの言葉だった。
他人からそう聞かれてしまうほど、自分は白龍を恋い慕っているように見えるのだろうか。確かに、想う人、と訊かれて真っ先に思い浮かぶのは誰よりもの近いところにいる白龍をおいていない、けれど、白龍は実兄で。そういう対象ではないはずで。
ピスティの意図したところとは少し異なるところで、の思考は進んでいく。
「あの、お義姉様」
「何かしらぁ?」
「紅玉お義姉様は、私が、」
龍兄様を恋い慕っているように見えますか、と続くはずだった言葉は、思わぬ人物の登場によって遮られた。
「姫はいるだろうか?」
「シ、シンドバッド様!?」
「あっ、はい、なにか御用でしょうか!?」
予想だにもしない人物が現れたことにより、部屋の中の空気はがらりと変わる。慌てて立ち上がろうとした紅玉とを、シンドバッドは笑顔で制した。
「ああ、そう畏まらないでください。女性同士のお話に割って入るような真似をして申し訳ない」
「い、いえ……!」
「重ね重ね申し訳ないのですが、姫とお話しさせてもらっても?」
「えっ、あっ」
そういえば確かにシンドバッドは部屋に入ってくる際を呼んでいたが、自分にいったい何の用だろう、とは首を傾げる。
「わ、私は構いませんわぁ! ちゃん、行ってらっしゃいな」
構わないと言いながらもどこか残念そうで、しかし舞い上がった様子を見せる紅玉に、さすがのも、もしかして、と気付く。
「よろしいのですか……?」
「ええ、もちろんよぉ!」
しかし当の紅玉が笑顔で見送ろうとするので、は多少気まずさを覚えつつもシンドバッドへと向き直った。
「シンドバッド様、ご用件というのは……?」
「姫宛てに煌から書簡が届いていてね。今は執務室で預かっているんだが、確認してもらえるだろうか?」
「は、はい! 紅玉お義姉様、失礼致します」
紅玉に挨拶をし、シンドバッドに続いて部屋を出る。紅玉はひらひらと手を振ってそれを見送った。
「どうぞ、姫」
シンドバッドから差し出された書簡の送り主は、母の玉艶だった。
何か大事でもあったのだろうか、と不安を覚え、シンドバッドに断りを入れてからその場で書簡を開く。内容のほとんどはがシンドリアでつつがなく過ごしているかといった類のもので、煌で何か問題があったわけではないことにほっと安堵の息を漏らす。それを見て、シンドバッドはに声をかけた。
「その様子だと、急を要する要件ではなかったようだね」
「はい、お手数をおかけして申し訳ありませんでした」
「いや、俺も少し息抜きをしたかったからちょうど良かった。ところで……」
シンドバッドは目を細める。
「ヤムライハたちと仲良くしてくれているそうだが、シンドリアでの生活は姫にとって実りあるものとなっているだろうか? 何か不自由などはないかな?」
「いえ、不自由だなんて、とてもよくして頂いています。ヤムライハさんはとても博識な方ですし、ピスティさんは本からは学べないことをたくさん教えてくださいます。お二人と関わりを持ててよかったと思っています」
「そうか、そう言ってもらえると二人も喜ぶよ。そういえば姫は今まで国外へあまり出たことがないそうだが、どうしてシンドリアへ?」
の留学の目的を聞くことがシンドバッドの本来の用件だった。書簡など兵士にでも預ければいいが、と話をしたくともいつも隣には白龍がいる。彼がいては聞くに聞けないこともあるのだ。そう、例えば。
(白龍皇子が内乱を起こす気でいることを、彼女は知っているのか……?)
紅玉とは違い、は白龍の実妹だ。ヤムライハたちの話ではは魔法の修行の他には黒秤塔で魔導書などの書物を読むか、アリババたちの元を訪れる白龍に付き添って過ごすかで、時たまヤムライハやピスティと他愛もない話に興じているらしい。当然内乱などという言葉は欠片も口にしてはいないが、が白龍に手を貸すつもりでここにいるのだとしたら。
白龍ととシンドバッドとの三人でいる時は白龍はその話をしようとする様子すら見せなかったため可能性は薄いが、万が一がないとは言い切れない。
二人きりになったこの場で、が白龍への助力を願ってくるとしたら、シンドバッドは。
「お恥ずかしい話なのですが、私は白龍お兄様や紅玉お義姉様のように確固たる目的を持って来たとは言えません……仰る通り、私は今まで戦以外で国外に出たことがなく、他国の人々の生活をこの目で見たことがありません。白龍お兄様がそのような私を気遣ってお声をかけてくださいました……言ってしまえば興味本位のようなもので、申し訳ないのですが」
「いやいや、外の世界に興味を持つのは良いことだよ。戦でしか外を知らなかったのなら尚更だ。紅玉姫の用件は……まあ、置いておくが、君は白龍皇子から留学の目的を聞いているのかな?」
「いえ……ただ、どうしても為さねばならないことがあるのだと……シンドバッド様は、お兄様から何かお聞きになっているのでしょうか?」
「……いや、残念ながら彼とは中々深く話す時間を持てずにいてね。近いうちにゆっくり話せたらと思っているよ」
「そうですか……」
残念そうに顔を伏せた。その様子は嘘や演技には見えない。ヤムライハたちの話からも、自身の目で見ても解るように、は皇族という立場の割にそういった謀が得意でないように思われるし、白龍と目的を共有しているのなら余人のいないここで嘘をつく理由もない。
(おそらく彼女は、何も知らないんだな)
シンドバッドはそう結論付けた。しかし、と彼は思う。
この留学が白龍にとってシンドバッドの助力を取り付けるためのものだとしたら、白龍がを連れてきたことにも何か意味があるはずだ。稀有な能力を持つを交渉材料のひとつにする気かとも思ったが、それをすぐに打ち消す。白龍のへの執着は誰が見てもあからさまなものだ。そんな彼が果たして掌中の珠とも言うべき妹を交渉の道具にするだろうか。
或いは、ともう一つの可能性が浮かぶ。
シンドバッドに助力を願ったように、にも煌の目が届きづらいこの地で自身の目的を打ち明けるつもりでいるのかもしれない。人間魔力炉とも言うべきは金属器使いの多い煌で内乱を起こすのであれば、敵にだけは回せない存在だ。そうでなくともあの執着ぶりでは味方に引き込もうとするだろうが――ただ、今のところはただ留学をしにきただけの皇女だ。無暗に刺激する必要はない。
それからいくつかの雑談を交わした後、書類を催促しにやってきたジャーファルを伴に付け、シンドバッドは彼女を部屋へと返した。
「! どこへ行っていた、心配したぞ」
「龍兄様、申し訳ありません。煌から書簡が届いていたようで、シンドバッド様のところへ」
が自身に充てられた部屋へと戻ると、大量の料理が乗せられた机の前で白龍が待っていた。紅玉からの行き先を聞いていたはずなのに血相を変えてへと駆け寄る白龍に、ジャーファルは苦笑いを見せる。
「書簡? 何かあったのか?」
「いえ、お母様からで、留学は順調かと。お兄様のことも気にかけていらっしゃいました」
「……そうか。ひとまず夕食にしよう。ジャーファル殿、を送ってくださってありがとうございました」
「いえ、それでは私は失礼しますね」
礼をしたジャーファルが去っていくと、白龍はの手をとって席に着かせた。
「お前の好きなものを多く作ったつもりだが、好みでないものがあったら言ってくれ」
「龍兄様の作ってくださったもので、好みでないものなどありません、ありがとうございます……!」
いただきます、と笑顔で箸を進めるに、白龍の表情も明るいものとなる。
しかし白龍は自身も料理へと手を付けながら、僅かに眉間に皺を寄せて言った。
「シンドバッド殿とは何の話をしたんだ?」
「ここでの生活に不自由はないかと。それから、ヤムライハさんやピスティさんのお話と……」
言葉を淀ませ箸を止めたに、白龍は少し嫌な予感を覚えながらも言葉を促す。
「その他には?」
「……私や龍兄様は、何故シンドリアへ来たのかと」
「…………」
白龍は思わず舌打ちをしたい気分になった。白龍がシンドバッドへと助力を願った以上も探りを入れられると思っていたからこそ、をシンドリアの人間から極力遠ざけていたのに。紅玉がいるからといって気を抜いたのが甘かった。は何も知らないから何も言わないでくれと言っておくべきだったのか。そうは言ってもそれで納得して何もせずにいるような王ではない。
「私には、外の世界を知ることは良いことだと……龍兄様、」
「……なんだ?」
「龍兄様が、為さねばならないこととは何ですか? 今、私がそれを聞くことは許されますか?」
箸を置き、はぎゅっと膝の上で手を握りしめる。白龍も箸を置いてへと向き直った。の視線が白龍へとまっすぐに据えられる。
白龍は、をシンドリアへと誘う際に、自分には為すべきことがあるとだけ告げた。今は話せないが、時が来たら必ず話すからと。
「……すまない、もう少し待ってくれないか」
「いえ……申し訳ありません」
「が謝ることはない。ただ、のためでもあることを、解っていてほしい」
「私の、ため」
繰り返した言葉は、白龍が常にへと与えていてくれたものだ。
こうして手ずから料理を作ってくれることも、シンドリアへと連れ出してくれたことも、何もかも。いつだって白龍はを一等気にかけてくれていて、いつもそうして自身のためにいろんなことをしてくれる兄の言葉を、が疑うはずもなかった。ただ、
『白龍皇子は、君を本当に大事にしているんだな』
シンドバッドと交わした会話の中で、言われた言葉を思い出す。
『白龍皇子って姫のことすごく大事にしてるよね?』
ピスティにも言われた言葉は、煌でもよく聞いていたような、気がする。
きっと自分はもっとその言葉の意味を考えるべきだったのでは、とはふと思った。
「龍兄様、ひとつだけ、教えてください」
白瑛に対してのそれを、遥かに上回る気遣い――周囲はそれを過保護と呼ぶが――それは、いったいどこから来るものなのだろう。金属器使いでもない。政略結婚の道具にもなれない。そんな不出来な妹を、兄は何故大切にしてくれるのだろう。
「龍兄様はどうして、私をこんなにも大切にしてくださるのですか?」
煌の中では疑問にも思わなかった。それがとても申し訳なくなる。誰が見てもそうと解るくらいに大切にしていてくれたのを、当たり前だと思っていたなどと。
問われた白龍は、一瞬呆気にとられたような表情を見せた。難しい顔をしていたのが、年相応のあどけなさを残したものへと変わる。
けれど白龍の顔からは、すぐにその表情は消えて。白龍は満面に喜色を湛えて言った。
「お前のことを、愛おしく思っているからだ」
その表情は、そう、確か紅玉が、彼女の瞳も、こんな色をしていたような。
一瞬頭を過った考えが何を指すのかも解らないまま、ただ顔へと集まる熱をどうにか抑えようと、は水の入った器へと手を伸ばす。その手を捕えて、白龍は言った。
「俺はを、何よりも愛おしく思っている。だからを大切にする――そう言ったなら、、お前はどうする」
すり、と掴んだの手を撫でながら問う白龍の目に。
その目に映っている自身の目にも、もしかしたら。
(同じ、色なのかもしれない)
そう、思ってしまったの錯覚を、正せる者はいない。
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