姫、君の世界はひどく狭いと思わないかい?」
 結界を破って侵入してきたジュダルが去った後、紅玉との話を終えたシンドバッドはの元を訪れ、その手をとって微笑んだ。ぎゅっと手を握られたは顔を赤らめて後退りをするが、シンドバッドはニコニコと笑みを浮かべながらも開けられた距離を詰めるようににじり寄る。
今まで白龍のこと以外ではさほど重視してこなかったの存在だが、ジュダルの言葉で事情が変わったのだ。からあの後詳しく聞き出した話。人間魔力炉としての類い稀なる能力とあまりに膨大な魔力量、それ故に他国に嫁げない皇女。それを謗る一部の官人。力を持たず、兄姉や母に迷惑をかける自身を責める気持ち。ぽつりぽつりと語ったの、揺れる深い藍色の瞳を見て、紅玉同様もシンドリア側へと引き込めるとシンドバッドは思った。
自分の可能性を持て余している、世界を知らない少女。白龍をはじめとした家族に大事にしまい込まれて育ち、今ようやく少しずつ世界を広げようとしている。そんなの眼前に広大な世界を見せてやれば、どうなるだろう。白龍はの成長を制限させたいようだが、は無意識の内に外の世界を望んでいる。自分の世界観の中では無価値な自身が得られるかもしれない役割を、は外の世界に渇望している。そんなに広い世界を与えてやれば。決して無価値などではないと、誇れるだけの役割を与えてやれば、きっとは。
「君はずっと煌の中で生きてきた。煌の外は戦でしか知らなかった、そうだね?」
「は、はい……」
「シンドリアに来て驚いただろう? けれど、ここより遥かに世界というものは広いものなんだ。俺は姫が外の世界をもっともっと知りたいのなら、その手助けをすることができる」
「外の世界、」
「そう、外の世界だ。広大な世界に出れば、きっと君もまだ知らない可能性を見つけられる。誰に遠慮することもなく、煌で胸を張って生きていけるようになりたくはないかい?」
 シンドバッドの言葉に揺れる心。家族の重荷としてではない、役立たずではない、誰かへと変われるのだろうか。戦以外では禁城に閉じ込められるようにして生きてきたにとって、シンドリアでの生活は新鮮な驚きに満ちていて、とても楽しくて。それでもなお、まだまだ広い世界があるのだとシンドバッドは言う。その世界でが生きていく手助けをしてくれる、と。アルテミュラやササン、エリオハプトやイムチャックなどの国の名前を挙げて、そちらへの留学も斡旋してくれると言うシンドバッドに、は頷きそうになる。
(でも、)
 強く揺れたの心を引き戻したのは、家族の言葉だった。快く見送ってくれた姉や義兄たち。手紙をくれた母。無理はしないように、戻ってくるのを楽しみに待っている、と皆言ってくれた。予定していた留学の期間はそう長くはない。紅玉には既に帰国命令が届いていると聞く。シンドバッドの言うようにここに留まったり他の国に行ったりするのは、を待っていてくれる家族の言葉を跳ね除けてまで自分のやりたいことを優先するのは、良くないことではないだろうか。
白龍も目的さえ果たせば、煌に戻るか白瑛のところに行くつもりだと言っていた。そして白龍もも、当然のように行動を共にすることを前提としていた。
(龍兄様に、ついていかないで、シンドリアに留まる……?)
 考えもしなかった選択肢。
ずっと考えていた、兄の言葉。
自分たちは想い合っているのだと、白龍は言った。その感情を今一度よく考えてほしいと。
白龍が迷宮に旅立った日に、は紅玉に訊いてみたのだ。以前訊けなかった言葉。自分は白龍を恋い慕っているように見えるのかと、は信頼する義姉である紅玉に問うた。
 『そうねえ……白龍ちゃんの隣にいるちゃんはとても幸せそうで、白龍ちゃんも同じように見えるわあ』
 これ以上は私の言うべきことではないけれど、でも応援しているわ、そう紅玉は微笑んで、は首を傾げたものだ。どうにもそれは人に訊くものではないらしい。は頭を抱えた。
もっとも紅玉は煌にいた頃から義弟が義妹を甘やかな目で見つめていたのも、それがどういう感情から来るものかも知っていたし、今はそういう関係ではないにしろ、その白龍に笑い返すの中にも無意識の内に白龍と同じ感情が息づいているとばかり思っての感情を見誤っていたのだが。
の愛情はどこまでいっても白龍のそれとは微塵もかすらない家族愛でしかない。白龍がどれだけに恋慕を募らせようとも、が返すのはきれいな兄弟愛だけだ。
も紅玉も、それに気付かないまま、同じように笑い合う二人の感情は同じものだと勘違いを重ねている。紅玉は白龍の感情の、どす黒い執着じみた部分を知らないが故に。は、その無知が故に。
 そして今、白龍と離れるという選択肢が浮上したこの時に、の心は焦りから最後の欠片を嵌め違えて解を出してしまう。
(私は龍兄様といると幸せで、ずっと支えていたくて、笑ってくれれば胸の中が暖かくなって、悲しそうであれば一緒に気持ちが沈んで……何よりもただ、傍にいたくて)
 を何よりも愛おしく思っていると言った白龍。その瞳は、想い人について胸を弾ませて語る紅玉と同じ熱を宿していた。白龍や紅玉の言葉によると、の瞳もそれと同じ色をしているらしい。
(私は、お兄様を、龍兄様を……恋い慕って、いる?)
 家族だから、兄だから、こんなに離れ難くて大切なのだと思っていた。けれどそれは違うのだと兄は言う。愛しいと思う心があるから、何よりも大切にするのだと。の一番近くにいて、信頼を寄せる兄が意図的に嘘をついている可能性など考えもしないは、白龍の思うように自分の感情を見誤った。
そして愕然とする。自分は実兄に恋慕を抱いているのだと、そして同じように想い合っていると言った兄の言葉から考えるなら、白龍もに恋慕を抱いていることになる。
(そんな、まさか)
 小さい頃からずっと一緒だった。ずっと傍にいた。これからも当たり前に隣にいると思っていた、けれど。それはきっと家族同士寄り添っていくものだと思っていた。
それが双方とも、実のきょうだいに情愛を抱いていたなんて。それも皇族である、立場ある人間が、そこまで考えたは顔を真っ青にして俯く。
姫? どうかしたのかな?」
 黙ったまま何事か考えていたの顔色が悪くなったことに、シンドバッドは眉根を寄せた。目の前にいるシンドバッドのことも忘れて考えに耽っていたは、声をかけられてハッとしたように顔を上げる。握られたままの手から伝わってくるシンドバッドの体温に、違う、と思った。
の求めている体温はもう少し低い。シンドバッドの手よりもう少し小さくて白くて、でもの手を包み込めるほどに大きくて、骨ばっていて。日々重ねる鍛錬や勉学に少しかさついていて、肉刺ができては潰れた痕が掌に残っていて。いつだって優しくに触れていてくれた。の手を引いてくれていた兄の手。
シンドバッドに触れられても羞恥ばかりが胸の内に生まれて、白龍に触れられた時の胸の弾むような暖かさも安らぎも感じないことに、はいよいよ恋慕を自覚して泣きたくなる。
(こんなにも好きだったのに、どうして気付かなかったのだろう)
 間違っている。相手は血の繋がった実の兄だ。兄はどうしてに気付いてほしがったのだろう。兄妹間の恋慕を、認めることを求めた白龍の意図が解らない。問いかけたい相手はここにはいなくて、それでもは白龍にどうしようもなく会いたかった。
「申し訳ありません、シンドバッド様」
 震える声では口を開く。の言葉に気が向いて緩んだその手から、は自分の手を抜き、背後に回してぎゅっと握り締めた。
「お言葉は嬉しいのですが、私は兄についていくと決めています。白龍お兄様がもし、ここに留まりたいと仰られるのでしたら、私もここに留まります……このお話は、お兄様がお戻りになるまで、保留にしてくださいませんか」
「あ、ああ……急かしてすまなかったね。だが姫、君の未来は君自身のものだ。自分が何をしたいのか、よく考えた方がいいと、君の幸せのためだと俺は思うよ」
 泣きそうな顔をしてここにいない白龍の存在を求めるに、シンドバッドは憐憫を抱いた。実の妹によくここまで洗脳じみたことができたものだと。望んでいる世界への希望も凌駕して、兄の傍にいなければと思うの気持ち。依存と義務感が混沌と混ざったようなその感情をに抱かせた白龍。それが愛情からくる行為だというのだから恐ろしい。なるほどよく躾られている、といっそ感心すら覚えるほどだ。
たとえ自分が不在でも、深いところはしっかりと押さえ込んでいる。の言葉は白龍のものだ。の意思のようでいて、その実の意思は無意識に白龍の意思を優先している。シンドバッドは二人の関係に恋慕など欠片も見出さなかった。片や妄執じみた愛情で恋慕など美しいものとは程遠く、片やあまりにも幼い家族愛で恋慕には遥かに至らない。
(かわいそうなことだ)
 シンドバッドはを見下ろして思った。ここにはいないはずの白龍が、の背後にいるような気がしてならなかった。
 
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