バルバッドの、すっかり作り変えられた王城で、紅玉に入ったシンドバッドとの会話を終えて彼女を部屋まで運んだアリババは、部屋を出たところで声をかけられて目を見開いた。
「アリババ殿」
「お前……か? 久しぶりだな!」
「はい、お久しぶりです」
 シンドリアでは白龍や紅玉ほどの親交を持たなかっただが、それでもアラジンやモルジアナからの為人は聞いている。アリババから見ても優しく控えめなは好ましく思っていたし、今この状況にあっても敵視するような相手ではなかった。紅炎や紅明に突き付けられた条件や、シンドバッドへの不信で沈んでいた気持ちが、懐かしい顔を見て少し浮上する。
「お前もここに来てたんだな。マグノシュタットでは会わなかったし、シンドリア以来か。白龍は元気か?」
「……はい、龍兄様も、元気です」
 しかし対照的には、表情を暗くして俯いてしまう。それを見たアリババは、白龍と何かあったのかと慌てて口を開こうとするが、それよりも早くは意を決したように顔を上げた。
「アリババ殿、貴方に頼みがあるんです。もう貴方にしか、頼めないんです」
「頼み……?」
「もしいつか、龍兄様が貴方に剣を向けたなら、」
「え、」
「龍兄様が貴方と戦うことを望んだら、どうか、龍兄様の望むように戦ってはもらえませんか」
「どういうことだよ、? 白龍が俺と戦うことを望んでるって、どういうことだ?」
「……今はまだ、大丈夫なんです。まだ、龍兄様は貴方でない人に目を向けている、でもいつか、龍兄様は、きっと貴方を、」
 の要領を得ない言葉に詳しく説明を求めようとしたアリババだったが、の目から溢れでた涙に言葉を詰まらせた。
「私は、龍兄様を止められません。龍兄様の傍にいて、何があっても龍兄様を否定しないって決めました、だから私には、何もできないんです。でも……」
 はジュダルと共に迷宮攻略に行くと言った白龍に、危険だから禁城で待つようにと言われて置いていかれた。玉艶や義兄たちとは、可能な限り接触しないようにと言い聞かせられて。
そこではずっと悩んでいた。白龍と共にいると約束したは、何があっても白龍を肯定し続ける。白龍が何をしようと、味方でい続ける。自分がしているのは、母を殺そうとしている白龍よりも酷いことだと解っていた。兄のためだといって、何もかもを見殺しにする。兄の望みに、怒りに寄り添って生きていくと決めた。それでも、旅立っていく白龍の表情に不安を覚えて。
兄は煌帝国を取り戻すと言った。玉艶を殺すのだと言った。そしては、その白龍の傍にいると決めた。この持て余す魔力を、魔法を、自分の全てを、白龍のために捧げると決めた。けれど、白龍は煌を取り戻した後どうするのだろう、と考えたら怖くなって。白龍の抱え続けていた怒りや恨みに触れたは、白龍が玉艶を討ったらその後はどうするのだろう、と思考を巡らせて。きっともう、白龍は自分では止まれない。あの目にはそれだけの危うさがあった。玉艶への憎しみを原動力に戦い続けてきた白龍が、痛いほど真っ直ぐに突き進む白龍が、そこで止まるとは思えなくて。
許せないのだと、白龍はに言った。知っていたのに何もしなかった紅炎たちが信じられないのだと。きっと白龍は、何もかもが無くなるまで進み続ける。それを恐ろしく思いながらも、何も知らずに守られていたには白龍を止める資格などないのだ。一歩間違えれば落ちてしまいそうな白龍を、独りになどできなかった。だけは、何があっても白龍の傍にいなければならなかった。
「お願いします、アリババ殿。龍兄様の友人である貴方にしか、もう、お願いできないんです」
 走り続ける白龍を、誰かに止めてもらわなければならなかった。紅炎は無理だ。彼は白龍を見ていない。白瑛にもできない。姉と袂を分かった白龍は彼女の言葉を聞かない。
白龍のことを仲間だと、思いやってくれたアリババにしか。同じように独りであがいていた痛みを分かち合えるアリババにしか、きっと白龍の本質は理解できないのだ。だからこうして、母を含めた誰にも黙って、紅玉に頼み込んでアリババに会うためにここまで連れてきてもらった。白龍の言いつけに、はたったこの一度だけ背いた。アリババに、どうしても約束してほしかった。
「きっと龍兄様はもう、進み続けることでしか安らげないんです。戦うことでしか癒されない。でも私は、龍兄様を止めちゃいけないんです……! 私まで龍兄様を否定したら、きっと取り返しのつかないことになる……!」
「おい、……?」
「お願いします、アリババ殿、龍兄様を止めてください、龍兄様を、助けてあげてください」
 痛い程に真っ直ぐにアリババを見据えて、は懇願する。それにうろたえながらも、アリババはの真剣な眼差しを真っ直ぐに見返す。の話はやはりよく理解出来ないが、が自分にこれを伝えるためにここまで来るだけの何かがあったのだ。白龍を絶対視しているが、白龍を止めてほしいと願うだけの何かが。アリババの脳裏に、大聖母を殺した白龍の冷ややかな表情が蘇る。
「……わかった、
「!」
「白龍と戦うっていうのは、やっぱりよくわかんねーけど……戦いにならないようにするのが一番だって思うけど、でも、お前が言うように、白龍との戦いが避けられなくなったら、俺はあいつを止める。絶対に止めてみせるよ。あいつは俺の仲間だから」
「ありがとうございます、アリババ殿……!」
 アリババの答えを聞いて、の涙に濡れた瞳がぱあっと明るくなる。お願いします、と頭を下げたは、次いで申し訳なさそうに口を開いた。
「あの、本当に申し訳ないのですが、私がここに来たことと今話したことは、内密にしていただけませんか。私、今本当はここにいてはいけないんです」
「城を抜け出してきたってことか?」
 元より白龍に関することは今は自分の胸の内に留めておいたほうがいいだろう、と決めていたアリババは、むしろが城を抜け出したらしいことに驚く。どことなく次兄を彷彿とさせる気弱さを持つだが、まさか城を抜け出すような行動力があったとは。同時に、サブマドが霧の団のアジトにやってきた時のことを思い出して嫌な予感がした。もしかしたら、の頼みは自分が思っている以上に重い意味を持っているのかもしれない。
「紅玉お義姉様に無理を言って、連れてきてもらったんです……お義兄様たちに見咎められる前に帰らないと、私は国外を出歩くことも禁じられていて……」
「むしろどうやってこっそり抜け出してこれたんだよお前……」
「魔法で姿を隠してきました。だから私がここにいることは、貴方と紅玉お義姉様しか知りません。この後は補給部隊が帰る船に隠れて帰ります」
 の言葉が終わるか終わらないかの内に、の姿がアリババの視界から消えていく。シンドリアで見たヤムライハの魔法と同じようなものだろうか、とアリババは感心した。
同時に、が戻った時に城では騒ぎになっているのではないだろうかと心配する。なにしろバルバッドと煌の行き来は数日はかかる距離なのだ。
それらのリスクを背負った上で、がここに来た意味をアリババは改めて考え直す。
「……私は、龍兄様の味方です。龍兄様が貴方に剣を向けたとき、私もきっと貴方の敵です。それなのに、こんな頼みをするのは、烏滸がましいとは思うのですが」
 姿は見えないが、申し訳なさそうなの声がする。きっと拳を握り締めて俯いているのだろう、と見えなくてもアリババには判った。
「いや、お前は俺の敵にはならないよ。お前は白龍の味方だけど、俺を殺そうとしたりはしないだろ?」
「貴方を殺そうとするかもしれない龍兄様を、止めなくてもですか?」
「それでもだよ。お前は俺のことも考えてくれた上で、白龍の味方でいることを選んだだけだ。俺にも譲れないものがあって、でも裏切りたくない人たちがいて……できるなら、敵対なんかしたくないんだ。それでも、譲れないもののために、その人たちと別れることを選ぶ。だけど、可能な限りその人たちと戦うことは避けたい。が悩んでいることも、そういうことなんだろ?」
 アリババにとって譲れないものは、バルバッドで。裏切りたくないのは、シンドリアで。バルバッドのために紅炎の下につくと決めた。それでも、できる限りシンドバッドやシャルルカンたちを傷付けたくはない。
にとって譲れないのは白龍で、傷付けたくないのは、アリババたちで。アリババたちを守ることはできなくて、白龍とアリババたちの衝突が起これば白龍しか取れなくて、それでも双方の傷が少なくて済む、白龍が救われる道を探している。きっとが止めてほしいのは、白龍を止められない自身でもあるのだ。
「……ありがとうな、
「え……」
「おかげで、覚悟が決まったよ。は白龍のために、俺と敵対するかもって決めても、それでも白龍のことを考えてここまで来たんだよな。俺も、譲れないものを取らなくちゃいけないんだよな……」
「アリババ殿……?」
「ありがとう、。もしもその時が来たら、俺は白龍もお前のことも、ちゃんと止めてみせる」
 アリババはそこにいるに向けてしっかりと言い放った。
「それでもお前も白龍も、俺の敵じゃない」
「……ありがとう、ございます、アリババ殿」
 姿の見えないの声は震えていた。きっと泣いているのだろう。衣擦れの音がして、さようなら、と言うの声がした。音もなく遠ざかる気配をアリババは追わない。
「またな、
 の言うようなことにならなければいいと願った。同時に白龍が心配になる。大切にしている妹が止めてほしいとアリババのところに来るなんて、白龍は一体何をしているのだろう。
(今お前は、何をしてるんだよ、白龍……)
 白龍が自分に剣を向ける日が来るとは思いたくなかった。それでもの表情を見れば、その可能性は捨てきれないのだと解る。一体白龍は何をしようとしているのだろう、とアリババは宙を見つめて拳を強く握った。胸騒ぎがしてならない。けれど今は会談のことが先だと、アリババは定めた覚悟と共に無理矢理に意識を切り替えた。
 
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