「…………あ、龍兄様、おかえりなさい」
部屋で一人佇んでいたは、帰ってきた白龍の姿を見て顔を綻ばせた。大量の書物を抱えて調べ物をしているを、白龍は複雑な気持ちで見下ろす。
絶縁結界の中で魔法を行使した。玉艶がたびたび口にしていた、奇跡の子という言葉。自分はいったい何なのか、その答えを求めてが片端から書物を捲っていることも、何一つまだ答えを得られていないことも知っていた。そしてうっすらと目の下に浮かんでいる隈から察するに、今日も調べ物の結果は思わしくないのだろう。
「、少し休め。一緒に湯浴みでもしよう」
白龍の言葉に、気恥ずかしさに頬を赤く染めながらも頷く。書物の山から引き離すようにの華奢な体躯を抱き上げると、白龍は湯殿へと向かって歩きだした。
が求める答えの断片を、白龍は知っている。そしてそれがおそらく、どの書物を読んだところで見つからないだろうことも。
『白の柱を、汚すな』
ベリアルの迷宮で、白龍の前に現れたの虚像。本物のは絶対にしないだろう冷たい表情で、それは白龍を見据えていた。その虚像の背後から、迷宮のジンの声が響く。
「……白の柱?」
『かつての世界で、命の流れは、運命は、『神』の神殿の柱だった。ただ『神』の定めるままに生き、死に、『計画書』の定めたままに全ては巡る――それが、運命だった。黒の柱だった』
の姿を通して、迷宮のジンが語りかけてくる。それだけで白龍は不快で仕方なかったが、に関わることならば、と大人しく耳を傾けていた。
『しかしかの王はそれを書き換えた。全ての命が、全ての意思で未来を作る。運命はそれぞれの意思のために絶えず変革し、定められた形を無くした。かの王が願う、かの王の神殿の柱――全ての命が作り上げた運命の集積、それがお前の妹だ』
「どういう意味だ、が人ではないとでも言いたいのか」
鋭い眼差しで槍を手にの幻覚を睨み付けた白龍。しかしそれの表情は変わらない。
「『私』は人です、龍兄様」
初めて口を開いたの姿に、白龍はぐっと息を呑む。
「私は人です、人でなければならなかった。運命が運命を定めることなく、その流れの一つとして、未来を選択する意思の一つとしてあるために、私は人として生まれてきました。この世界に再び黒の柱を打ち立てようとしている人たちの元に、逆流する運命に抗う人たちの元に」
運命の、世界の端末。ソロモンという神が新たに作った、人の意思で変革していく運命の一片。ソロモンが神に成り代わった時にイル・イラーから切り離した、断片に命を与えられたもの。魂の人形。
「『私』はただの人です。選んで、進んで、生きて……神が、そう願いました。『彼』が世界を見守るために、しかし『私』は自由であれと」
『だが、かの王が望んだあるべき柱だ。本来の白き神に繋がる、白の柱だ。恨みと怒りに生きる器に彼女が導かれることは、あってはならない』
「…………」
ギリ、と白龍は奥歯を噛み締めた。愛しい妹を、まるで人形か何かのように言うジン。妹の似姿まで作って、白龍の足を止めさせようとして。はそんなことを言わない。は白龍を否定しない。は、白龍の愛しいただひとりの妹だ。たとえ、どんな存在であろうとも。何を背負っていようとも。
「……え、」
ドスッと、の胸に突き立てられた偃月刀。目を見開いて崩れ落ちた偽物に見向きもせず、白龍は口を開いた。
「俺のは、ひとりだけだ」
「……龍兄様?」
心配そうなの声に、白龍はハッと我に返る。湯上がりの白龍の髪を拭いていたが、眉を下げて白龍の顔を覗き込んでいた。
「どこか痛むのですか? それともお加減が、」
「」
「りゅ、龍兄様?」
の言葉を遮って、縋るようにに抱き着く。戸惑うように白龍の名前を呼んだだったが、やがてそっと白龍を抱き締め返した。触れ合っている部分から伝わる温度が、ひどく心地好い。二本の頼りない腕はそれでもしっかりと白龍への愛情を訴えていて、白龍はの腕の中でそっと目を閉じた。
「……、お前は俺の妹だな」
「はい、私は龍兄様の妹です」
「俺は、お前の兄だな」
「はい、龍兄様は私のお兄様です」
「……、」
よかった、と白龍の口が音もなく動く。
ベリアルが語ったの本質は、白龍には未だ捉えきれていなくて。きっとに話しても、戸惑わせてしまうだけだろう。はここに生きていて、ひとりの人間として白龍を愛してくれている。それだけ解れば十分だった。が神の一片だろうが、そのルフがソロモンが切り離した運命の断片であろうが関係ない。そんなものに関わらせることなく、ただひとりの愛する妹としてを守っていこうと、白龍はそう決意した。
160507