アリババは困惑していた。白龍が憎んでいた彼の母親がアル・サーメンの首領だったことも、本当に白龍が自身の母親を殺したことも、受け入れがたかった。アリババの知る白龍は、そんなことをする人間ではない。それがジュダルと手を組んで、いったい何を始める気でいるのか。
きっと白龍は、紅炎のいるバルバッドに攻めてくる。紅炎の言葉通りバルバッドに行かなければ、と顔を上げたアリババの脳裏に、白龍を止めてほしいと泣いたの姿が浮かんだ。
「そうだ、……!」
「アリババくん?」
「は、どうなったんだ? あいつは確か、皇帝の命令で城に留まってるって!」
アリババの言葉に、アラジンとモルジアナもハッとした。先程の兵士たちの知らせにはの名前は上がっていなかったしジュダルもの存在には触れなかったが、が煌の首都に留まっているのであれば、白龍の起こした内乱に巻き込まれている可能性が高い。慌ててレームやシンドリアの兵士に詳細を聞くが、の情報は一切入ってきていないらしい。もしかしたら死んでいる可能性まであると言われて、彼らは顔色を真っ青にした。
「さんは、お母さんのことを知らないって、白龍さんは言っていました……」
モルジアナが、ぐっと拳を握る。優しくて泣き虫な、純真なお姫様。白龍を慕う彼女はいったい今どうしているのだろう。
『私は、龍兄様を止めちゃいけないんです』
アリババの耳で再びの声が鳴り響く。は、今はまだ、白龍が別の人間に殺意を向けていると言っていた。きっと彼女は、白龍が母親を殺そうとしていることを知ったのだ。自分の母親でもある人間を兄が殺すと知ってなお、その手をとったはどんな気持ちだったのだろう。どんな気持ちで、白龍が母親を殺した先のことを託しにアリババの元へやって来たのだろう。は白龍の味方だから、あの場で白龍の起こすだろう反乱のことは口にできなかったのだ。何も言えない、引き換えに差し出せるものは何も無い、それでもアリババを信じて、兄の未来を託すためにやってきた。
「……」
きっとにとっても、母親殺しをするという兄の手を取るのは苦悩の果ての決断だったはずだ。けれども彼女たちは父と兄を殺されていて。国を奪われて。
はきっと生きている、そう信じたかった。あんなものを遺言にされては堪らないと思う。だっては泣いていた。苦しい顔で白龍と自分を止めてほしいと乞うた。玉艶だけは絶対に倒さなければならなかったのだろう。白龍のためにもそれだけはきっとにも譲れなかったのだろう。けれどもそれ以上は、国を割る戦乱は、の望みではないはずなのだ。はとても優しい人間だから。けれどもは白龍の味方でい続けると言った。望んでなくても悲しくても、誰かに止めてもらうことを願うしかない自身を心底嫌悪しつつも、白龍についていくことを選んだ。白龍のために、母親を殺すことを悲しいと思う気持ちもきょうだいと争う道を嫌だと思う気持ちも何もかも、捨てては白龍だけを選んだのだ。
(そう、だよな……)
譲れないものがあるなら、それ以外は諦めなければならないのだ。それが、守るということなのだ。
アリババは、少し離れたところに立っているシンドバッドとシャルルカンたちを見据える。
(俺も、選ばなきゃ、いけないんだよな)
泣き虫で臆病なだって、ただひとつ譲れないものを選んだのだ。散々ヘタレと言われてきたアリババにだって選べるはずだ。選ばなくてはならない、バルバッドのために。だけど、それでも願うことは間違いではない。は願った。そしてその願いはアリババの希望でもあるから、彼は今はそのために足を進めよう。
(絶対に白龍もお前も止めてやるからな、)
「……の情報は入ってこないのか?」
バルバッドで様々な情報を整理していた紅明に、紅炎は問いかけた。に関する情報は不自然なほどに入ってこないのだ。まさか白龍がを殺すとも思えないが、玉艶の命令によりずっと禁城で軟禁に近い状態にあった彼女が、反乱に巻き込まれずにいたとは思えない。皇女であるの生死すら判らない状況というのは明らかにおかしかった。
「白龍がを殺すわけがないとは思いますが……は弱いから、下手に巻き込まれてたら」
紅覇が彼よりも背丈の低い、小さな義妹の頼りない華奢な体躯を思い浮かべてぐっと唇を噛み締める。それに三人とも口には出さないが、が白龍に加担した可能性だってあるのだ。実際にが玉艶を殺すのに加担したことなど知らない彼らは、おそらくは洛昌を制圧した白龍に捕らえられているのではないかと考えていた。内気で臆病なが白龍のためとはいえ母親を殺せるわけがないと。彼らの予測はだいたい正解ではあったが、彼らはのことを少しだけ見誤っていた。が白龍に抱いていた負い目は彼らが思うよりも遥かに大きく、シンドリアで白龍が左腕を失ったこと、そして真実を知らされて無知だった自身を責めてもなお白龍にそれまでの自身の生を否定されなかったことで、更に募ったそれはずっと抱いていた無力感と合わさり、玉艶のことで迷いながらも白龍の手を取るまでに肥大化した。は紅明たちが思うよりも強くなく、そして弱くもなかった。そしてその負い目は、母親を殺してしまったことで兄に縋る愛情へと転化する。何もかも全て白龍のために捧げるそれを、脆弱と呼ぶ人間もいれば強いと呼ぶ人間もいるのだろう。
大義のために生きる彼らは、感情で生きる白龍やの動きを読み切れない。の近いところにいて、聡い紅明であっても、の抱えた罪悪感を理解し切ることはできなかったのだ。のそれは行動の端々には現れていても、ほとんどが胸の内に押し込められていたから、彼女を押し潰す程に苛んだ悲しみも罪悪感も、それを無理矢理に引きずり出してきた白龍しか知らなかった。
「が生きているのなら、白龍たちとの戦いは少し面倒になるな……玉艶を殺すのに加担していようがいまいが、今この状況にあればは白龍が戦列に加われと言えば拒否はできんだろう」
戦争で数え切れないほどの魔力を借りてきた紅炎たちだからこそ、その脅威はよく解る。マグノシュタットでの依り代との戦いで、を禁城に閉じ込めた玉艶の命令にどれほど歯噛みしたことか。極端な話、バルバッドで白龍が極大魔法をの魔力が尽きるまで撃ち続ければこちらが有利である兵力差など関係無く勝敗はつく。今のところそれをしないのは、過剰な程にを危険から遠ざけたがっていた白龍の心情に変わりがないからだろう。
「紅明様」
紅明の部下が、顔色を悪くして彼の元へ書簡を運んでくる。それを流し読んで、紅明の顔色もまた真っ青になった。食らいつくように書簡を握り締め、一字一句漏らすことのないように読み返していく紅明の姿に、訝しげな視線を向ける紅炎と紅覇。
「どうした、紅明」
「明兄、……兄上、それには何と書かれていたの、ですか?」
「……は、生きています」
絞り出すような紅明の声に、誰よりもの生存を希っていた紅明が喜びよりも遥かに苦しみの勝った声を出したことに、紅炎と紅覇はそれだけでは済まない何かがあったのだと身構えた。
「は白龍についたと……玉艶を殺すのに加担したと」
「なっ、」
「そして、玉艶との戦いで右脚を失ったそうです」
紅炎が眉間に皺を寄せ、紅覇が口を手で覆い息を呑んだ。泣き虫で臆病な義妹が母親殺しに加担したことも、片足を失ったらしいことも、信じ難かった。白瑛や紅玉が聞いたら卒倒するに違いない。あの、優しく内気で、けれど聡明なが、国を割る白龍に手を貸したなど到底思えなくて。きっと何かの間違いだと、はきっと白龍に強いられてそうしたのだと、少ない情報から希望的観測を導き出す。誤った情報である可能性だってあるのだ。けれども実際はが自分自身の意思で白龍についたことを彼らは知らない。が片脚を失った原因に関しては意図的に老将軍の二人がそう捏造しただけで、本当は白龍自身の手で斬られたことも、彼らは知らないのだ。
「嘘でしょう、あのが」
「……兄王様」
「何だ」
「を、討たなければなりませんか」
ほんの僅かに縋るような色がその声にはあった。もし紅炎が白龍と全面対決の道を取るのなら、は彼らの敵になる。どんなに紅明が目的の為にあらゆるものを切り捨てることができる人間であっても、可能性が残っているのなら諦めたくはなかった。愚かな感情だとは思う、それでも捨て難い。珍しく自分の感情を優先させるような言い方をした紅明に、紅炎は片方の眉を吊り上げる。
「……お前の好きにしろ、紅明」
生かすべきか、殺すべきか。正直なところ、が本気で白龍について紅炎たちに敵対するのなら殺してしまうべきだと紅炎は思う。それほどまでにの存在は脅威ともなりうるのだ。けれど戻ってくる可能性があるのなら、取り戻したいのは紅炎とて同じことだ。だからと近かった紅明に判断を任せた。だが、もし紅明が殺すべきだと判断したのなら、その時は。哀れな義妹をこの手で殺してやろうと紅炎は決意する。白雄たちの死を防げなかったのも、白龍を止められなかったのも、紅炎に責任の一端がある。もしが兄の死で道を踏み外したというのなら、あの白雄と同じ目をした義妹の瞼を、閉ざしてやるのは自分の責務でもあるのだろう。
(俺に二度あの人を殺させてくれるな、)
いつもその瞳が紅炎の心の柔らかい部分を突いていた。だから自分はあの可憐な妹からずっと目を逸らしてしまいたかったのだと、今になって自覚する。そうやって見逃したものが今に繋がっているような気がして、紅炎は珍しく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
150804