『龍兄様へ』
白龍がその手紙を見つけたのは、の身柄がほぼ強制的にシンドバッドに引き渡された日の夜のことだった。
「……!?」
白龍とが幼い日に作った、白雄たちの墓。そこに埋められている白雄の本をきちんとした場所に埋めなおそうと、墓というには拙い盛土と石を崩し、本を入れていた箱を開いた白龍は驚愕に目を見開いた。
そこにあったのは、もうほとんど朽ちかけた本と、比較的状態のいい一通の手紙。二人が本を埋めた日には当然入っていなかったそれを、白龍は震える手で持ち上げた。
「……、」
この手紙の差出人は、愛しい妹の他にはいない。カタカタと震える指でそっと宛名の墨をなぞれば、冷たい夜と土の匂いがする空気の中、の仄かな花の匂いが香ったような、そんな錯覚を覚えた。
――龍兄様、字を教えてください。
――龍兄様のお名前だけ、うまく書けないんです。
幼い妹が兄を亡くした悲しみからようやく立ち直りはじめた頃、帳面と筆を手に白龍の元へと駆けてきた時のことが思い出された。ぺらりと紙をめくれば、視界に入ったのはたくさんの人の名前。白徳、玉艶、白雄、白蓮、白瑛――家族をはじめとした多くの人間の名前が書かれていたが、その中で目を引いたのが幾つも幾つも書かれた『白龍』の文字だった。
――俺はこの字も、愛らしくて好きだが。
確かに少し癖のある字だが、らしく可愛らしい字だ。そう思って口にした言葉はにとって優しい慰めにしか思えなかったようで、龍兄様の字をお手本にするので、と白龍が名前を書くことを求められたのだった。当然快諾した白龍ではあったが、結局の癖字は直らなくて。
ぽろぽろと溢れる涙が手紙を濡らさないように、白龍は手紙を顔より高く掲げて仰ぎ見る。頼りない明かりで照らして開いた紙の文字を追った白龍は、その瞳を凍り付かせた。
『――この手紙が、開けられる日のないことを祈っています』
『けれどもし、龍兄様がこの手紙を読んでいるのなら、どうか謝らせてください。私、龍兄様に隠しごとをしていました』
『直接言葉で伝えようとしない私の卑怯を、どうかお許しにならないでください。それでもこの手紙を龍兄様が読んでいる以上、私はこのことを龍兄様にお話する勇気を、終ぞ持ち得なかったのです』
『この国の地下に、魔法の研究施設があります。私は、そこで八型魔法の研究をしています。施設や研究の存在は煌の国家機密に当たるので、全てを詳らかに書き記すことはできないのですが……』
『私が行っていた研究は、「死者を蘇らせる研究」でした』
「……!!」
地下の魔法研究施設。白龍が紅明たちから託された、マグノシュタットにも引けを取らない魔法技術と知恵の結晶。八型魔法に関しては天才という称号でも言い表すのに足りないほどの実力を持つが、そこに関与していない方がおかしかった。
思えば、確かに妹は時折魔法の研究だと言って数日姿を見せないことが儘あった。てっきり紅覇の部下らと部屋に籠っているとばかり思っていたが、きっとあの地下に行っていたのだろう。白龍が紅炎との戦争を始める前にあの施設の存在をが言わなかったのは、おそらく紅明が主導していた機関が簡単に白龍には隷従しないと判っていて、戦争までの短い日数を余計なことに費やすのを避けるべきだと思ったのか。何はともあれ今はの言葉を読み進めるのが先だと、白龍は自らの思考を遮った。
『細胞の操作による、身体の欠損部分の回復。心臓や脳の蘇生、或いは腐敗を抑止する魔法道具。これらの開発により、私たちは「死者を蘇らせる」ことに少しずつ近付いていました。統括者である紅明お義兄様の最終的な目的は、「死なない兵士」を作ることにあったようですが……私は、私自身の愚かな願望のために、人が踏み入ってはならない領域まで研究を進めてしまいました』
『……わたしは、』
『雄兄様と蓮兄様を、「作って」しまったんです』
文字の向こうに、慙愧と後悔で胸に爪を突き立てるの姿を、見たような気がした。筆跡は僅かながらにも震えている。きっとは、この懺悔を書き連ねながら、真珠のような涙を幾粒も落としたのだろう。
『人の形をした、人のような何か。私の細胞から成長させた魔法生物で、あろうことか私はお兄様たちの形を象ってしまいました』
『ルフのないそれらが自分の意志で動くことはありませんが、思ったように動かすことなら可能でした。例えば、私の知る雄兄様のように、蓮兄様のように、言葉を話させ、振る舞わせることが』
『もう一度、たった一度だけ。お兄様に撫でてほしい、抱き締めてほしい。一度だけでいいから、お兄様に、笑ってほしい』
『私は、』
「……、」
『私は、魔法を解きました。自分のしていることが、ひどく恐ろしくなりました』
『なんて浅ましい、命の尊厳を無視した行為だろうと、自分を恥じました。それなのに、叶わない現実を歪める方法を自ら捨てたことを、悔やむ自分がいました』
『外に出ようと、思いました。何もいなくなった部屋を出て、地上へと上がりました』
『龍兄様が、待っていてくれました』
『暖かかったんです』
『生命ある人の手が、意思ある人のぬくもりが、何にも替え難い尊さを持つと、私は知っていたはずでした。知ったふりをしていました』
『突然泣き出した私を、理由も訊かずに抱き締めてくれて、ほんとうに嬉しかったんです。あんな愚かなことをしなくとも、私には龍兄様がいてくださったのに、ほんとうに、ほんとうに、私は馬鹿でした』
『私は、死者を蘇らせる研究から離れました。お義兄様たちの遠征についていくことが多くなったからでもありますが、私はもうあの研究を進められないと思いました。今は、迷宮生物と同化させられた人たちが少しでも普段は普通の人のように過ごせるための研究や、治癒魔法の研究を進めています』
『喪われた命のやり直しなど、願ってはいけなかったんです。今生きる命を、明日に生きる命を、私は望むべきだったのに』
『研究から離れるにあたり、私は紅明お義兄様に全てを話しました。お義兄様は、私を責めませんでした。魔法生物を作る技術だけでも残してもらえないかと頼まれましたが、私はそれに頷けませんでした。そしてその我侭を、紅明お義兄様は許してくださいました』
『ひとつだけ、言い渡された条件がありました。私が生み出してしまった「彼ら」とそれに関する事柄の一切を、忘却の魔法で忘れることです』
『私の罪は、許されてしまいました。そしてそれを忘れずに自らを責めることも、機密保持のために許されない』
『今日、私の研究の引き継ぎは全て終わりました。後は、私が自らの記憶を消すだけです。本来は、こうして筆を執るのも許されないことなのですが、どうしてもこの言葉を残さずにはいられませんでした。龍兄様にだけは、知られたくないという気持ちと、知っていてほしいという気持ちがありました。その結果こうした形で、私の罪を書き残すことにしたのです』
『ごめんなさい龍兄様、私はお兄様たちの妹として、最低のことをしました。私は、私のしてしまったことも、私に大切なことを思い出させてくれた龍兄様の暖かさも忘れてしまうんです』
『自分の罪を忘れて、私はのうのうと生きていくのでしょう。それが私には、どうしても耐え難かったのです』
『だから私は、この手紙を埋めるお墓の周りに、種を蒔きました。雄兄様たちと昔庭で遊んだ時に咲いていた、優しい花の種を蒔きました。風雨にも気温の変化にも負けないよう、改良したんです』
『この花が、私の罪と龍兄様の優しさを覚えていてくれる、そう信じようと思うんです』
『封筒の中にも、同じ花の種を入れました。この手紙も雄兄様の本もこのお墓も、全てが朽ちて、私がいなくなっても、』
『その時には、新しい花が芽吹きます。誰も知らずとも、私自身が覚えていなくても、この償いの花は咲き続ける。新しい命を繰り返し、未来を描いてくれる。私がするべきだったことを、示し続けてくれる』
『この手紙を読んでいる龍兄様の隣に、もし私がいるのなら、どうか龍兄様に決めてほしんです。私は犯した罪を、その時は背負えるかどうか』
『身勝手な願いではありますが、私は私の未来を信じたいと思っています』
『ごめんなさい、龍兄様――私を救ってくれて、ほんとうに、ありがとうございました』
「…………ぁ、」
言葉にもならない声の欠片が、目を見開いて震える白龍の口から漏れる。くしゃりと紙の端を握り締めてしまったことも今は気にかけず、白龍は手紙を持ったまま駆け出していた。
「っ、はぁ……はっ、」
地下の施設に駆け下りて、白龍の形相にぎょっと驚いている魔導士たちにも構わず白龍は目録や書類を読み漁る。何十何百もの紙を捲って白龍がの名前を見つけたのは、七年ほど前の記録だった。
「……!」
死者蘇生研究統括、練。詳しい研究内容についての頁は、一部が黒く塗り潰されていた。きっとそれが、彼女の記憶ごと埋められた禁忌なのだろう。
額と片目を手で覆って、白龍は見つけた名前が涙で滲んでいくのを見ていた。十歳かそこらの子どもが、その才能と純粋さ故に辿り着いてしまった、人智を超えた領域の所業。は幼い子どもだったのだ、もう一度だけ兄に会いたい、そう望むことは赦されざる罪悪だったのだろうか。過去のは、今白龍が抱えているのと同じ葛藤を抱いた末に、夢の実現を前に自らそれに背を向けた。愛する人にもう一度会いたい、けれど。果たしてそれは、本当に自らの愛する人なのだろうか。愛する人の形をしていても、自らの意思で動くことがないのなら、それは。
「……そうだな、」
心からの感情で笑ってくれないそれは、虚しい操り人形だ。砂の騎士と亡国の王女の姿が、白龍の脳裏を過ぎる。
諦めるものか。最終的には仮のルフを入れての体を動かすことすら提案したシンドバッドに、反感を抱きつつも心が折れかけていた自分がいたけれど。
(お前を待ち続けよう、探し続けよう。二人で、未来を描いていくために)
過去の幻燈には縋らない。今生きる命を、明日に生きる命を、望み続けよう。
封筒を逆さにして、白龍は花の種を掌に受けた。
この花は、白龍が咲かせよう。白龍の罪をが躊躇わず背負ったように、と同じ罪を、白龍も一緒に背負っていこう。そうしていつか、緑の朝に辿り着いたなら。の笑う春に辿り着けたなら。その時は。
(今度は俺が、お前に花冠を贈るから)
だから、この種は白龍が撒き続けよう。償いの花を、二人で見る日を迎えるために。
160816