おかえりで良いのだろうか、とその人は言った。
きっとただいまで良いのだろうと、は思った。
「お前が誰か個人を愛するようになるとは、思わなかったんだ」
 ピィピィと飛び交うルフの中で、は静かにその人の言葉を聞いていた。自分の創造主。ルーツのひとつ。少しだけ、世界にズルをしたくなった人。自分が行くことはできないけれど、自分の願った世界の行く末を、少しだけでもその手に感じたかった人。触れれば崩れゆく仮初の精神体を、それでもソロモンは撫でてくれた。
「『お前』は『人』を愛するものだったんだ。全ての生命を慈しむ側面としての、神の欠片だったからな。だから俺は、お前が練白龍を止めるものだと予想していたんだ」
 もちろん、悩んでいたことは知っていると、ソロモンは苦笑した。神の端末としての本来の機能、そして自身の人格から考えても、はソロモンの作った世界の流れから逸脱してしまった白龍とは相容れないはずだった。白龍を、引き戻そうとするはずだった。
「愛したんだな。 ……最後まで。自分の意思で、傍にいた。お前は、人になったんだな」
 は、白龍を愛した。人間や生命という群体ではなく、練白龍という個人を愛した。それはソロモンにとっては誤算であり誤植であるはずなのに、ソロモンは清々しそうに笑っていた。
「ああ、お前を送り出して良かった。本当に……全ての命が、それぞれの意思で歩んでいく。それが即ち総体の幸福であるとは言えないかもしれないが……お前がひとつの命として歩み出すところこそが、俺の見たかった未来だった気がするよ」
 生まれた場所が場所なだけに心配したのだと、とんだ奇縁もあったものだと、苦笑する。けれど玉艶は――アルバは、を愛した。もまた、彼女を愛した。別離が憎悪でないことは、自身も今となっては解っている。ただ、許せなくても。奪われたものは戻らなくとも。それでもきっと哀しみは埋葬され、彼女に向けた怒りや遣る瀬無さはもうの胸の内にはない。
「……帰りたいか? そうか。良かった……戻りたいと思える世界で、良かった。やっぱり良いもんだな、報われることも」
 お前の友達も帰るところだから一緒に行けと言われて振り向けば、ソロモンの見せてくれた別の次元ではアリババがそこにいた魔導士たちに手を振っていて。ずきんと痛んだ心に、ソロモンは優しく言った。
「お前の選択は、愚かだったのかもしれない。正解ではなかったかもしれない。それでもきっと、お前はあいつに謝るし、あいつもお前に謝るんだろう。そうやって、正解を探しながら言葉を交わしていくんだろう。練白龍は、お前にありがとうと言っていた。その尊さは、お前の愛への報いなんだ。大丈夫だ、お前の周りにはお前が愛し、お前を愛する人間がたくさんいるから」
 白龍。の、愛する兄。血を分けた兄妹が愛し合う、禁忌だと謗られる関係。それでもは帰りたい。白龍の、傍にいたい。約束を、果たしたいのだ、ずっと一緒だと。ほんの一筋、けれど確かに、と白龍は繋がっている。僅かなルフの繋がりを通して、ずっと白龍が呼んでいるのが聞こえていた。帰り道の導はある。白龍が、呼んでいてくれるから。待っていてくれるから。白龍が、愛していてくれるから。
きっと、はもっと白龍に何かしてあげるべきだった。にできることはきっとあった。あの結末は、自身の過失だ。それでも、白龍が待っている。それで良かったのだと、無意味ではなかったのだと。だからもう一度、白龍と歩んで行きたい。後悔の海を越えて、もう一度出会えるから。さようならなど、告げるつもりはないのだ。
「練白龍は、花を咲かせている。毎日、種を蒔いて、花を咲かせて、また種を得て。お前と一緒に、過ちを受け入れて生きていくために。お前と一緒に、希望を抱いて生きていくために」
 がかつて封じた記憶は、ルフだけの存在になったことが原因なのか戻っていた。間違いたくないなんて滑稽に思えるほど、過ちだらけの生。それでも、白龍といた。幸せだった、それで良かった。過ちを償いながら、生きていきたい。失った家族は戻らない。けれど、新しい家族と共に歩んで行くことはできるのだ。はきっと、答えを得た。自分のしたいこと、自分自身の希望を、持つことができた。だっては、人間になったのだから。
「じゃあな、。もう、お前は俺の端末じゃない。俺はこの先、お前の人生を覗き見しない。ひとつの命として、お前の未来を見守ってる。 ……俺を、恨んでもいい。勝手に作って、放り出して、助けることもなく、手放すんだからな」
『………………』
 アリババの方へと肩を押すソロモンの表情が、苦々しく歪んだ。ほとんど知らない人のはずなのに、珍しいような、そうでもないような、何となく、そんな気がして。
 『ありがとう』
 ソロモンと向き合い、は彼の手を握る。兄弟子の父親の手は、思ったよりも大きかった。
 『私をこの世界に送り出してくれて、ありがとうございます。私は恨みません、あなたのことも、生まれてきたことも。龍兄様の妹に生まれることができて、本当に良かった。ありがとう、ソロモンさん』
 目を見開いたソロモンに微笑み、は握っていた手を離す。どうか自分を生み出したことを罪悪感のために後悔しないでほしいと、は笑った。
は白の柱だ。慈悲を示す、神の愛。その側面を得て産み落とされた、人の真似事をしていたルフ。生命の歓びを慈しみ、生命の未来を育むもの。哀しみを喜びへと変えるもの、聖なる光の護り。全ての生命を護り、希望を導くもの。それがの本質だ。たとえソロモンの手を離れようと変わらない、神の一片としての本質。でもきっと、それを恨むことはない。今までも、そしてこれからも。
 『ありがとう、私の神さま』
 主なる神の手を離れ、人の子は世界へと旅立つ。もう二度と会うことはない、最初で最後のさようなら。それでもきっと悲しくない。この旅立ちはソロモンの望みであり、何より自身の望みであるから。
 『さようなら、ソロモンさん』
「ああ。元気でな、
 白い世界から足を踏み出し、極彩色の世界へと帰る。は人として生きる。白龍と、一緒に生きていく。答えは得た、だから白龍に会いたい。常に光の下にいることができずとも、弱さを赦し、強くなれるから。
白龍の明日に、の想いは繋がっている。今はただそれだけで、眩いほどに幸せだった。
 
170121
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