くんの意識を戻す方法は見つかったのか?」
「……いいえ、まだです」
 シンドバッドの問いかけに、玉艶はどこかバツが悪そうに首を横に振る。寝台で眠るの頬をそっと撫でるシンドバッドの表情は、まるで愛しい恋人を見るようなものだった。
「彼女が目覚めてくれれば、人に魔法を与えた神の力が手に入る。この世界が、もっと豊かになるんだ」
「……白龍からを取り上げたのは、失敗だったかもしれませんね」
 玉艶は肩をすくめる。
「あの子は、とルフが繋がっていますから。を連れ戻すには、白龍を使うのが一番確実でしょう」
「しかし、彼の元でくんの意識が戻れば、白龍くんはくんを手放しはしなかっただろうね」
 の身柄の引渡しに最後まで断固拒否の意思を見せていた白龍が、半ば奪うような形でを連れて行ったシンドバッドに結局折れざるを得なかったのは、が目覚めるならという一縷の希望があったからだ。
が目覚めたとして、この子ははたしてシンドバッド様に協力するでしょうか?」
「それは、どういう意味だ?」
 問い返したシンドバッドに、玉艶はあでやかに微笑んだ。
「この子はきっと、目覚めたら真っ先に白龍を探しに行くと思いますよ」
「白龍くんは行方不明だ。見つかるまでは俺たちが保護すると言えば、彼女も首を横に振らないと思うが」
「それでも行くと、は言うでしょうね。こう見えて、頑固なところがありますから」
「……くんは以前、痛いほどに自分の役割を求めて悩んでいた。俺の元にいれば大役を果たせると知っても、白龍くんを探しに行くのか?」
「ええ、はもう、見つけてしまいましたから。愛と恋を知った少女ほど、手強いものはありませんよ」
「楽しそうだな、君は」
「娘の恋路を見守るのは、母親の楽しみですもの」
 くすくすと愉しそうに笑う玉艶に、シンドバッドは溜息を吐く。
くんにも君にも悪いが、くんを白龍くんの元へと行かせるわけにはいかないな。指名手配犯の彼に、神の欠片たる力を渡せないからな」
「あら、娘の失恋を慰めるのも母親の楽しみですよ。新しい恋を探して歩み出すところを見送るのも」
「……君の子どもたちに同情するよ」
 シンドバッドの脳裏に、外の世界へと行くことを諦めて兄について行くと首を振ったの姿が思い浮かぶ。あの日のは無自覚の内に白龍にそれを強いられていたが、今のはどうやら本心から白龍の傍にいることを望んでいるらしい。それも、もはや罪悪感や負い目ではなく、人の持つ最も厄介で面倒で深く美しく、強く尊い感情――愛のために。
自らを無価値だと責め苛んでいたは、白龍の隣で自らの役割を知ったらしい。否、役割や価値ではなく、自身がこうしたいと思う望みを、きっとは見つけたのだ。例え本人に自覚がなくとも、存在意義や役割など二の次になってしまうような、愛おしい感情を。
「それでも、くんにはこの世界の発展の礎となってもらう。そうだろう?」
「ええ――我が王の、御心のままに」

「ときにアリババくん」
「何ですか? シンドバッドさん」
 先ほどまでの激しい論議はどこへやら、ころっと穏やかな口調で話題を変えたアリババとシンドバッドに、二人の通話を傍で聞いていた紅炎たち兄弟は思わず呆れの表情を浮かべた。
「お前ら何なの……」
 ぼそりと呟いた紅覇にまったくだと頷く兄二人。けれど彼らの表情は、続くシンドバッドとアリババの言葉に固く凍り付いた。
「パルテビアでは訊きそびれてしまったが、君はくんの行方を知っているかい?」
「なっ……!?」
「…………」
「君もくんもほぼ同時にベリアルの能力を受けている。同じ場所に意識を飛ばされて、一緒に戻ってきたのではないのかな?」
「……ええ、そうですね」
「待ってよアリババ、どういうこと、は、は生きてるの……?」
「待て、紅覇」
 治る見込みのない仮死状態になったと聞かされていた義妹が、アリババと同じく死の彼方から帰ってきたと聞いて、紅覇はアリババに詰め寄る。それを制止した紅炎の横で、紅明は目を見開いて棒立ちになっていた。
「……
 ぽろっと、紅明の瞳から涙が零れ落ちる。地面に落ちたそれは、ぽたぽたと幾つもの染みを作った。
ここでアリババと再会した時に、もしやと思った。けれど、期待してはいけないと自身に必死に言い聞かせた。憔悴しきってバルバッドに戻ってきたアラジンから、白龍が最愛の妹を手にかけたと聞いて。それが、も望んだ上での結末だったと聞いて。あんなに幼かった義妹が、恋しく想っていた従妹が、本心から白龍の味方でいたのだと知って。
どれだけ、溢れ出そうになる嘆きを押し殺しただろう。白龍との戦で負けて裁かれた後、彼の気遣いで一度だけ会ったはまるでただ眠っているようだった。けれど彼女はもうここにはいないのだと、空虚な気持ちを抱えたまま流刑地にやってきて、不自由ながらも新しい生活の中で、ひっそりとを偲んで。
……!」
「……明兄」
 溢れる涙を拭くこともなく、泣き顔を隠すこともなく。ただぽろぽろと泣き続ける紅明の肩を、紅覇と紅炎がそっと叩いた。
生きていてくれた。もう二度と目覚めないかもしれないと聞かされてからずっと、胸の内に巣食っていた絶望がすうっと浄化されていく。例えが、情愛を宿した目で紅明に笑いかけてくれる未来は存在しないと、わかっていても。
ただ生きていてくれただけで、こんなに幸せで。救われた気持ちになって。ここに来てからどころかこれまでの人生でも数えるほどの号泣をしながら、紅明は不格好な笑みをこぼした。
「……良かった。彼女も帰ってきているんだね。それで、くんの意識体は? 君は誰も連れていなかったようだが」
「ああ、の意識体なんですけど……俺が目を覚ます前に、ジュダルが連れて行ったんです。『妹ちゃんは白龍のところに帰るに決まってんだろ』って言って」
「そうか……くんの身体は俺たちが保護しているから、すれ違いになってしまったな。ジュダルの行き先は?」
「あいつが俺に言うと思います? 白龍を探しに行ったのは確実ですけど。シンドバッドさん、本当に白龍の居場所知りません?」
「……残念ながら、知っていたら彼を手配する理由もないな」
「…………」
「そうですか」
 弟を指名手配しているシンドバッドの探るような声に、紅炎たちは眉間に皺を寄せる。そもそもシンドバッドが意識のないの体を保護するということ自体、彼らにとっては不可解なのだ。をいったい、何に利用しようとしているのか。アリババがの意識体を連れていたならパルテビアでが囚われていたのは確実で、紅炎たちはジュダルに対して内心よくやったと思っていた。
「……じゃあ、俺はこれで」
 アリババが、ぷつりと通話を切る。暗黒大陸を抜けた頃に、人の形から掌ほどの大きさのルフ鳥になったの意識体のことを思い出していた。
ジュダルに対して複雑に思うことは多々あるが、を連れて行ってくれたことにはアリババも感謝の気持ちを抱いていた。どうか白龍の元までが無事辿り着くようにと、願う。眠る体はシンドバッドの元にあっても、どうかの想いだけは。
あの場所で知った、という存在の本質。ダビデと繋がってこの世界を大きく変革していくシンドバッドにアリババが抱いた不安は未だ拭えず、紅炎たち同様シンドバッドがを何に利用するつもりなのかという疑念はある。自分たちの迷いと戦いに巻き込んでしまった可愛らしい少女が、目覚めて白龍の元へと帰れる日が来るように。それも自分の罪滅ぼしの一つだと、アリババはぐっと拳を握り締めた。
 
160821
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