ひそやかな、夜の静寂。宵闇の帳の奥で、白龍は帰ってきた妹の体に縋りついて泣いていた。その柔らかな脚に頭を埋めて、簡単に折れそうなほど細い腰を痛いほどに抱き締めて、ただ、愛しく優しい妹の温もりを確かめるように泣いていた。
……!」
「はい、龍兄様。はここにいます」
 幼子のように泣きじゃくり、ぎゅうっと縋り付く白龍。頑なにの前では涙を見せようとしなかった兄が、全てをさらけ出して泣いていた。はただ、優しく白龍の頭を抱き締める。母親のように、姉のように、白龍の涙と嘆きを受け止めていた。
「俺は、がんばったんだ」
「はい、龍兄様」
「でも、駄目だったんだ」
「はい、龍兄様」
「結局この国を建て直したのは俺ではなくて……でも、今は皆笑っているんだ。強く生きているんだ。俺ではなくて、良かったんだ」
「……いいえ、龍兄様」
 どんなに、悔しかったことだろう。どんなに、悲しかったことだろう。取り戻した国を、今度こそ守ると、そう決めたのに。自らの手で守ると決めたものを、他人に託さなければならなかった。それが最善でも、結果的に上手くいったとしても。誰に言えるはずもなかった。それでも、自分の手で守りたかったと。
それは奇しくも、アリババと同じ苦悩だった。自分はもうこの国に必要ない。皆、自分の足で歩いて行ける。ならば自分がこの国を守らなければならないと思う気持ちは、きっと誰にも必要とされない傲慢なのだ。それでも、そうであったとしても。
「わかっているんだ。俺も必要だった。俺の築いたものも、今に繋がっている。でも、それだけじゃ足りなかった、もっと、もっと役に立ちたかった。ずっとずっと、守りたかった」
「……はい、龍兄様」
 聡明な白龍は、解っている。白龍もまた、煌になくてはならない存在だったと。理解はできても納得できないのは自分の我儘で、託したものを支えていけばいいのだと、解っている。誰にも言えなかった悔しさと悲嘆を、愛しい妹はただじっと聞いていてくれた。まともな睦言など言えた試しがないと、柔らかい肌に埋めた頬を自嘲気味に歪める。
「……恨まないと言われた」
「?」
「俺が、壊した兵たちだ。植物を植え付けて操り、仲間と戦わせた。それを、恨まないと言われた」
 ――私はかつて、様に命を救われました。
――姫様に救われ、長らえた命です。きっと姫様の願いを叶えるために、生き延びていたのでしょう。
――姫様の願いが、貴方の願いなのであれば。致し方ありません、貴方を、恨みますまい。
――元より、煌のためであれば死んだとて戦う兵士になろうとしていました。煌の兵士は皆、そういった者たちばかりです。陛下の義が煌の義になったのであれば、煌のための犠牲をどうして恨みましょうや。
「……!」
「紅炎の軍であったから、お前のことをよく覚えていた。お前に救われたものが、数多くいた。将も兵も、お前の優しさを覚えていた。お前に与えられた命を返すだけだと、笑っていた」
 それは、だけの強さだった。衒いなく救い、躊躇いなく許す。癒し、治し、明日へと繋ぐ。は何もできない無力の皇女などではなかった。皆、の優しさを確かに慕っていた。残虐非道な仕打ちを、許してしまえるほどに。の繋いだ、許しだった。許すことで許され、救うことで救われるのだと。
「生き残った者たちも、お前の残した研究のおかげで、後遺症もなく普通の生活に戻してやれた。礼を言う、
 それは、皇帝としての白龍の言葉だった。煌を愛し尽くした姫を労う、皇帝の言祝ぎ。の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。あれは白龍と共に背負ったの罪だった。それを、彼らは許すのだ。一生恨まれて当たり前のことだと、思っていたのに。
「……ゆるされて、しまいました」
「ああ、許されてしまったな」
「守れなかったのに」
「それでも守ったのだそうだ」
「……優しいひとたちです」
「ああ、。お前と同じくらいに」
 くしゃりと、の顔が歪む。愛し愛され、許し許され、この世界はどんなに優しいことだろう。哀しいほどに愛おしい世界に、自分たちは生きている。涙を拭って、はくしゃくしゃに笑ってみせた。
「わたし、お兄様たちにお会いしたんです」
「……向こうで、か?」
「はい、大いなる流れの中で。お父様にも、お母様にも」
 それは、一瞬のようで永遠のような邂逅だった。白の世界で、触れ合った家族の残滓。言葉を交わしたわけではない。長い時間でもなく、むしろ須臾の再会だった。けれど、確かにそこで会えた。白雄にも白蓮にも、白徳にも、それから本当の玉艶にも。そこでは全てがありのままだった。剥き出しの魂が、触れ合った。
「兄上たちの本当の望みは、何だったと思う、
 紅炎に、憎しみの連鎖から世界を解放することを説いた白雄。白龍に、必ず仇を討てと復讐を託した白雄。どちらもきっと、本当の白雄で。だからこそ、今となってはその真意は解らぬままだ。白龍の問いかけに、はただ静かな笑みを浮かべて応えた。
「生きることです。生きていくことです。この世界を恨んでしまっても、愛してしまっても。それでもこの世界で生きていくことをきっとお望みだったのではないかと、私は思います」
「……そうか。なあ、
 白龍がそっと身を起こし、そっとの華奢な体を包むように抱きしめる。優しい妹の体は、泣きたくなるほど暖かい。が物言わぬ冷たい躯になったときのことを思い出すとぞっと背筋に寒気が走って、白龍はの体を強く強くかき抱いた。
「兄上たちのいたあの日から、随分と遠くまで来たな」
「はい……昔のことが、まるで夢のようです」
 兄も父も母も、死んでしまった。たった一人の姉は、眠り続けている。と入れ違うようにして深い深い眠りについた白瑛。いつか目覚める見込みはあるとはいえ、それがいつかはわからない。ぎゅうっと、錐でじりじりと胸を抉られるような緩慢で苦しい痛み。自分は周りの人をこんな気持ちにさせてしまったのだと思えば、もう二度と愚かな真似はできないと思えた。
「愛してるんだ、。もうどこにも、行かないでくれ。俺の傍から、離れないでくれ」
「はい、約束します。私、どこにも行きません。ですからどうか、龍兄様も……どこにも、行かないでください」
 兄が戦いを求めるのなら、戦うことでしか癒されないのなら。それでもいいと、愚かにも思った。その果てに兄が炎に呑まれると知ったとき、初めては心底からそれを後悔したのだ。置いていく痛み。置いていかれる痛み。も白龍も、今は痛いほどにそれをわかっている。同じ過ちは、二度と繰り返すまい。愚かでもいい、けれどどうか、ただ離れないでほしい。痛みを知ってようやく、も白龍も正しい愛の形に辿り着けたのだろう。
「俺は愚かだと思うか、
「いいえ龍兄様、ただ愛しいと、思います」
 宵闇の静寂の中で、ふたりの唇が重なり合う。ただ触れるだけの、静かで優しい口付けだった。
 
170605
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