『君の力を貸して欲しいんだ、くん』
 遠くにいる人とも映像や音声を伝え合える魔法道具に、は時代は進んだのだなとぼんやり思った。紅玉が渋い顔をして通信を繋いだのは、かつて七海の覇王と呼ばれた人。今や世界の全てに勢力を伸ばした、シンドリア商会の長。まさに世界の長とも呼べる、戦乱の世の中に平和を敷いた偉大な王。ひとまず自分が眠っていた間に保護してもらっていたことについては礼を言わなければと、そう思っていたはシンドバッドの言葉にぱちりと目を瞬いた。
「……私の力、ですか?」
 世界の全てを手にしたシンドバッドが、いったいの何を必要とするのだろう。首を傾げたに、シンドバッドは甘やかな笑みを浮かべた。
 『ああ。君は、特別な人間だ。俺と同じ、運命を見ることができる、俺の他にはたった一人しかいない存在だ』
「…………」
 シンドバッドの言葉に、は曖昧な、困ったような笑みを返す。シンドバッドは、まるで自分と同じ生き物がしかいないように語る。シンドバッドもも、誰とも変わらない人間であるのに。
「シンドバッド殿は、私に何を望んでいるのですか?」
『世界のために、その力を使ってほしいんだ。この世界を、根本から変えるために。遠い未来までも、平和なものにするために』
「……それはできません」
 静かに首を横に振ったに、シンドバッドは片眉を上げる。やや責めるような口ぶりで、シンドバッドはに問うた。
 『どうしてだ? 君は自分の命惜しさに、平和な世界を築く責任から逃げるのかい?』
「そう、思われても仕方のないことだと思います。でも、私は約束したんです。この力は、絶対に使わないと。たとえ、誰が……私や龍兄様が、死ぬとしても」
 白龍と、約束をした。絶対に、神の欠片として目覚めたその機能は使わないと。白の柱としての治癒の権能ならばいい。けれど、使う度に人間としてのの心を消失していく神の権能を、白龍が使わせるわけがなかった。
「私は、結局私の手の届く場所にいる人たちの顔しか、見えないんです。目の前にいる龍兄様の幸せを無視して、どこか遠くにいる人に一方的に幸せを届けるなんて、できません。私は、隣にいる龍兄様をまず幸せにしたいんです」
 隣にいる一人すら、幸せにすることで精一杯なのに。一体誰が、遠い未来の人々の幸せまでも背負えるというのか。人ひとりに幸せにできるのは、多くても自分の家族程度なのだと。それでもとても、難しいことだ。白龍ひとりを幸せにすることすら、泣きたいくらいに難しいのに。
 『そんなことはない、くん。君には多くのものが見えているはずだ。今までのことも、これからのことも……その全てを救う力が、君にはあるだろう?』
「……永遠に、平和な世界」
 ぽつりと呟いたの言葉に、シンドバッドは首を傾げた。
「完璧な平和とは、どこにありますか? 例えば、人々が争うことのない世界があったとしましょう。その世界では、人は何も害さずに生きられるでしょうか? 生きるために、他の生物を害して生きているのに」
 例えば食べること。誰にとっても当たり前なその行動さえも、人間以外の生き物の命を害している。
「ならば、例えば食べることをしなくとも生命活動に支障のない存在に、全ての生物がなったとしましょう。それはきっと、平和なことです。けれど、それで果たして争いはなくなるでしょうか。人の心は、二人であっても完全に交わりはしないのに」
 白龍と。兄と妹。とても近くて、理解の深い間柄。それでも、完全に解り合うことなどできない。お互いに意見がぶつかることがあれば、どちらか、或いはどちらもが、我慢や妥協をしなくてはならないのだ。
「ならば、心をなくしますか? 満たされる腹が無ければ飢えないように、満たされる心がなければ傷付くこともないのだと」
 ふ、とが微笑みを浮かべる。それはとても、寂しそうな笑顔だった。
「私が初めて見た戦では、たくさんの人が死にました。たくさんの、煌の兵士が死んでいくのを……ただ、見送りました。私は泣きながら、相手の国は鬼か何かなのではないかと思いました。こんな酷いことをする人たちが、あの優しい人たちと同じであるわけがないと」
 けれど、そうではない。きっと相手の国では、と同じように失われていく命を前に泣いていた誰かが、いたはずなのだ。
「きっと敵国の人間はこう思ったでしょう。『煌の人間には人の心などない。奴らは鬼か蛇蝎に違いない』と」
『……辛い、戦いだったのだね』
「その戦を、なくしてくださったシンドバッド殿に、感謝しています。本当に……これで、もう誰も泣かなくて良いのだと、そう思うのは本当です」
 ですが、とは続けた。その藍色の瞳に、兄や姉と同じ、峻烈な強さを宿して。
「煌も、敵だった国も。自分たちが望むもののために、戦いました。たとえば自分の子どもたちに、たとえば大切な誰かに、幸せな明日を届けるために。少しでもより良い明日を願って、皆生きて、戦ってきました。その全てを否定して、誰かひとりが選んだ正解に皆を沿わせることはできません。願う心や、夢が争いの原因だなんて……そんなふうに人を諦めるのは、とても悲しいことだと、思います」
『……力を持つ者には、責任がある。その力を、誰かの幸福のために使うという責務が』
「その力を徒に振るわないという、責任もあります。誰かの幸せを、侵さないために」
『君は、そんな無責任な子供ではないだろう! 君なら俺の気持ちが理解できるはずだ、力を持つ者の孤独も、使命も。俺たちは、同じだろう?』
「はい、シンドバッド殿。私たちは、同じです……私たち二人だけじゃなくて、龍兄様も、アルバ殿も、ソロモンさんも、アリババ殿も、ジュダルさんも、アラジン殿も……皆、同じです。同じ、人です。私たちは、神さまじゃないんです。シンドバッド殿」
『そんなはずはない、君には俺と同じ景色が……見えて、いるはずなんだ……』
「……私に見えるのは、」
 は、ずっと隣で対話を見守っていた白龍を振り仰ぐ。白龍にふわりと笑いかけ、シンドバッドに向き直ったは満面の笑みで告げた。
「隣にいる、龍兄様の笑顔です」
 それが、のすべて。という、人間の望む景色。それだけで十分と言うには、あまりに贅沢な願い。
 『君には、もっと広い世界が見えるはずだ。全ての人間が、笑っていられる世界も……君たちの失った笑顔さえ、存在している世界も』
 白雄たちのことを指しているのだと、そう察した白龍が眦を吊り上げるのをは慌てて押し留めた。たちですら完全には割り切れていない、兄が生きている世界への望み。けれどと白龍は、それを選ばないと決めたのだ。
「その世界で、唯一笑うことのできないのは誰ですか、シンドバッド殿」
『……白龍くん』
の力は、から心を奪う。誰が幸せになろうとも、が幸せになれないのならそんな世界、意味は無い。俺もも、笑顔をなくした世界です。既に破綻しているとは、思いませんか」
 人の不幸と幸福は、複雑に連鎖している。愛する妹がただひとり笑うことのできない世界で、白龍は幸福など感じない。今度こそ世界を憎んで、どちらかが壊れるまで戦い続けるだろう。
 『……残念だよ、くん。本当に、残念だ』
 俯いたシンドバッドが、深いため息と共にへの失望を表した。
 『俺の負けだ。確かに、君を犠牲にするのであればそれは矛盾している。悪かったね、くん』
 その言葉を最後に、シンドバッドとの通信はぷつりと途切れた。残された沈黙に、何故だか不安にも似た落ち着かない感情を覚えて。白龍を見上げたの頭を、白龍は優しく撫でる。
「……大丈夫だ、。お前は必ず、俺が守る」
「はい、龍兄様」
 ぎゅっと白龍の手を握り締めて、は微笑んだ。昔のなら、躊躇いなくシンドバッドの言葉に頷いていたに違いない。自分は何もできないと、役割を探していたあの頃なら。
でも、今は隣に白龍がいる。は一生を懸けて白龍を幸せにしていく。それでいい、否、それがいい。それはとても幸せなことだと、は静かに瞼を閉じるのだった。
 
170129
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