「……姫」
呼びかけに応えて振り向けば、そこにいたのは険しい顔をしたヤムライハだった。杖先をこちらに向けて肩をいからせるヤムライハの後ろには、他の八人将や国際連盟の金属器使いたちがいて。皆一様にを睨みつけるようにして敵意を向けていたけれど、は木漏れ日のように穏やかに微笑んだ。場違いなまでに優しい表情に、ヤムライハは一瞬呆気に取られたように息を呑む。けれどすぐにぎゅっと杖を握り直すと、低い声でに告げた。
「お願い、姫。防壁魔法を解いて。でないと……」
唇を噛み締めるヤムライハの表情の奥には、葛藤が滲んでいた。かつて師弟として、友人として親交を深めた。少し世間知らずで、可愛らしくて、どんな話も嫌な顔一つせずに聞いてくれて、お淑やかで、ちょっとドジで、優しい皇女。大切な、友人。でもその少女は、世界に背く叛逆者なのだ。『使者』たちを屠り、ルフに還る流れに逆らおうとする大罪人である彼女の兄らと同じく、生命の在るところ全てを防壁魔法で覆い、待ち望んだ使者と生命を隔てるもまた、除かなければならない叛逆者であるのだ。
「私たち、還りたいのよ。お願い、姫。私たちは、この世界から解き放たれないといけないの。だから防壁魔法を解いて。正しい流れを、私たちの望みを、阻まないで」
ヤムライハの、懇願めいてさえ聞こえる言葉には困ったように笑う。彼女自身は、防壁魔法で自分を守ることもなくただ立っている。何一つ武器など身につけず、頼りなく立っている姿は儚い一輪の花のようだ。これだけの実力者たちに敵意を向けられているというのに、しなやかな柳のようにその姿勢には揺らぐものがない。
「ごめんなさい、それはできません」
あっけらかんと言い放たれた言葉もまた、鳥の歌うように軽やかだ。ヤムライハの肩を掴んで押し退けたのは、誰だったのだろう。自分たちの悲願を軽んじられたと感じたのか、その声はひどく苛立っていた。
「先の内乱で真っ先に死に逃げた軟弱者が、今更死を厭うか!!」
に槍の矛先を向けた、ミラ・ディアノス・アルテミーナ。他の金属器使いや八人将たちも、に向ける視線を一層鋭くする。
「ええ、私は逃げました。失う痛みが怖くて、一番大好きな人にそれを押し付けました。私は一度、死にました。死んで、失う痛みを大切な人たちに負わせたんです。もう二度と死ぬわけにはいきません。龍兄様とも、お姉様たちとも約束しました」
「……姫! もう、その約束はいらないの! 皆でルフに還るの、寂しくない、悲しくない、皆が幸せになれるの、それが正しいことなんだよ!?」
悲鳴のような声を上げて、ピスティが前に出る。ピスティもまた、友情と大願の間で揺れていた。
「……私は、『皆』と一緒には行けないんです。私はどこにも行けない。私にはここしかない。だから私はここを守ります、私の幸せは、ここにしかないから」
「、姫……?」
どこか寂しそうに笑ったの言葉に違和感を感じて、ヤムライハが首を傾げる。けれどその違和感を探る前に、怒号がヤムライハの思考を遮った。
「兄に付き従うだけの姫が、ようやく自我を持って行動したかと思えば独り善がりの我が儘か!」
向けられたのは、剣なのか、槍なのか、炎なのか、雷なのか。その全てを、は黙って受け入れた。防壁魔法すら、張ることもなく。
「……っ!!?」
愕然と、目を見開く。てっきり防壁魔法に阻まれるだろうと思っていた。それが、跡形もなくは消え去った。血が、びしゃりと地面を濡らす。皆が呆気に取られたように一瞬固まった。けれど瞬きの後には、何事も無かったかのようにそこにが立っていて。
「貴様、何を……!?」
戸惑いつつも躊躇いなく振るわれた、鋭利な剣が吸い込まれるように華奢な少女の肩を切り裂く。剥き出しになった白い肩はざっくりと断面をさらけ出し、ダラダラと血を流す。けれどまるで時を巻き戻すかのように、見る見るうちにその傷も服の破れも塞がって。
「治癒魔法……!?」
ヤムライハの驚嘆の呟きに、辺りにどよめきが広まる。それはちょうど、大峡谷でアルバがユナンを相手取ったときの光景に酷似していた。切り刻まれても、燃え尽きても、砕かれても、何事も無かったかように再生する。無限に、傷一つなく。唖然とその光景を見ていた者のうち誰かが、畏怖とおぞましさを滲ませて呟いた。
「この、魔女が……!!」
は抵抗も、避けることすらせずに迫りくる刃をただ見つめていた。雪のように白い肌が切り裂かれ、真っ赤な血が噴き出す。そして、戻る。何度斬られても、突かれても。
「……魔女じゃありません」
骨が折れて崩れた姿勢から立ち上がりながら、は口を開いた。はアルバの娘だ。紛うことなき、アルバの子だ。憎らしく思っても、恨めしく思っても。愛しく思っても、悲しく思っても。それは変わらない。ずっとずっと、変わらない。
「魔女じゃありません。ただの人間です。この世界にいるのは皆、ただの人です。魔女も聖女も、王も奴隷もない。神も悪魔もない。ただ、ひとが在るだけです」
それはアルバもシンドバッドも、そして彼と繋がるダビデも同じだ。彼らもまた、自分の在るべき場所を間違えただけの人に過ぎない。神になろうとした、哀れな人たち。けれどは、それを愚かだとは思わない。ただ、悲しいと思う。
けれどそんなの思いなど知る由もなく、迫る刃は尽く彼女を貫く。ただ立っているだけ、ただ攻撃を受けるだけのに、どこか悲痛な色を宿した叫びが上がった。
「何故、攻撃しない! 何故、防壁魔法も使わない!? 何故、我らと戦わない!?」
「――そんなことも、わかりませんか。誇り高き戦士であるはずの貴方がたが」
凛と顔を上げたの青い瞳には、峻烈な意志が宿っていた。怒りでも、憎しみでもない。それでも強く、眩しい真っ直ぐな気持ち。深く息を吸って大地を踏みしめ、は祈るように叫んだ。
「わたしは、貴方がたと戦わない!!」
おそらくこの場にいる誰よりも、弱いはずの少女。けれど脆くはない、小さく可憐な少女は今、その強い意志を瞳に宿してこちらを見ていた。
「私は今、私が生きるために戦っている! 戦う敵は貴方がたではない! 私と戦うのは、自らの意思を持って私を殺そうとする者だけだ!! 書き換えられた意思のままに死のうと私に刃を振るおうとも、その刃は私を殺さない! 私の敵は、貴方がたではない!!」
白いルフが、激しく羽ばたいていた。殉教者はけれども、その愛するもののために自らの命をも守るのだ。
「ここは私の戦場である! 私を含む全ての命を守るのが、私の戦いだ! 意思なき者は退け、この戦いを阻むことは罷りならん!! 意思なき貴方がたに、私は殺せない!!」
どういうことだ、白いルフがあんなにを守るように集まっている。まるでを祝福するように、ピィピィとルフの鳴く声が響く。の言葉に激昂した刃が、再び振り上げられる。は恐れもなく、ただその軌道を見据えていた。振りかぶられたそれが、大きく弧を描いて。
びしゃりと、何度目かの水音がした。けれどは、動かない。ただ立ち上がって、自らを貫く刃を抱き締めるように腕を広げる。
――どうして、
引き抜かれた剣の衝撃で、が血を吐いた。
――どうして、
雷が、細い肩を砕く。炎が、白い頬を焼いた。
――どうして。
槍がその身を裂く刹那、ヤムライハは動いていた。突き飛ばすようにその小さな体を庇い、一緒になって倒れ込む。地面にぶつけた体が痛かった。誰かが叫んでいた。背後に躊躇う気配があった。けれどもヤムライハはその全てを無視して、腕の中の小さな女の子を抱き締めた。
「……もう、やめて、」
絞り出した自分の声は、みっともなく掠れて震えていた。
「もう、やめて、……!」
ぎゅうっと、強く強く抱き締める。もう、この体が傷付くのを見ていられなかった。ぼろぼろと涙を零しながら、腕の中にを閉じ込める。抱き締めた小さな体が震えていることに、ヤムライハは初めて気付いた。
そうだ、怖くないわけがない。は武人ではなく、身を斬られる痛みなど知らずに育ってきた優しいお姫様だ。痛くないわけがない、怖くないわけがない。何度でも治るということは、何度でも痛みを受けるということなのだ。
(私たちは、何を、)
こんな弱々しい幼気な少女に、何度も何度も痛みを負わせて。自分たちのしていたことが恐ろしくなって、ヤムライハは痛いほどにを抱き締める。けれど、自分たちを取り巻く群衆の表情に、ヤムライハは真っ青になって顔を上げた。
――庇うのか。守るのか。ルフに還る悲願を阻もうとする叛逆者を、守るのか。
ゆらりと振り上げられた拳には、石が握られていた。凍り付いたように固まったヤムライハの目に、その石が投げられたのがおそろしくゆっくりと見えた。防壁魔法のことも頭から飛んで、ただを庇うようにぎゅっと抱き締めて目を瞑る。けれど覚悟した痛みは訪れず、代わりに凛とした声が空を裂いた。
「――私の妹に石を投げるのは、誰ですか!!」
ふわりと、舞うような風が優しくの体をヤムライハから奪う。思わず腕を伸ばしたヤムライハの指先は、舞散った白い羽根に掠った。
「お姉様、」
白い女神のような姿を目にして一瞬驚愕に丸くなった瞳が、ふわりと緩む。たおやかな腕が、の体を包んでいた。
「……遅くなって、ごめんなさい。」
優しい姉の声を聞いた瞬間に、ぶわりと涙腺が緩む。それでもただ嬉しくて、は涙を拭って微笑んだ。
「いいえ、いいえ……! お姉様……!」
白く細い指が、そっとの涙を拭う。も白瑛もそれ以上言葉が出てこなかったけれど、それだけでよかった。ただこうして傍にいて触れ合えるだけで、どんなに幸せなことだろう。
「仔犬のようだとは思っていたが、よく頑張って吠えたものだな」
ぽんと、優しく頭に乗せられた大きな手は次兄のそれによく似ていた。少しだけ意地悪な声音と暖かなぬくもりに、ふっとの表情が緩む。
「紅炎お兄様……」
「話は後だ、お前の戦場を移すぞ。ここでは要らぬ邪魔が多い」
「行きましょう、白龍たちの元へ。あなたの信じる、正しさの元へ」
をしっかりと抱きかかえ、白瑛は空高く翔け上がる。そうして、躊躇うことなく羽ばたいた。
「……」
舞い落ちる羽根とルフをぼんやりと見つめながら、ヤムライハは友人の名をぽつりと呟く。未だ鎖から逃れられぬ彼女はけれど、確かに迷いへと手を伸ばしていた。
170905