手を離してしまえば、どこかに行ってしまうと思っていた。繋ぎとめておかなければ、自分のものではいてくれないと。
ああ、きっとそれも間違いではなかった。自分だけが募らせる恋心に焦って、焦がれて、手に入れるために手段を選ばなくなって。酷いことをした、たくさん傷付けた。柔い心に爪を立てて、傷付けて。それでも、傍にいてくれた。優しさを、与えてくれた。そして、こんなどうしようもない愛を受け入れて、愛してくれた。笑ってくれた。
長かった夜が明けて、終わりの朝はやってきた。そして、また始まりへと巡っていく。くるくると朝と夜とを繰り返し、廻りゆく運命の流れの中で、この手は確かに繋がれていた。
新しくなった世界も落ち着きを見せ始め、がアラジンの魔法で眠りに就いて一ヶ月と三日。いつものように目覚めての部屋へと行き、清々しい空気を取り込むために窓を開け放つ。花瓶に白い花を挿して、の寝顔を見て仕方なさそうに笑うのがここひと月ほどの白龍の日課だった。けれど、耳に届いた微かな声に白龍は思わず花を腕から取り落とし、寝台へと勢いよく振り返る。白い瞼がゆっくりと開いていくのを見て、白龍は花を拾うことも忘れて寝台へと駆け寄った。
「……おはようございます、りゅうにいさま」
ふにゃりと、溶け落ちそうなほど幸せそうな笑みを浮かべる。舌足らずな寝起きの声に、白龍は泣き笑いながらの手を取り、自らの頬に寄せた。
「本当にはお寝坊さんだな……おはよう」
「えっ、待ってください、わたし、結婚式なんて聞いてな、あっ、お姉様!? きゃああ!?」
「さあ着替えますよ、家族みんながあなたの晴れ姿を楽しみにしていますからね」
「ちゃんの花嫁姿、楽しみだわぁ!」
ずるずると白瑛たちに引き摺られ、がとある一室に連れ込まれていく。白龍は、にこにことそれを見送った。紅明は、女性のああいった活力は凄まじいですよね……と感嘆なのか何なのかよくわからないことを呟いていた。
身内だけの、ひっそりとした結婚のお祝い。実のところ白龍帝時代に籍だけは白龍が皇帝特権で入れていたのだが、眠っていたがそれを知るわけもなく。再び長い眠りに就いていた間に、結婚式の準備まで完璧に整えられていて。こいつ根本的なところは変わってないよなあ、と紅覇はいやにニコニコと無邪気な笑みを浮かべる弟を横目で見た。自分たちの立場と実の兄妹であることを考えれば、盛大な式は挙げられない。だがせめての花嫁姿を家族に見せたいという白龍の発案だった。いったいどこまでが外堀を埋めたい策略で、花嫁姿のを見たい白龍の欲で、けれど他人には見せたくない独占欲なのか推し量れない。一歩踏み外せば簡単に道を誤る白龍の愛を本心の愛情から許容できるは本当に神様か何かなのではないかと、紅覇は溜息を吐いた。
今のは、神の権能も無尽蔵の魔力も失っている。とはいえ比類ない治癒魔法は自身の研鑽した力であるし、有限になったとはいえシンドバッド並の魔力を宿してはいるから前とあまり変わりないようにも思えるのだが。それでもかつて、あり得たはずの世界全てを観測できたというは、それが全く見えなくなって何を思うのか。神の声が聞こえなくなったアルバ。運命が見えなくなって神になろうとしたシンドバッド。果たして、神の力を失ったは。
「は、変わりませんよ。人を愛し、命を愛し、優しい明日を祈る。神であろうがなかろうが、はです。俺の小さな可愛いですよ」
「何お前、思考読んでるの気持ち悪いな~」
平然と笑う白龍に、紅覇は悪態を吐く。それをも笑顔で受け流した白龍は、それより、と椅子に掛ける紅炎に鋭い目を向けた。
「何故あなたが父親の席にいるんですか」
「何故と言われても、俺が長兄だからな。白徳様がいらっしゃらない以上、仕方あるまい」
しれっと答えた紅炎は、今日ばかりは病人のような白い着物に流した髪ではなく、皇太子時代のような威厳のある格好をしている。腰にはアシュタロスの金属器だった剣を佩いていて、白龍の視線を追った紅炎は「白雄様たちの代理だ」と剣を撫でた。白龍がなんとも複雑そうな顔でそれを見ている中、きゃいきゃいと楽しげな声がして白瑛と紅玉が部屋へと戻ってきた。
「ちゃん、あなたもお入りなさいな」
「とても綺麗ですよ、」
僅かに開けられた扉の向こうで、が部屋に入りあぐねているらしい。小さな白い手がそっと扉を抑えて、恥ずかしそうな声がした。
「あの、龍兄様……その……」
「おいで、。お前の花嫁姿を心待ちにしているから」
「ええっと、笑わないで、くださいね……?」
意を決して、が部屋に入ってこようとする気配がした。けれど突如ばんっと大きな音を立てて開いた扉に、部屋の中にいたきょうだいたちは皆目を丸くする。そして、きゃあっと悲鳴を上げながらつんのめるが部屋に押し込まれて、勢いよくの背中を押したジュダルが悪戯の成功した子どものような笑顔を浮かべてドカドカと部屋に入ってくる。転びそうになったに周りの人間がいっせいに手を伸ばすが、の手を取って支えたのは鮮やかな赤色で。
「も、モルジアナさん!?」
「大丈夫ですか、さん」
「ジュダルくんってばひどいね! こんなに綺麗な花嫁さんに乱暴するなんてさ」
「まったくだぞ、ジュダル。そんなだからモテないんだ」
「うるせーな、アリババのくせに」
ドヤドヤと賑やかに入ってきた黒と、赤青黄。そして宴の来客はそれだけではなく、シンドリアで世話になったヤムライハたちや、復興作業を通して親しくなったレームやマグノシュタット、鬼倭の面々も次々にやってきて。
「誰がこんなに呼んだんですか」
呆然と呟く白龍に対し、兄姉たちが皆手を挙げる。紅玉は満面の笑みで、白瑛ははにかみながら、紅覇はしてやったりとした顔で、紅明はしれっと、紅炎は不敵な笑みを浮かべて。が驚きに口を丸く開け、白龍が脱力している間にも祝い客たちは皆、どかどかと卓を並べ、酒や料理を置いていく。
「やたらと広い部屋を使うなと思ったら、こういうことだったのか……」
肩を落とす白龍に、がおろおろと慌てながら駆け寄ろうとする。それを引き止めて、ピスティたちがこっそりと耳打ちをした。
「あの、龍兄様」
つんつんと袖を控えめに引っ張られて、白龍は顔を上げる。そして、思わず目を瞠った。
「その……きれい、ですか?」
結い上げられた、青みがかった黒の髪。清楚ながらも豪奢な、白を基調とし青と金の模様が入った花嫁衣裳。白銀と蒼玉の装身具や白い花が、清美にを飾っていた。丁寧に施された化粧が、可憐なに普段と違う美しさを与えていて。恥じらいながら見上げてくる妹は、世界で一番美しかった。
「りゅ、龍兄様!?」
の慌てた声がした。気付いたときには、大粒の涙が溢れていて。ぼろぼろととめどなく流れる涙が、どうしても止まらない。こんなに人の集まっている中で泣くなんて、愛しいの姿を目に焼き付けるべき時に泣くなんて、そう思って何度も目を擦るが止まらない。が慌てながらもそっと優しく白龍の目を押さえて、涙を袖で受け止めてくれた。
「せっかくの、花嫁衣裳が、ぬれて、しまうぞ。そんなに……きれいなのに」
「いいんです、龍兄様」
「すまない、……とても、きれいなのに、美しいのに、うれしくて、たまらないのに……幸せすぎて、涙が、止まらないんだ」
「……そう言ってもらえただけで、私も幸せすぎて、泣いてしまいそうです」
がそっと、白龍の頬を両手で包み込む。小さな手の与えてくれる優しさが愛しくて、白龍はその手に自らの手を重ねた。繋がる体温に自然と微笑みが溢れてきて、情けない顔のまま白龍は笑う。ようやく止まった涙を拭ってと再び目を合わせれば、微笑むの目元にも涙が滲んでいた。
「……よし、こうなったらお前が世界で一番可愛いと見せつけて回ろう。俺の可愛いだと、自慢して回ろう」
「そ、それは恥ずかしいのでだめです!」
顔を真っ赤にするを抱き上げると、部屋のあちこちから歓声や野次が飛ぶ。俺の可愛い妃です、と開き直って胸を張ると、がとうとう両手で顔を覆ってしまった。賑やかに始まった祝宴の中で、白龍とはたくさんの人からの祝福を受ける。
「一緒に幸せになろう、」
「もうずっと、幸せです。龍兄様」
きっとこれからも、幸せに生きていく。辛いことも苦しいことも、悲しいこともあるだろう。けれど隣に愛しい人がいるから、再び笑顔を浮かべることができるのだ。互いに与え合い、愛し合って、愛は愛へと還っていく。そうしていつか、新しい愛を育むのだろう。次の時代へと、繋がっていくのだろう。
どんなに夜が長くとも、明日もまた陽は昇る。終わりを祈る絶望の夜でも、永遠を願うほど幸福な夜でも、摂理は等しく人に流れゆく時を与える。望んで、求めて、奔って、笑って、泣いて。目まぐるしい今日が、明日へと繋がっていく。
生きている。生きていた。それぞれの生を繋いで、命は巡る。過ちもあった。遠回りもあった。けれどそれは決して、無価値でも無意味でもないのだ。そう信じて、と白龍は共に歩んでいく。一緒に生きようという約束は、まだ始まったばかりだった。
171012