このどうしようもない世界は、また続いていく。人は、自分には手に入らないものに焦がれ、愛しさを覚えるのかもしれない。眩いばかりの白である愛娘が微笑む姿を遠くから見下ろして、彼女はそのまま飛び去ろうとした。
「まっ、まってください……お母様!」
けれどその声に、思わず振り返ってしまう。可愛い娘の呼び声を無碍にはできなくて、彼女は自分の乗る絨毯の上にを招いたのだった。
「――まだ、母と呼んでくれるのね」
「……他に、呼び方がわからなくて」
空飛ぶ絨毯の上で向かい合う、母と娘。は彼女を呼び止めたはいいものの、何を言ったら良いのかといった様子で。彼女は冗談めかして本音を告げてみた。
「あなたよりずっと、小さくなってしまって。もう、『母』の面影なんてどこにもないのに」
「……笑うお顔は、同じですよ」
「……そう」
「龍兄様には、絶対に言いませんが……わたし、お母様と龍兄様の表情は、ときどきよく似ていると思うんです」
「それは、確かに白龍には言わない方がいいわね。八つ当たりされてしまうわ」
もっとも白龍がに向ける八つ当たりなど、可愛らしいものである。せいぜいがを泣くほど困らせたり恥ずかしがらせたりする程度のものだろう。
「……その、」
「…………」
「ええっと、あの……」
本題はもちろん、そんな他愛ない話ではないのだろう。けれどあの城で、穏やかな陽光の射す部屋で、お茶やお菓子を挟んでとりとめもない話に興じていた母子の時間は、彼女にとっても確かに安らぎを感じる愛しい時間だった。あんな時間はきっともうやって来ないと、なんとなくも彼女も感じていて。だからこそ回り道のように、他愛のない話をしてしまう。けれど、密やかな母娘の時間はもうお終いを迎えたのだ。はただひとつの愛を見つけ、巣立っていく。もう母親の優しい腕を、必要としない大人なのだ。
「……お母様は、私のことを奇跡の子と呼んで、慈しんでくださいました」
「ええ、そうね」
「でも私、もう神の欠片ではなくなります。今すぐでは、ありませんが……この世界が落ち着いたら、龍兄様たちと同じ、この世界の命になろうと決めたんです」
「私の愛したは、いなくなるのね……そう、言いたいところだけれど、どうしてかしら。あなたが神さまじゃなくなると聞いても、不思議と失望も絶望も湧いてこないのよ」
「……!」
「私は、あなたが私の神さまだから愛しかったのだとばかり思っていたけれど。違うのかしら……あなたを、私が産み落としたから? でもそれはおかしいわね、私は今まで多くの『こどもたち』を、ただ利用してきたのだもの」
「…………」
「私はきっと、『あなた』を愛したのね」
信仰を失い、それでも未だ理解しきれないぼんやりとした愛の欠片を手にしていた。少女の姿の母はどこか頼りなく、憐憫さえ抱かせる。けれどはどうしても訊きたかったことを確かめるべく、ぎゅっと拳を握り締めて穏やかな最後の時間に終止符を打った。
「……わたし、あのときお母様に訊きました。『お父様を、お兄様たちを殺したことを、後悔なさっていますか』と。お母様は、否定も肯定もなさいませんでした」
あのとき、彼女は笑った。が、母と訣別できるわけがないと。けれど既に別れの時は訪れた。それは憎悪による離別ではなく、成長による旅立ちであったけれど。
「どうか、答えてください。お母様、あなたは、お兄様たちを殺したことを、後悔なさっていますか」
「いいえ、していないわ」
「……そう、ですか」
「そう、後悔なんてしていない。だって、私が望んでしたことだもの。譲れない目的、願いのために焼き払った障壁だもの。でも……そうね」
彼女の脳裏に、いくつかの記憶が去来する。目覚めたが、兄の死を知って愕然と目を見開いた姿。日々泣き暮らしていた絶望。兄と共に彼女を討ちに来たとき、その目に浮かんでいた深い悲しみ。
「あなたにあんな顔をさせたことを思い出すと、胸が痛むの。もしかしたらこれを、後悔と呼ぶのかもしれないわ」
「……お母様。わたし、やっぱりわからないんです。お母様が愛しいのか、お母様が憎いのか。お母様が死んでも、私が死んでも、わからないままでした。お母様にお兄様たちへの後悔があれば許せたかもしれない。後悔がなければ憎めたかもしれない。それなのに……今、その答えを聞いてもなお、私は……」
憎くて、愛しくて、恨めしくて、悲しくて。簡単に、折り合いのつけられる感情ではない。もしかしたら一生、折り合いなどつけられないかもしれない。愛しきれたら、憎みきれたら、どんなに楽だっただろう。どんなに、救われただろう。
「わからない、けれど……それでもお母様には、伝えておきたいんです。私は、お母様にいつの日か後悔してほしい。お兄様たちを殺したことを、悲しむ日が来てほしい。そう願って、しまいます」
「…………」
「でも、それでも……私、お母様に感謝しています。私を愛してくれて、ありがとうございました」
深く頭を下げて、は立ち上がる。ふわりと浮遊魔法で舞い上がり、地上でハラハラしながら待つ白龍の元へ帰ろうとする。最後に一度だけ振り向いて、は悲しそうに微笑んだ。
「さようなら、お母様。愛しています」
母の元を去った愛娘を、彼女は何も言わずに見送った。そして、白龍に抱き留められたが二人手を繋いで去っていくのを、その背が見えなくなるまでずっと見ていた。
「……私も、愛しているわ。私の、可愛い小さな」
たとえその背に翼がなくとも、は広がる世界に足を踏み出すことを恐れはしない。それは、隣に誰よりも愛しい兄がいるから。ただひとつの、恋の在り処がいるから。眩しく尊いものを見るように、彼女は目を細めたのだった。
171017