「おや、。風邪を引いてしまいますよ」
机に突っ伏すの、反応がないのはわかっていた。くうくうと可愛らしい吐息を立てて眠るに、そっと自分の上着を掛ける。とはいえこのままにしておくと後で白龍がうるさいだろうと、紅明はの作った「ファミリア」に伝言を書いた紙を括りつけて白龍の元へ向かわせた。おそらくそう遅くならないうちに、白龍がを迎えに飛んでくるだろう。
「ファミリア」は、が作り出した魔法生物だ。紅明たちが危惧したのは、金属器が失われることにより世界の均衡が崩れること。そして、再び戦争の時代になること。今のは、主に金属器の代用品の研究に明け暮れている。「ジンもどき」のファミリアも、その副産物だ。が初めて作ったファミリアは、ザガンを小さく可愛らしくしたような容貌だった。名前もそのまま『ザガン』と呼ばれている。能力もザガンを元にしたらしく、八型魔法の行使に特化していた。とはいえその性格は白龍いわく「ザガンとは似ても似つかない」らしく、たいへんに人懐っこくよく人の言うことを聞くのだが。
は平和を愛するが、非戦主義ではない。好んで戦うことはないが、守るべきものが侵されるときはむしろ先頭に立って体を張る人間だということはこの前の一件で嫌というほど思い知った。言葉だけでも、力だけでも平和は成り立たない。白龍を始めとする兄姉たちの背中を、はよく見ていた。最近はずっと、紅明と共に解析していた金属器の資料と睨めっこしていた。寝る間も惜しんで金属器のシステムを新たに一から組もうと研究を重ねているを、倒れる前に休ませてやりたかった。妹に無理をさせないのも、「兄」の役どころだろう。
「さて、」
白龍が駆けつけるまで、少し時間はある。その間紅明は、の穏やかな寝顔を眺めることにした。ルフを書き換えられていたとはいえ、自分にとって一番大切なものを自ら無に帰そうとしていたのだと思うと、今更ながらにぞっとする。が恋をしたのもを守ったのも、自分ではなく白龍だった。自分にの隣にいる資格はなかったのだろうかと、自虐的に自問する。
けれど、すぐにその考えに首を横に振る。たらればの話は好かないが、もしがシンドリアから帰ってきたあとの結婚の話が流れていなければ、きっとは頷いていてくれたと思うのだ。それはきっと、自惚れではない。たとえそれが恋にはならなくとも、穏やかに愛を育んでいけたと思う程度には近くにいた自負があった。
(私は、あなたに恋をしていたんですよ)
例え相手が眠っていても言えるわけがない言葉を、そっと胸の内で呟く。いつから、淡い想いを抱いていたのか、それはもう覚えていないけれど。昼寝するとき、がいないとお気に入りの毛布があってもどこか寒かった。鳩に囲まれてわたわたと慌てて紅明に助けを求めるを、すぐに助けてやりたい気持ちともう少し眺めていたい気持ちの両方があった。戦場で兵士たちに心から尽くすその横顔を白雄と重ねたこともあったけれど、いつの間にか白雄とは重ねられなくなってしまっていた。そうしたひとつひとつの何気ないことが、いつしかどうしようもなく愛おしいのだと気付いてしまって。
願えるのなら、その手を引いて歩きたかった。あの綺麗な瞳に、たくさんの美しいものを映してやりたかった。その小さな手が、自分を求めてくれればいいと願っていた。
思えばもう、の知らない争いのない外の世界に白龍が連れ出した時点で、運命とかいうものは決まってしまっていたのかもしれない。紅明たちは、いつもこの優しい子を戦場へ連れて行ってばかりだった。どうして一度でも優しい世界を見せてやらなかったのかと、激しく後悔した夜もある。白龍はを、楽しくて明るい場所へと連れて行った。たとえその魂胆がどうであれ、白龍はに美しい世界を見せてやったのだ。白龍がを引きずり込んだ地獄がどんなに悍ましくとも、は白龍の隣で見た美しい景色をずっと忘れなかっただろう。
「それでも、そう悪くはなかったと思うんです」
負け惜しみのように、ぽつりと呟く。紅明たちと過ごした日々も、決して悪いものではなかったはずだと。
そう、悪くはない日々だった。は、穏やかに笑っていてくれた。紅玉と仲良く花や鳥を愛でたり、年頃の女の子らしい会話に花を咲かせたり。紅覇と並んで美容についての教えを受けたり、服について紅玉を交えてかしましく会話に花を咲かせたり。白瑛とは一緒に料理をしたり、縫い物をしたり、とても仲のいい姉妹で。紅炎にはその強面に怯えつつも、厚い信頼と尊敬を抱いていた。紅明との時間も、きっとにとっては楽しかったはずだ。そう、思いたい。は憎しみを知らない子だ。白龍が復讐の道に連れて行かなければ、きっとそのまま幸せな日々を送れていたはずだ。は玉艶を、愛していた。本当のことを知らないままでも、それなりに幸せだった。
けれど、それではいけなかったのだろう。悪くはない、けれど、それだけでは足りなかった。知らない方が良かったのかと問われれば、は絶対に首を横に振るだろう。悲しくとも、苦しくとも、真実と向き合う道を。弱いままでは、いられなかった。白龍を独りにしてしまっては、は生きてゆかれなかった。幸せで、穏やかで、それなりに悪くはない日々。その世界で、白龍だけはただ生きていくことができなかったから。
が死んだと聞いたとき、紅明の世界は一度終わったのだ。現実にはその先も、報いと贖いの生は続いたけれど。白龍を恨んだこともあった。を泣かせたくせに、幸せで穏やかな日々を奪ったくせに、あまつさえ命まで奪うのかと。どんな権利があって、を奪ったのだと。口にこそ出さなかったが、白龍はきっと察していただろう。「憎ければ刺しても構わない。殺されてはやれないが」とまで、言われたことすらあった。それでも自分にそんな権利がないことくらい、解っていた。紅明も紅炎も、白龍たちを見縊っていた。守らねばと侮り、本当に必要なことを伝えてやらなかった。中身のない、空っぽな「正義」を、どうして彼らが信頼できただろう。白龍による内乱を招きを殺したのは、自分たちのせいでもあるのだ。
『こうめいどの?』
日当たりのいい窓辺で、そっと目を閉じる。幼い日のを、少しだけ思い出した。
『こうめいどのも、おひるねですか? じつはも、おひるねなのです!』
白雄たちが生きていた頃のは、今よりわりとお転婆だった。寝入り端の紅明を捕まえて、紅明のお気に入りの日向に一緒に潜り込んで。今日は白蓮に鬼事に誘われているけれど、こっそり逃げてきたのだといたずらっぽく笑った。
『だって、蓮兄様がいじわるをなさるんです。がころぶまで、ぜったいにつかまえさせてくれないんです』
だから今日は『不貞寝』をするのだと、笑って白蓮の着物にくるまった幼い。こんなに楽しそうな不貞寝など見たことがないが、と思いつつ紅明が『白蓮様のお召し物を持ち出してよろしいのですか』と問えば、『雄兄様が「これでお昼寝でもしておいで」と貸してくださったのです!』と胸を張っていた。不貞寝の意味を果たして解っているのだろうかと思いつつ寝ようとした紅明に、はその身に余る大きな着物を半分ほどかけた。畏れ多いと断る紅明を押し切って同じ着物にくるまって寝たの横で、寝るに寝られなくなってしまったことを覚えている。気持ち良さそうに眠るを迎えに来た白蓮は、隣の紅明にものすごく羨ましそうな目を向けた。そして、の昼寝の邪魔をするなと他の兄弟達に引き摺られていったのだった。あれから何度もと並んで昼寝をしたが、もうと昼寝をすることはないだろう。悪くはなかった日々と一緒に、失われた密やかな幸福。あれはきっと自分の人生の中で、一番に贅沢な時間だった。
「……兄上?」
「……おや、白龍。思ったよりも遅かったですね」
「ザガンが、伝言の報酬に豆を寄越せとうるさかったんですよ」
まったく俺に対してだけは可愛げがない、とぼやく白龍の頭には、ファミリアのザガンが載っていた。その冠や髪を引っ張って遊ぶザガンを、白龍は指先で弾く。窓辺での微睡みから浮上した紅明は、白龍がを軽々と抱き上げるのをじっと見守っていた。白龍が礼を言って差し出した自分の着物を、受け取ってじっと見つめる。白蓮の着物はもう少し大きかった気がするが、気のせいだろうか。優しかった憧憬の日々は終わり、自分たちは今を生きている。彼らの目指した理想を追えているかはわからなかったが、それでもこうして、大切な家族と共に生きていた。
「では、失礼します。が世話になりました」
「いえ、をゆっくり休ませてあげてください」
「ええ、そうします。ありがとうございます、兄上」
ぺこりと頭を下げて、を抱きかかえた白龍は部屋を出ていく。ふたりを見送って、紅明はそっとの寝ていた机を撫でた。さっきまでの掛けていた椅子に座ると、まだ温い。
「……あなたを、一生愛しています」
せめて兄として、その行く末を見守ろう。亡き兄を求めて泣いたも、それでも人の領分を守ったを、人として、妹として愛そう。は紅明の神さまでも、生涯を共にする伴侶でもない。それでも愛している。家族で、いられる。
目の前の机に突っ伏して、そっと目を閉じる。仄かな花のような匂いが、鼻先を掠めたような気がした。
180110