穏やかな日々。春の光のように、暖かい、けれど、ぬるま湯に浸かるように、微睡むような日々。
時の流れすら忘れてしまいそうな中で、それでも時々、水底から浮上するようにして思考が息をする。
(これで、良かったのかな。これは、正しいことなのかな)
ひやり、首筋に氷を当てられたように、疑問が安穏とした毎日に突き刺さった。
どれくらい前のことかも正確にはわからない。
ある朝起きたら、微笑む長兄がの顔を覗き込んでいた。
間近にあった白雄の顔に驚いて飛び上がったの手を取り床から連れ出し、見慣れぬ侍女たちの中へと放られ、あれよあれよという間に飾り立てられて。漸く頭が覚醒したときには、再び白雄に手を取られ歩いていた。
常にない着物や簪の重さに気を取られ、気付いたときには祝宴などを催すのに使われる大広間に着いていて。
そこでようやくは口を開いたのだった。雄兄様、これはいったい。何から訊いたものかも判らず、そう言葉にするのが精一杯だったの頬を、どこかうっそりとした表情の白雄が撫でる。艶やかな化粧を崩さぬようにに触れる白雄の指に、は薄ら寒いものを感じて背筋を震わせた。
――俺とお前の結婚式だよ、。
その言葉の意味を理解した時にはもう、は白雄と共に大勢の人々の視線と歓声の中にいて。何もかもの知らないところで進んでいく婚儀にも、次々に現れては祝いの言葉を告げて去っていく人々にも、あふれる疑問をぶつけることもできず。解らないことだらけで頭の中が真っ白になったにできることと言えば、ただただ激流のようにを飲み込んでいく一連の出来事を、受け入れることだけだった。
そうしてを今いるこの離宮に閉じ込めた白雄は、これもの知らぬ間に煌の二代目皇帝となっていたらしい。
両親や他の兄姉たちがどうしているのか、自分達の結婚に何を思っているのかが気にはなったが、城内に有りながらあらゆるものと隔絶されたこの離宮では、それらを知るすべもなく。
数人だけいる侍女たちは皆、が何を訊いても柔らかく笑んで首を横に振るばかり。
白雄以外に話を出来る相手はおらず、その白雄に何かを訊こうとすると向けられる甘やかな笑みに、どうしてだかは口を閉ざさねばならないような気になって、結局彼女の中で生まれた数々の疑問は、彼女の中で緩やかに腐り朽ちていった。
白雄はをただひたすらに甘やかした。
の身の回りの世話は、髪を梳くのも着物を替えるのも白雄自身の手で行い、侍女たちがすることは離宮の管理と食事の世話くらいである。
果ては湯浴みの世話までしようとする白雄に、さすがにそれはと拒否しただが、白雄は「俺の楽しみを奪ってくれるな」と言うものだから、強くは出れずに結局為すがままになってしまう。
朝は同衾する兄に起こされ身の回りを整えられ、共に食事を摂ったあと白雄は皇帝としての業務のために離宮を出て行く。それから白雄が夜に戻ってくるまでは、白雄が与えた本を読んだり刺繍をしたり、庭に咲く花を眺めたりして過ごす。
戻ってきた白雄に、夕餉を摂りながら一日の出来事を話すのが常だ。限られたこの空間では、毎日代わり映えもしない内容の話であるのに、白雄は心底嬉しそうな顔をしての話に耳を傾けるのだ。
そうして夜も更けて、床に入るその時間が、にとって唯一恐ろしいものだった。
初夜の時、受け入れなければならないと頭では解っていたとはいえ、あまりにも理解の及ばないままに婚儀からの初夜を迎えたこと、近親相姦であるということもあってか、ほとんど未知に近いそれを酷く恐れて、は白雄を拒んでしまった。
弾かれた手に、拒否の意思を示す声に、暫しの間呆気にとられていた白雄だが、震えるの手を握り、それはそれは綺麗に笑ってみせたのだ。
そこからのことをはよく覚えていない。
もしかしたら兄は怒っていたのかもしれない。妻としての義務を拒否したに、憤りを覚えたのかもしれない。
白雄は始終無言だった。が怯えて震える声で許しを乞うても、破瓜の痛みに泣き叫んでも、ただただうつくしい顔を笑みの形に歪ませたまま、容赦なくを暴いた。
頬を張るなどして痛めつけられたわけではなかったが、の心情を置き去りに進められたそれは、陵辱と呼んで差し支えない。
行為がひとまずの終わりを見せた後に、白雄が自分の名前を呼んだことだけは覚えている。
、と自分を呼ぶその声は、ぞっとするほどの情欲と愛しさに満ちていて。今までに聞いたこともない声音で自分を呼ぶ兄がまるで知らない人のように思われて、そこでの意識は途切れた。
翌朝目覚めた時には先日同様、至近距離で慈愛に満ちた笑みを浮かべている白雄がいて。
それから、緩やかに流れていくままの日々が始まった。
白雄は優しかった。
話はできない上に数は少ないとはいえ、侍女たちは皆によく気を遣ってくれたし、白雄からは無聊を慰めるための本や花、異国の菓子や嗜好品などがよく与えられた。着物や装飾品なども白雄は与えたがったが、積まれていくばかりのそれに罪悪感を覚えたが一度おそるおそるながらも断ってから、時々贈られるに留まっている。
情事もあれ以降はどろどろにを甘やかすような行為が多く、が恐怖や痛みに泣くようなことはなかったし、行為の最中白雄は頻繁にの名前を呼ぶなどして気遣った。
時にはただ、を抱きしめて背中や髪を撫でながら眠りに就くこともあり、が心底恐ろしい思いをしたのは最初のただ一度きりである。
それでも、また何か白雄の気に障ることをしてしまえば、兄は無言の笑顔のまま自分を犯すのだろう。その思いがに夜を恐ろしく思わせた。痛いのも、気をやっても起こされて行為を続けられるのも怖かったが、それ以上に兄が一言も発さないのが、目の前にいる人間が誰だか解らなくなるのがには最も怖いことだった。
そして時々が白雄に何かを訊こうとするたびに向けられる笑顔は、あの時のものにとてもよく似ていて。きっとそれを声に出してしまえば、また怖い思いをする。
だからは、疑問を声にするのを諦めた。兄の望むままに、離宮でおとなしく過ごした。溶け落ちていくような日々の中、とうとうは疑問を生む思考そのものにそっと蓋をした。
きっと何も考えない方がいいのだ。きっとこの問いは、白雄にとって望ましくないものだ。
そうして閉じ込めた思考が、それでも時々に問いかける。
どうしてこうなったのか、自分がするべきだったことは。離宮の外は、白雄が治める国は、兄姉や両親はどうしているのか、今自分は、ほんとうは何をすべきなのか。
それは大抵昼のことだった。ひとりで本を読んでいるとき、風に揺れる花びらを眺めているとき、その疑問は浮かんできた。けれど。
行為のあとの気怠い空気の中、白雄に愛しげに見つめられてゆっくりと薄い肩を撫でられている時に、ぼんやりとした思考の底からそれがせり上がってきた。
(わたしは、どうして)
胸の内で膨れ上がる疑問。徐々に形をはっきりさせていく「今」への不信。
「ゆう、にいさま」
ひとりの時は浮かんでもすぐに消えたそれは、今目の前に問うべき相手がいることで、形を失うことなくの口を突く。
「わたし、ほんとうは、」
「」
しかし、ようやく輪郭を得た問いが紡がれる前に、白雄が優しくの名前を呼んだ。
その顔に浮かんでいる笑みは、
「まだ、足りないのか?」
肩を撫でていた手が、の腰を掴み抱き寄せる。
白雄の胸に押し付けられた顔から、血の気が引いていくのが解った。
白雄の表情は見えない、けれど、きっとその顔には。
ああ、自分は何を言おうとしていたんだろう、の胸に後悔が押し寄せ、それに呼応するようにの体がかたかたと震えた。
白雄はの耳に口を寄せて囁く。
「解ったのなら、それでいい。もう何も考えるな。怖い思いは、したくないだろう」
その言葉を最後に、は完全に思考回路に蓋をした。
150517