「貴方は今、幸せですか」
の目の前に座る女性が問う。
(この人は、誰だろう)
はだいぶ霞み始めた記憶を辿った。程なくして答えは見つかる。
(――ああ、この人は、私の)
「おねえ、さま」
と向かい合って座る白瑛は問うた。しあわせか、と。それに答えようと、は口を開く。
「しあわせ、」
しあわせって、なんでしたっけ。ぽつり、こぼされたの言葉に、白瑛は絶句し、の隣に座っていた白雄は満足げに微笑んだ。
「、幸せとは今のことを言うのだよ」
「ああ、それならば、瑛姉様、私はしあわせです」
「……白雄兄上!!」
「どうした白瑛。大きな声を上げるな、が驚くだろう」
「兄上は、今ご自分が何をなさっているのかわかっておいでなのですか……! これでは、これではが、」
悲愴な白瑛の嘆きにも、白雄は動揺も見せずに微笑むままで。はぼんやりとした表情で、白瑛の顔を見つめている。
いつも柔らかな笑みを絶やさなかった妹は、くるくると表情を変えていた愛らしい妹は、今はただの可愛らしい人形のようである。ある日突然長兄の正室として――皇后として、離宮に閉じ込められた妹と、抗議を重ね漸く会うことが叶ったと思ったのに。
「を、恋い慕う相手と連れ添わせてやってほしいと願ったのはお前だろう、白瑛。は、俺を慕っていると言った」
「どちらも、幼い頃の、子供の頃の憧憬です。それを本気にしたわけではないでしょう、兄上」
「そうだな。言ってしまえば建前のようなものだ。だが、憧憬が見せた夢とは言えど、薄れさせることなく守り続ければ現実となる。違うか?」
「貴方は……!」
暗に自分がしたいからしたと、しれっと言ってのける長兄に、白瑛は強く握り締めた拳を憤りに震わせた。
「いずれにしろ、は国外に出せん。お前のように武人であれば違っていただろうが……国に、城に閉じ込められる未来が変わらないのであれば、俺が過日の約束を叶えたとて構わないだろう」
兄と姉の言い争いの内容を理解しているのかいないのか、ぼうっとした顔でどこか遠くを見ているの肩を、白雄が抱き寄せた。
自分の体の動きにも無関心な様子のに、白瑛の歯がゆさが募る。
「兄上は、をどうなさるおつもりなのですか」
「どうもしない。ただ、大切に、愛するだけだ」
「……。は今、本当に幸せだと思うのですか? 幸せとは心が満たされることです、兄上はの心を満たしてくれていますか? あなたがほんとうに想いを寄せる方は兄上なのですか?」
「やめろ、白瑛」
言い募る白瑛だが、白雄の制止よりもむしろ、彼らを映してはいないの目尻から一粒だけ、ぽろりと流れ落ちたの涙のために言葉を切った。
「……?」
「わたしは……私、ほんとうは、いいえ、私はほんとうに、しあわせなんです、おねえさま」
は自身の中に芽吹きかけた矛盾を拒むように首を振り、私は幸せですと呟くように繰り返す。遠くを見ていた瞳は時化の日の海のように激しく揺れている。幼子を宥めるように、白雄はの頭を抱え込んだ。
「ああ、お前はいいこだ。大丈夫だから、もう休め」
ぽん、ぽん、とゆっくりしたリズムで抱え込んだの頭をたたく白雄。
やがての瞳はそれまでの凪を取り戻し、それも閉じられると、すう、と静かな寝息が聞こえた。
「……魔法ですか」
「ああ、八型魔法の簡単なものだがな。突然皇后の重圧を与えられて、混乱が大きいようだったから度々眠らせるために使っている」
「兄上は、本気で、」
「なあ白瑛。あまりを揺さぶってくれるな、最近ようやく落ち着きを見せ始めたところだ。また惑うようなことがあれば、が可哀想だ」
「……今が、かわいそうでないとは思えませんが」
「そうだろうな。だから白瑛、お前はもうに会わない方がいいだろう。お前が苦しくなるだけだ」
言外に、もうに会わせるつもりはないと告げながら白雄は立ち上がる。その腕に抱かれているの寝顔が穏やかなものであることが、今の白瑛にとって唯一の救いだった。
「また明日の朝議で会おう。おやすみ、白瑛」
優しい兄は、それでも妹を抱えて去っていく。閉じられた扉の音が、やけに大きく響いた。
悔しさに打ちひしがれる白瑛の脳裏に、幼い頃の思い出が蘇る。
両親が見守る中、庭ではしゃぐ五人の兄弟。
白雄、白蓮と白龍は鬼事に興じ、白瑛はと共に花冠を編んでいた。
何事にも素直に教えを受ける姉妹の編んだ花冠は、ところどころ歪さが残るものの、立派なもので。
転んで泣き始めた白龍をあやす白蓮たちに近付いていく姉妹。白瑛はその手に持った花冠を泣き止まない白龍の頭に乗せてやり、は、それを白雄に差し出した。
「俺にくれるのか? ありがとう、」
「えー、俺だけもらえないのか」
不満をこぼす白蓮をよそに、白雄は地面の花を摘み、手早く小さな輪を編み上げていく。
やがて出来上がった小さなそれを、白雄はの手を取りその指に通してやった。
「ゆびわだー! ありがとうございます、ゆうにいさま!」
「もらったなら、礼をしなければな。白龍、泣いていては礼はできないぞ」
「そーだぞ白龍。お兄様が教えてやるから、お前も白瑛に何かやれ」
「うぅ……はい、姉上、兄上、ありがとうございます」
涙の跡を擦りながら、白蓮に手を引かれ花冠を編み始める白龍。その危うげな手つきをハラハラとした面持ちで見守る白瑛。彼らの様子に笑みをこぼした白雄は、つんつんと着物の裾を引っ張る末妹に気づくと、そっと膝を折り、その大きな瞳に視線を合わせた。
「どうした、」
「わたし、大きくなってもゆうにいさまと一緒にいたいです、またゆうにいさまのために、お花のかんむりを作ります! ですから、大きくなったらとけっこんしてください!」
「ええっ、ちがいます雄兄様、はぼくとけっこんするんです!」
の発言に白雄よりも早く反応を示したのは白龍で、その目にはまた大粒の涙が浮かんでいる。それを見た白瑛はふふ、と微笑んで言った。
「は引く手数多ですね、白蓮お兄様」
「……修羅場の予感しかしないぞ」
作りかけの花冠を置き末妹に抱きつきに走ろうとする白龍の首根っこを掴んで止めながら、白蓮は白瑛に答えた。ここで笑ってみせる妹は将来大物になるだろうと思いながら。
「おや、俺でいいのか? 」
「ゆうにいさまがいいんです!」
憤慨したように声を張り上げると、の発言に衝撃を受けとうとう涙を零してしまった白龍。その二人以外は皆、のそれが幼子特有のものだと解っていた。離れたところで見守る両親や家臣たちも、微笑ましそうに笑っている。
「そうか。ならば大きくなったら、は俺の妃だな」
「はい! はゆうにいさまのきさきになります!」
なんの拘束力もない、大人になれば笑い話にしてしまうような、ままごとのような幼い約束。
それが解っていたからこそ、白瑛は口にしたのだ。
「兄上、が大きくなったら、ちゃんと恋い慕うお方と連れ添わせてあげてくださいね?」
「……ああ、そうだな」
白雄が答えるまでには間があった。それはが皇女だからだと、白瑛も理解していた。
きっと自分もも、国の礎として見も知らぬ異国へと嫁ぐのだろう。それでも、幼子の口約束だから、少しばかり、夢のようなことを言ってみせたって。
そう、思っていたのに。
きっとは、たとえ恋い慕う相手とではなくとも、幸せな結婚をするものだと信じたかったのに。
たとえその身に宿した特異な体質のために他国に嫁げずとも、皇太弟の息子たちのいずれか、或いは煌に尽くす臣下の誰かの元へと嫁ぎ、共に煌のための道を歩むのだろうと、そう思っていたのに。
こんな結末を望んだわけではなかった。
歪な「しあわせ」に閉じ込められた妹を救えない己の無力に、白瑛は唇を噛み締めた。
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