その日白龍は、立ち入りが禁じられている離宮へとひとり足を踏み入れた。
誰かに見咎められれば、例え皇子である白龍でも無事では済まされないだろう。ここは皇帝白雄の寵愛を一心に受ける皇后、彼らの妹が住まう――否、閉じ込められている宮なのだから。
白龍に散々「は妹だということを解っているのか」と言い続けた長兄は、ある日突然掌を返し妹を妻として自らの手元に閉じ込めた。忠告を繰り返しながらも、その目が自分と同じ相手を追っていると気付いていた白龍は、その一点においてのみ白雄を敵視していたが、この騙し討ちのような婚礼でその憤りははっきりと形を得た。
どれだけ抗議を重ねたとて気が済まない。長兄を弾劾すべく謁見を求めた白龍に下されたのは、シンドリア留学の命だった。
追い出されるようにしてシンドリアへと向かった白龍は、そこで新たな友を得、迷宮ザガンの攻略をも果たし煌へと戻ってきた。金属器の力を得て帰ってきた白龍は真っ先にとの面会を求めたが、あえなく却下される。聞くところによると姉の白瑛も、一度だけと会った後は何度会うことを求めても叶わないらしい。次兄の白蓮は白龍たちとは違うところに何か思うところがあるのか、に関して特に表立った動きは見せていない。ただ、それなりにの様子を白雄に尋ねたりはしているようだが。
とにもかくにも、白龍は白雄が許せなかった。
白龍が求め続けた最愛の妹を、あんな形で囲い込んで。白龍の手の届かないところへと閉じ込めて。
はきっと辛い思いをしているに違いない。泣いているに違いない。
寂しがりで、白龍よりも泣き虫な妹だった。そんなところが可愛らしくて、守ってやらなければならないと思った。いつも兄姉に守られてばかりの自分が唯一守れる、小さくて可愛い妹。愛しい。
だから、白雄の造った箱庭からを救い出してやらなければならない、そう白龍は決意した。幸いにもシンドバッドは白龍たちを食客として迎え入れてくれるとも言った。元より帝位からは遠い第三皇子だった白龍に、皇帝の椅子への望みはない。
(を連れ出して、共に逃げよう)
自国に背くような真似をするのも、兄姉を裏切るような行為にも心が痛む。
白龍が白雄を許せないのはに関するただ一点であって、白雄は白龍にとっても偉大な兄なのだ。煌の皇帝は白雄しかいないと、白龍も強く思っているし、その兄のもとで力を尽くしたいと願った。その時、も傍にいてくれたら。多少特異な体質を抱えているがために玉艶、ひいては組織に狙われている彼女であっても、この煌ならば共に生きていけると、思っていたのに。
けれどもう、煌はにとって安息の地ではない。
身の安全を守れても、あのような状況に置かれた妹が幸せであるなどと白龍には到底思えなかった。
――会っても、辛いだけかもしれませんよ。
白瑛の言葉が脳裏をよぎる。
暗い表情で俯きながら言った姉は、白龍に意思を問うた。笑顔も、何もかもを無くしてしまったようなを目にしても、それでもの手を取ってやれるのかと。
――いいえ、姉上。だからこそ、俺は救わなければならないんです。
白龍にとっては言われるまでもなかった。ならば、自分がその手を引いてやらなければ。
再び笑えるような日が来るまで。が、泣くたびにそうしてきたのは自分だった。の手を引いてやるのは、ずっと自分のはずだった。
その思いを胸に、がいるとあたりをつけた部屋の扉に手をかけ、そして。
「……?」
そこにいたのは確かに愛する妹だった。
しかしそのあまりの変わりように白龍は絶句する。抜け落ちた表情、自分に視線を向けている筈なのに何も映していない瞳。そして何よりも、その華奢な体には不釣り合いなほど膨らんだ下腹部。
ぱしん、と白龍は自らの口を手で覆った。そうしないと、長兄に対する汚い罵倒の言葉が飛び出してきそうだった。感情を無くしたようだと、聞いてはいた、覚悟してはいた、けれど。たとえ今のが聞こえた言葉を何一つ理解できない状況であろうと、にそんな言葉を聞かせたくはなかった。
「……子を、孕んだのか。兄上との、子を」
問いには答えずただぼうっと白龍を見上げるだったが、答えなど聞かずとも既にそれは目の前に提示されていた。見間違えようもないほど、の腹は膨らんでいた。おそらく臨月も近いのだろう。
頭を金槌で殴られたような衝撃を覚えつつも、白龍は一歩、また一歩とに近付いていく。
最愛の妹が、手の届く所にいるのに。愛するは、心身共に隅々まで白雄に蹂躙されてしまっていた。
「、俺が判るか。白龍だ。お前のすぐ上の兄の、」
言いながら、手を伸ばす。動かないの頬にその手が触れようとしたところで、白龍の手を背後から、ばしっと掴み上げた腕があった。
「駄目だろう、白龍。ここに入ってきてはいけないと、言ってあったはずだが」
「……っ、白雄兄上!」
「、」
「ゆうにいさま……?」
「そう、いい子だ。来たばかりだが少し出てくる。待っていてくれるな?」
「は、い」
白龍の手を掴みながらも、白龍を無視して進められていく会話。白雄は頷いたに微笑みかけると、有無を言わせない強さで白龍の腕を引いて部屋を出る。
「! お前は、」
部屋から引き摺り出される前にとに向かって叫ぶ白龍だが、その言葉は閉まった扉に遮られた。最後まで、白龍を映していながらもぼんやりと凪いでいた光のない目が、白龍の胸に焦燥の火を灯す。
「さて、白龍。どういうつもりだったかは聞かないでおく。離宮から出て、のことは忘れろ」
「どういうつもりかなんて、兄上が言えた言葉ですか? 再三俺には実妹だと言っておきながら、を孕ませて!」
「皇后が皇帝の子供を孕むことに、何か問題でもあるのか?」
「兄上は! そのような劣情を妹に抱くのはおかしいと、そう俺に言ったにもかかわらず、自分がを犯すことに問題はないとおっしゃるのですか?」
「……なあ、白龍」
語気も荒く白雄に詰め寄る白龍に、白雄はどこか憂いを帯びたような表情で穏やかに呼びかける。
「お前は、がどういう存在か解っているのか」
「……の体質のことをおっしゃっているのですか」
「いや、あれはただの片鱗だ。は、到底お前一人の手で守れるような存在ではない」
「それはどういう、」
「お前は、を自分だけの手で守ろうとするだろう。それではは傷付く。本来背負わなくても良い咎を課すのは、酷いことだとは思わないのか」
「おっしゃることがよく解りませんが……だからといって、あんな状態を見てが傷ついてないなどとは思えません」
「傷付いてなどいないさ」
「どこが、」
言い募る白龍は、白雄の表情を目にして言葉を詰まらせる。
「瞳を閉ざしていれば悲しみを知ることもない、心を閉ざしていれば徒に傷付けられることもない、自ら傷付く道を選ぶこともだ」
唄うように言葉を連ねる白雄は、嫣然とした笑みを浮かべていた。
その顔は、幼いころ自分たちを裏切った母が浮かべていた表情を切り取って貼りつけたかのようで。
「兄上は……傷付いてでも触れていたい世界の尊さを、に与えてやろうとはしないのですか」
「が傷付くのなら、尊さも何も意味を為さない」
間髪入れずに即答した白雄は、きっと妹の安寧こそを絶対だと信じてやまないのだ。
でなければ、きっと、こんな狂信者のような表情はできない。
白龍は、閉ざされた扉の向こうに思いを馳せ、手遅れだと囁く心の声に負けまいと、ぎゅっと握りしめた手のひらに爪を立てた。
150524