聡明な長兄は、末妹のことに関してだけは敢えて自ら愚かになりたがることがあって、けれども賢しさだけは変わらずに末妹を手の内に囲うために働くのだから始末が悪かった。
「、ここから出よう」
ぱちくりと目を瞬かせた可愛い可愛い妹は、白龍の言葉に首を傾げた。
「……どちら様ですか?」
「っ、」
その愛らしい唇から零れた言葉にざっくりと胸を切られたような痛みを覚えて、白龍はぐっと唇を噛んだ。白雄に繰り返しかけられた催眠の魔法や負わされた心理的な傷のせいで、の精神状態がかなり危うくなっていたのは白瑛の話や前回ここに忍び込んだ時に自分の目で見て知っていた。一応表情が戻り、言葉を取り戻したようではあるが、白龍が誰だかも判らないの様子に、泣き出してしまいたくなる。
「……忘れてしまったのか、お前の兄だ、白龍だ」
つかつかと歩み寄って、の頬に触れる。以前は触れることすらできずに白雄に締め出されてしまったが、今は白瑛が白雄を街に連れ出して引き留めていてくれている。女官は皆薬で眠らせた。を連れて逃げ出せるとしたら、今しかなかった。
「……?」
けれどもやはり不思議そうに首を傾げたままのは、誰かを探すようにきょろきょろとあたりを見回す。白雄を探しているのだ、と思った白龍はをそっと抱き締めて止めさせた。
「龍兄様?」
けれどが呼んだ名前にびくっと震えて白龍はを見据える。忘れられていたわけではないらしい、と安堵する気持ちと、ならば何故、と訝しむ気持ちに白龍は混乱した。
「龍兄様、こんなに大きかったですか……?」
その言葉と、記憶の奥底に眠っている想い出の頃のあどけない口調に、白龍は目を見開いた。まさか、と幾つか言葉を重ねれば、どうにもの時は大火の頃に逆行して止まっているらしく。白雄はあの頃もう既に成長期を終えていた上年を重ねてもさほど老けていないためたいして身長も外見も変わっていないが、白龍は身長も含めてだいぶ変わっている。火傷の痕に痛ましげに手を伸ばす可愛い妹に、白龍は目尻から涙を溢れさせた。
「お前だって、そんなに大きくなっただろう……!」
子供だって、姫だっているのに、と言えば、はピタリと硬直した。
「こども……?」
「ああ、お前には娘がいる。覚えていないか?」
「え……」
惑ったように自分の体を見下ろしたは、精神と噛み合わない体にはじめて気が付いたように目を見開く。白龍の突き付けた現実に怯えて拒むようにぎゅっと目を瞑って頭を抱えたを、白龍は横抱きに抱き上げた。
「……話は後にしよう、姫にもいつか会わせてやる。今はここから出るんだ、」
「でも、」
「兄上に閉じ込められて、怖い思いをしたんじゃないのか。お前がこうなってしまったのは、兄上のせいなんじゃないのか、兄上がお前を壊したんじゃないのか」
「雄兄様が……?」
「俺はお前を助けたいんだ、お前の幸せはここにはない」
離宮から出ようと一歩一歩進んでいく白龍の腕の中で、かたかたと震えて怯えたように縮こまる。外に出ることを拒絶するようにぎゅっと白龍の腕に縋ったは口を開いた。
「だめです、わたし、ここにいないと、ちゃんとここでいいこにしていないと、ゆうにいさまが、」
「……兄上が叱りに来れないところまで連れていってやるから」
一体長兄はこんなに脆い妹に何をしたのかと、暗い気持ちで白龍はを宥める。そのまま泣きそうなを抱えて離宮から出ようとする白龍の前に、立ち塞がった影。白雄がもう戻ってきたのかと身構えた白龍は、目の前の人物に目を見開いた。
「白蓮兄上……?」
今回のことは白龍と白瑛の計画だ。白蓮が何をしに来たのか判らずに、警戒した白龍はを強く抱き締めた。
「蓮兄様?」
きょとりとした様子で首を傾げたに、白蓮は眉を下げて笑う。苦々しい笑みに、白龍は息を呑んだ。
「……白龍、を渡せ」
でないと折檻では済ましてやれん、と据わった目で武器を構えた白蓮に、白雄の味方だったか、と白龍はを片腕に抱え込み、舌打ちをして剣を抜く。
「白雄兄上が何をしているのか、ご存知ないわけではないでしょう……!」
「お前こそ、自分が何をしているのか理解しているのか? 皇后を拐かしてどこへ行くつもりだ」
「が幸せに生きられる場所です!」
「馬鹿なことを言うな!」
ぴしゃりと言い放った白蓮に、がびくっと肩を揺らす。次兄の厳しい声に驚いて泣き出したに気を取られた一瞬で、踏み込んできた白蓮に白龍は剣を飛ばされた。
「言っておくが、お前が手配させたシンドリアの間者と舟は処分してある。兄上ももうじきお戻りになるだろう、お前と白瑛は当分謹慎だ」
「……そんな」
「もう一度言う、を渡せ白龍。俺だってお前に手を上げたくはない、ましてやの見ている前だ」
秘密裏に立てていた計画が露見し失敗したことに白龍は愕然と息を呑んだ。けれども譲るわけにはいかないの幸せと自身の想いのために、キッと白蓮を睨み付けて白龍は叫ぶ。
「兄上は、が哀れだとお思いにならないのですか! をこんな状態にした白雄兄上を肯定するのですか!?」
「……お前は、どうして玉艶たちがを狙っているのか、知らないだろう。下手にを他国に出せば、どんな目に遭うかも知らないだろう! たとえ兄上が過ちを犯していたとしても、は皇后で、姫宮だっている! を助けるだなど感情論を振りかざすな! 今のを他国に連れ出せば、戦争の火種になることも解らないのか!!」
「それでは、兄上はがどうなったとしても構わないと仰るのですか!? の心が壊れてしまっても、の煌の皇后としての立場を優先させろと仰るのですね!!」
「ッ……何故お前はそう、何事も理解しようとしない、この愚弟が!!」
白蓮自身痛いところを突かれた白龍の問いに、けれどの幸せを自分なりに考えて白雄についた白蓮は激昴して拳を振り上げる。けれどそれは光る半透明な壁に遮られた。反撃しようと腕を振り上げていた白龍は呆然と腕の中のを見下ろす。顔を覆って泣きじゃくるの掌の下から漏れ聞こえる泣き声に、白龍と白蓮はそれぞれに怒りを収めて後悔した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……、お兄様、ごめんなさい……!」
自分の存在が白龍と白蓮の衝突の原因となったことを理解しているのだろう、ただひたすらに謝罪を繰り返すに、彼らの間に居心地の悪い沈黙が落ちた。白龍とは防壁魔法が囲っているが、出口は白蓮に抑えられている状況下事態は膠着する。の泣き声だけが響く中、その空気を鋭い声が切り裂いた。
「誰が泣かせた」
冷たい声に顔を上げた白蓮と白龍の視線の先に、白雄が立っていた。峻烈な光を宿してぎらつく瞳に白蓮たちは凍り付く。えぐえぐと泣きじゃくるを見据えて早足で歩み寄ると、白雄はこんこんと手の甲で防壁魔法を叩いた。
「、聞こえるか」
「……ゆう、にいさま?」
ぐすっと鼻を鳴らして顔を上げたは、真っ赤になった目元を安堵に緩めると防壁魔法を解く。呆然としている白龍からを取り上げると、ハッと我に返った白蓮が白龍を取り押さえた。
「……!」
「これで解ったか、白龍。が必要としているのはお前の助けではなくて俺の存在だ」
諦めきれずに手を伸ばした白龍を、ぴしゃりと白雄の言葉が打つ。泣き疲れて眠ってしまったらしいを腕の中にぎゅっと抱え込みながら、白雄は踵を返した。
「、どうして」
「白龍、のことはもう忘れろ」
愕然とその後ろ姿を見送りながらもの名前を呼ぶ白龍に、白蓮は哀れみの視線を落とす。かなり怒っていた白雄の悋気がに向かわなければいいが、と思いながらも白蓮も白龍の腕を引いて離宮を出た。白瑛も白龍も、が自分たちの妹であることばかりに気を取られて、皇后という立場の重さを忘れてしまっているのではないだろうか。けれどそれを忘れてでも助け出そうとするほど、の状態は思わしくないということなのだろう。が白雄に嫁いでから初めて久しぶりにその姿を見た白蓮だったが、思わず白雄を罵倒しそうになったことだけは一生胸の内に秘めて墓場まで持っていこう、と決意する。いっそあの姿を忘れてしまいたいと願った。幸せであると信じた妹は、すっかり壊れきってしまっていたから。
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