長い夢を、見ていたようだと思う。
ここはのためだけに白雄が築いた箱庭で、檻で、鳥籠で、きっと何も知らないままでいれば楽園だったのだ。それがにとっての幸せなのか、不幸なのかということも、白雄の愛情なのか、驕傲なのかということも、解らないけれど。
 きっと、白雄の言うままに、白雄の望みを全て受け入れて何もかも知らずに白雄を慕っていれば、は幸せでいられる。白雄が、思い描くの幸せを享受していれば。
「これで、よかったのかな」
 決して、そうは思えないのだ。白雄と結婚してからの日々を、古びた本の頁を捲るように思い返しては呟く。は何も知らないのだ。どうして長兄が自分を娶ったのかということも、娘の名前も、両親がどうしているのかということも、心配してくれた兄姉たちが、自分が嫁いだ後どうしていたのかということも。
 長い夜を終えて目を覚ました後、は戻ってきた心を整理しきれずに思考の海に沈んでいた。ぼんやりと反応の薄いに昨日の疲れが残っているのかと思ったらしい白雄は、ゆっくり休むように言って離宮を後にした。
 の視界の隅で、薄紫色の花弁が揺れる。白雄がのために造った、花で溢れる庭。美しく可憐な花たちはの不安を慰めてはくれるが、ただひとりでこの庭園に立っているのが、ひどく悲しくて仕方なかった。きょうだいたちも自分も、もう鬼事や花遊びに無邪気に興じるような子供ではない。それでも、この庭にいつかのきょうだいたちの面影を重ねたくて、は俯いてぽろりと涙を流した。
……!」
 まるでその思いが通じたように自分を呼んだ声に、はハッとして顔を上げる。庭を囲む木々の隙間からガサガサと音を立てて、いくつもの葉っぱをつけた白龍が顔を出した。の心臓がどくんと音を立てて跳ねる。驚きと、確かな喜び。都合の良い幻覚でも見ているのではないだろうかと、自分の目を疑った。
「っ、龍兄様……?」
なんだな」
 謹慎中にも関わらず部屋を抜け出してきた白龍は、自分の姿を見てぱっと華やいだの顔に安堵して、駆け寄ってその体を強く強く抱き締める。痛いほどの抱擁に、夢や幻ではないのだと解って、の頬をぽろぽろと涙が伝い落ちた。
「今度こそ一緒に逃げよう、。何があっても俺が守るから」
 を助けたい一心で動き続けてくれていた兄に、は微笑む。白雄も白龍も、そして白蓮や白瑛も、皆の幸せをそれぞれに願っていてくれるのだ。優しいきょうだいたちが自分を想っていてくれることが解って、は泣きそうな顔で微笑み、そっと白龍の胸を押して離れた。
……?」
「……私には、娘がいるんですよね、龍兄様」
 は白雄の妃で、白雄との間に子をもうけていて。きっと自分が逃げ出そうとすれば、兄姉たちは真っ二つに割れる。優しい兄と姉はそれぞれにの幸せを願っていてくれるから、のために相容れることができない。すれ違うままに衝突すれば、きょうだいたちが傷付いてしまう。が逃げ出せば、国を巻き込んだ争いを起こしかねない。
「私、ちゃんと雄兄様とお話しようと思うんです、龍兄様」
 白龍が愕然と目を見開いて息を呑んだ。
は、自分が不幸なのか幸せなのか解らない。けれど、白雄に大切にされていることは解る。怖いことも、酷いこともされた気がする。でもそれは、何故かに何も教えようとしてくれない長兄が、言えない言葉の代わりにそれでもを繋ぎ止めようとしていた気がして。いろんなもののために、は逃げられないと思うし、逃げてはいけないと思う。
ただ、理由が知りたかった。白雄と向き合って、ちゃんと話したい。に何も言わずに突然結婚した理由も、をここに閉じ込めた理由も、兄姉にも娘にも会わせてもらえない理由も。
自分には、きっとすべきことがある。経緯はどうあれ皇后であるにはきっと、果たすべき義務があるはずなのだ。ここで溶け落ちるような安穏の日々を送ることは違うと思う。
「逃げません、けど、ここに引き篭ってもいられないと思います。私は、雄兄様の妃です。ずいぶん長い間そのことから逃げていましたけれど……きっとそれは、子供の我が儘だったんです」
「我が儘なわけがあるか……! お前は、兄上に無理矢理嫁がされて、否応なしに孕まされて、心を壊されたんだぞ!」
「私は皇女で、いずれは誰かに嫁いでいたんです、龍兄様。意に沿わない婚姻だったとしても、私はそれを受け入れて妻としての義務を果たさなければいけなかったんです。突然だから、お兄様だから、そう言って戸惑って泣いた私がきっと、」
 おかしかったんです、そう俯いたの瞳は涙で滲んではいるが、どこまでも澄んだ光を宿していて、白龍は言葉を詰まらせた。
「……龍兄様や瑛姉様が、そんな私を想って行動してくれたことが嬉しかったです。私のせいでたくさんの迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
、やめろ、お前は何も悪くないんだ。たとえ婚姻が皇女の義務だとしても、兄上は独り善がりにお前を閉じ込めたんだ、お前を壊したんだ。何も教えずに、ただ皇后という名の人形でいろと、お前と理解し合おうとすることもなく、何の断りもなしにお前の人生を縛ったんだ。そんなふうに笑うのはやめてくれ、諦めないでくれ、、お前がお前の幸せを諦めてしまったら、俺は……」
「大丈夫です、龍兄様、私はきっと幸せなんです。雄兄様も龍兄様も、瑛姉様も蓮兄様もみんな、私の幸せを願っていてくれます。私は雄兄様を、きっと愛せると思うんです。私は雄兄様のことが大好きで、雄兄様も私を好きだと仰ってくれたから、きちんと向き合えたら、きっと、」
……!」
 ぼろっと白龍の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。最愛の妹が、白龍の手に縋ってくれなかった。あんな凄惨な姿にされてまでも白雄を信じているに白龍は絶望を覚えた。白雄に酷い目に遭わされても、独善的な白雄の愛情に辛い思いをしても、兄姉や娘、ひいては煌のために白雄の手の内に留まると笑うが痛ましくて。白雄と話し合うなんて無理に決まっている、軟禁から解放されたければ逃げるしかないのに。
「龍兄様、最後にひとつだけ、愚かな妹の我が儘を叶えてくださいませんか」
 どこまでも綺麗な表情で笑うに、白龍は流れる涙を拭うこともなくこくこくと頷く。はきっともう決めてしまったのだ。泣き虫で、内気で臆病で、それでもこうと決めたら一途にひたむきにそれを貫く、痛いほど真っ直ぐなところは確かに自分たちの妹だった。は白龍の手を取らないと、解ってしまった。が白龍を含めたきょうだいや煌のためにそう決めたなら、もう白龍には何もできない。のために、という最大にして唯一の理由が消えてしまう。
「私と雄兄様の子どもに、会いたいんです」
 産んでから一度も会っていなくて、そう眉を下げて微笑んだに、白龍は絶対に連れて来てやる、と鼻声で言うと、涙をごしごしと拭いながら踵を返してその場から駆け出した。
 
150917
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