には、兄に対する恐怖から自らの思考を閉ざした日からの記憶が、曖昧にしか残っていない。
白龍いわく壊れていた間のことは、断片的にしか思い出せなくて。白雄が怖くて心を閉ざしていたことも、娘を産んだ時の痛みもかすかな喜びも、白雄を愛そうとして幼い憧憬に逃避していたことも、どこか遠くの出来事のようだ。それでも、白雄の声が、瞳が、に触れる全てが、への愛を示していたことは解る。
「しあわせ、」
水の中に沈んだ世界のような記憶の中で、浮かび上がるひとつの追憶。幸せですか、と問うた姉の表情がぷかぷかと浮かんでは消えた。の幸せは白雄の隣にあるのかと、白雄はの心を満たしていてくれるのかと、を案じてくれた。
「――――、」
腕の中の脆い小さな体をあやしながら、拙い子守唄を歌う。白龍が連れてきてくれた娘は、離乳はしているもののまだふにゃふにゃと頼りない体で。娘の名前を教えてくれようとした白龍に、名前は白雄から聞くと首を振って、危険を冒して我が儘を叶えてくれたことに礼を言った。もうすぐ白雄が帰ってくる。いろんなことを聞きたいけれど、ひとまずは娘の名前を聞きたかった。
の腕の中でキャッキャと無邪気に笑う娘は、あたたかくて。その存在を忘れ果てていた薄情な母親に、そのふくふくした手を伸ばして笑いかけてくれる。女官たちも何か思うところがあったのか、に微笑みかけると赤子の世話に必要なものを用意して下がってくれた。白龍は、離宮の庭で様子を窺ってくれている。見咎められれば立場が悪くなるから帰った方がいいと勧めても、これ以上悪くなりようがないと首を振って留まった白龍に胸が痛んだ。
「……?」
訝しむような声に、はそっと顔を上げる。の指を掴む小さな手のぬくもりに励まされながら、は白雄の目を真っ直ぐに見据えた。
「雄兄様」
「……どうしてお前がその子を抱えている」
「娘に、会いたくて。こっそり連れ出すような真似をしてごめんなさい」
「…………」
つかつかと歩み寄ってきた白雄が、じっとを見下ろす。の精神状態が本来のものに戻ったことも、誰かの協力を得て娘を連れてきてもらったことも、が白雄に言いたいことがあるのも、その聡明な頭ですぐに理解したに違いなかった。
「この子の名前を、教えてくださいませんか、雄兄様。私は、この子の母親になりたいんです。雄兄様と、ちゃんと家族になりたいんです。雄兄様、私、知りたいことが……知らなければならないことが、たくさんあるんです」
「……お前が知らなければならないことなど、何一つない。どうして俺の与える安寧に甘んじてくれない、」
「雄兄様がくださる幸せに、縋っていてはいけないと思うんです」
「誰がそれを許さないと言うんだ、他でもない俺がそれを許していると、望んでいるというのに」
の両肩を押さえて、白雄がの瞳を覗き込む。どくどくと緊張で跳ね上がる動悸を抑えて、は深く息を吸った。
「私が許せないんです、雄兄様。雄兄様はどうして、私をここから出してくださらないのですか? 私は何故、お兄様やお姉様、自分の子供に会うことも許されないのですか?」
「お前の安全を守るためだ」
「雄兄様は、一体何から私を守ろうとしているのですか?」
「お前の幸せを壊そうとするもの、全てからだ」
「私を脅かす人が、いるのですか? それは誰なのですか?」
「……お前自身の素質が、お前を脅かす。外の世界全てが、お前の幸せを喰らい尽くそうと牙を剥く。俺はお前を、守りたいんだ、」
「仰ることがよく――」
「お前を愛しているんだ、」
問いを重ねるを遮るようにぐっと掴んだ肩に力を込める白雄。それに怯えながらもは白雄の瞳を見返した。
「雄兄様は……私を愛してくださっているから、私と結婚したのですか?」
「他に何がある?」
「だって、雄兄様は皇帝で、私は皇女で、皇族の結婚は感情の問題ではないと、仰ったのは、」
「……ああ、あれか。お前も聞いていたのか」
昔を妃に求めた白龍に言い放った言葉をが知っていたことに、白雄は目を瞬かせた。
「だが、俺との結婚を望んだのはお前だろう? 俺はお前を愛しているから、お前の夢を叶えただけだ。感情だけの問題で済む話だったからそうした」
「……それでも、私がここでこうしていることが私の幸せだとは、」
「お前は何も知らないんだ、自分のことさえ。知らないことがお前にとって一番の幸せなんだ。知ってしまえば、お前は自ら不幸の道を選んででも進もうとしてしまう」
「……それは、お母様のことと関係しているのですか?」
母上はもういないんだ、そうに言い聞かせた白雄の言葉が蘇る。あの時もきっと、白雄はのためを思っての耳を塞いだのだ。幼子だったが傷付かないように。玉艶の存在に触れられ硬直した白雄に核心が近いと思ったは言い募る。腕の中の娘は、無邪気に笑っていた。
「教えてください雄兄様、私は何を知らされずにいるのですか、私はもう守られてばかりの子どもでいてはいけないんです、守られるべきはこの子です、私は、ここから出なければ、守る側にならなければいけないんです」
泣きそうな顔で言い募るに、白雄は俯く。の肩を押さえていた手から力が抜け、ずるりとの腕を伝って白雄の手が落ちていく。
「……俺が守りたいと思うのは、お前だ、。守ろうとすれば、外に出てしまえば、お前は傷付くんだ、そんなことを俺が許すと思うのか」
「雄兄様……、!?」
顔を上げた白雄の瞳に、は驚愕して息を呑む。ぽっかりと夜の闇が滲む、空恐ろしいまでに平坦に凪いだ瞳が、を映して呑み込んだ。震えたの腕からやわい小さな体を取り上げ、が制止する間もなくその脆い首を縊る。悲鳴さえ上がらず、ぽきゅっとあまりにも呆気ない音を立てて、小さな命は散らされた。
「ゆ、雄兄様!? なんで、どうして、その子は、その子は私と雄兄様の!」
白雄の体に取り縋り、恐慌に叩き落とされたが必死に、白雄の手の中でぐにゃりと曲がった小さな体に命を呼び戻そうと何度も何度も魔法をかける。けれど既に死んでいる体に生命が戻ることはなく、混乱と恐怖で泣きじゃくるの手を取りそれを止めさせると、白雄は光の無い目を笑みの形に歪めて軽い骸を床に落とす。我が子に対するあまりに非道な行為に、は目を見開いてぼろぼろと涙を溢れさせ、どうしてと繰り返した。
「玉艶がお前に、俺たちにしようとしていることはこういうことだ、可愛い小さな。あの日お前が来てくれなければ、俺たちはこうして実の母親に殺されていたんだ。あの悍ましい魔女は生きている、だが俺はお前をあの女にくれてやる気は微塵もない」
「え、あ、うそ、」
「お前が知りたがらなければ、お前がここから出ようとしなければ、この子は死ななかったのにな、。だが仕方が無いことなんだ、お前を守るためなら、お前がそれで解ってくれるなら、俺は何人だって自分の子を殺しても構わない。お前の幸せより尊い命など、俺の前には存在しないんだ」
「あ……」
捕らえた手首を強く強く握り締め、白雄はをその場に押し倒す。恐慌にぐるぐると焦点を失いさ迷う瞳から壊れたように涙を零し、がたがたと震えるからはもはや言葉を成さない声の断片だけがこぼれ落ちていた。
「姫のことは残念だったが、次の子をつくろうか、」
二度とここから出ようなどと、考えないように。
そう言ってにっこりと笑うと、白雄はの唇に自分のそれを重ねる。あたたかいそれが重なった瞬間、の頭の中で何かがバチンと切れる音がした。
「……、兄上……!?」
白龍がそれに気付いたのは、全てが終わってからだった。庭にいた白龍は突然急な眠気に襲われ、目が覚めればあたりは既に真っ暗で。慌ててのいる部屋を窺っても様子が判らず、焦燥に駆られて部屋に飛び込めば、そこには絶望が転がっていた。
「……ああ、白龍、やはりお前だったのか、俺たちの娘を連れて来たのは。庭園でこそこそしているから何かと思えば」
の上から退いた白雄が、気だるげに白龍を見上げて着衣の乱れを直す。その下で虚ろな目をして震えている最愛の妹の惨状を目にして、白龍はその場に崩れ落ちた。あまりに凄惨な光景に、憤りすら折られて立ち上がることも出来ない。白龍の視線に気付いての体に自分の着物をかけた白雄の肩越しに、焼き付いた光景が白龍の脳内をがんがんと強く打ち付ける。白と赤を撒き散らされた小さな細い体はぐったりと弛緩しきっていた。掠れた呼吸音を上げる喉。がらんどうな、闇さえ映さない瞳がとても、正気の人間のそれとは思えなくて。
「、」
白龍の声にも反応すら示さない。惨い凌辱の跡がありありと見て取れる華奢な体を自分の着物にくるんで抱き上げると、白雄は小さな塊を床から拾い上げて無造作に白龍に寄越した。
「これを白蓮に渡してこい、白龍。明日は葬儀だ」
ぐにゃりと柔らかい、しかしところどころに血の滲んだ布にくるまった何かを渡され、白龍は瞠目する。
「女官の一人に側室が紛れ込んでいた。それがに嫉妬してその子を殺した。白蓮にそう伝えておけ」
「その子……!?」
白雄の言葉に目を見開いて腕の中の包みを注視する白龍。それが自分がここに連れてきたと白雄の子供だと、その無残な死体だということに気付いて白龍の喉はひゅっと音を立てて軋む。それを見下ろして、白雄はくっと口角を持ち上げて笑った。
「ああ、それから、ここに来るのは最後にしておけ、白龍。可愛い可愛いに、怖がられたくはないだろう?」
「……兄上は、に、何を、」
「よく言い聞かせただけだ。外の世界も、外に連れ出そうとする人間も、とても怖いものだとな」
壊れた人形のように白雄に抱えられていると、腕の中の小さな死体に、白龍の脳は許容量を超えて感情の奔流を引き起こす。悲哀、憎悪、憐憫、恋慕、それらの感情をぶつけようとして、拳を振り上げて、唇を噛み締めてそれに耐えた。
だから言ったのに。
ぶち、と噛み切れた唇から、赤い血が溢れる。
これが幸せなわけがあるか。
行き場を無くした拳を、白龍は強く強く床に打ち付けた。
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